叙事詩と小説
2004年2月4日 Web日記というジャンルと、「叙事詩・悲劇」(例えば『オイディプス王』『イリアス』『マクベス』など)や「小説」(あるいは「私小説」)との関係について。
まずは、キャリル・エマーソン「外言と内言――バフチン、ヴィゴツキー、そして言語の内化」(『ミハイル・バフチンの時空』せりか書房 に収録)からの引用。
小説と叙事詩との区別は、・・・多様な知覚された時間の質の――バフチン流に言えば複数の「時空間(クロノトポス)」の――あいだの関係なのである。叙事的語りは「絶対過去」に起こり、小説の時間は真に新奇(ノヴェル)であると述べるとき、バフチンは実は存在論的弁別を行っているのである。・・・時間を知らない世界について語るとき、われわれは必ず「叙事詩」しているのだという。
一方、時間を十全に体験する世界について語るとき、われわれは必ず「小説」しているのである。小説は叙事詩的全体性から疎外されている。しかしながら、バフチン的概念構成が結果するものは、孤独ではなく自由である。特徴的なことに、小説の登場人物は、所与の物語のなかで役割以上のものである自由を体験する。対照的に、叙事詩の英雄(ヒーロー)−主人公は主題(プロット)から切り離せず、その人生を生きる道はひとつしかない。
(中略)
一方、小説の主人公は、中世の舞台の道化に似ている。その役割は一時的なものであり、仮面は自己ではない。・・・この人間の複数の役割を考えから追い払っても、まだ残るものがある。あの余剰、自己と社会的規範との不一致、あの違った衣服に着替える能力、それが自由なのである。
小説家は故郷のない主人公、つまり発展する自由がある主人公を選ぶ。小説は作者にも発展する自由、言わば作者が自分の作品の平面で自分自身のイメージと戯れる自由を与える。
(キャリル・エマーソン「外言と内言」)
上のところの「叙事詩・悲劇」や「小説」を、「Web日記」と置き替えて読んでみるのもおもしろい。日記にも、その二つの傾向が見られるような気がする。あるいはWeb日記を私小説という日本独特のジャンルとみなしたとき、それはどちらに近いのか? ちなみに私小説では、自己は否定と肯定のあいだを揺れ動く。いずれにしてもWeb日記の場合、主人公は作者自身である。つまり自己言及のパラドックスもついてまわる。
叙事詩や悲劇では、主人公は作品のテーマを宿命として背負わされ、その輪郭をなぞるようにして歩きまわる。そして主人公が倒れて物語が閉じられたとき、その軌跡によって運命が姿を浮かび上がらせる。運命というのは因果関係の極だ。因果関係は時間を省略でき、時間を超えて主人公を宿命に結びつける。それが「時間を知らない世界」ということなのだ。
(ただしそれは、叙事詩や悲劇が小説に比べて劣るとかそういうことではない。詩や俳句・短歌が主語を消して書かれるように、自己やさらには人間を超える何ものか――自然の超越性や運命といったもの――を表現する形式ということです。)
過去にトラウマ(宿命)を背負った自己物語というのが、その叙事詩や悲劇に似ている。物語の閉じられて完結するかたちが同じなのだ。それは一般に精神分析やカウンセリングによってもたらされるものだが、ただしそこでは叙事詩や悲劇よりももっと単純な、トラウマ起源の直線的因果関係がベースになっている。もし叙事詩や悲劇であるなら(と言っては弊害があるかもしれないが)、当事者にとっては苦痛を伴っていても、一方でカタルシスをもたらすかもしれない。でも単純で決定論的な因果関係を反復させてしまうだけのストーリーでは、主人公も苦痛に苛まれるだけで、悲劇のヒーロー/ヒロインとなることはできないのだ。
たぶん叙事詩や悲劇形式も必要なのだと思う。けれどもその「固定された筋や役割」だけに縛られるのではなく、さらに可能性や自由を得るには「小説性の力」に頼るということも必要なのだろう。それはそう簡単なことではないかもしれないけれど、とにかく書き続けることだとは思います。(個人的には俳句や短歌もお勧めですけど。)
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(リンクポリシーの通りこちらからは都合でリンクさせて戴きませんが・・・)ブックマークありがとうございます。
まずは、キャリル・エマーソン「外言と内言――バフチン、ヴィゴツキー、そして言語の内化」(『ミハイル・バフチンの時空』せりか書房 に収録)からの引用。
小説と叙事詩との区別は、・・・多様な知覚された時間の質の――バフチン流に言えば複数の「時空間(クロノトポス)」の――あいだの関係なのである。叙事的語りは「絶対過去」に起こり、小説の時間は真に新奇(ノヴェル)であると述べるとき、バフチンは実は存在論的弁別を行っているのである。・・・時間を知らない世界について語るとき、われわれは必ず「叙事詩」しているのだという。
一方、時間を十全に体験する世界について語るとき、われわれは必ず「小説」しているのである。小説は叙事詩的全体性から疎外されている。しかしながら、バフチン的概念構成が結果するものは、孤独ではなく自由である。特徴的なことに、小説の登場人物は、所与の物語のなかで役割以上のものである自由を体験する。対照的に、叙事詩の英雄(ヒーロー)−主人公は主題(プロット)から切り離せず、その人生を生きる道はひとつしかない。
(中略)
一方、小説の主人公は、中世の舞台の道化に似ている。その役割は一時的なものであり、仮面は自己ではない。・・・この人間の複数の役割を考えから追い払っても、まだ残るものがある。あの余剰、自己と社会的規範との不一致、あの違った衣服に着替える能力、それが自由なのである。
小説家は故郷のない主人公、つまり発展する自由がある主人公を選ぶ。小説は作者にも発展する自由、言わば作者が自分の作品の平面で自分自身のイメージと戯れる自由を与える。
(キャリル・エマーソン「外言と内言」)
上のところの「叙事詩・悲劇」や「小説」を、「Web日記」と置き替えて読んでみるのもおもしろい。日記にも、その二つの傾向が見られるような気がする。あるいはWeb日記を私小説という日本独特のジャンルとみなしたとき、それはどちらに近いのか? ちなみに私小説では、自己は否定と肯定のあいだを揺れ動く。いずれにしてもWeb日記の場合、主人公は作者自身である。つまり自己言及のパラドックスもついてまわる。
叙事詩や悲劇では、主人公は作品のテーマを宿命として背負わされ、その輪郭をなぞるようにして歩きまわる。そして主人公が倒れて物語が閉じられたとき、その軌跡によって運命が姿を浮かび上がらせる。運命というのは因果関係の極だ。因果関係は時間を省略でき、時間を超えて主人公を宿命に結びつける。それが「時間を知らない世界」ということなのだ。
(ただしそれは、叙事詩や悲劇が小説に比べて劣るとかそういうことではない。詩や俳句・短歌が主語を消して書かれるように、自己やさらには人間を超える何ものか――自然の超越性や運命といったもの――を表現する形式ということです。)
過去にトラウマ(宿命)を背負った自己物語というのが、その叙事詩や悲劇に似ている。物語の閉じられて完結するかたちが同じなのだ。それは一般に精神分析やカウンセリングによってもたらされるものだが、ただしそこでは叙事詩や悲劇よりももっと単純な、トラウマ起源の直線的因果関係がベースになっている。もし叙事詩や悲劇であるなら(と言っては弊害があるかもしれないが)、当事者にとっては苦痛を伴っていても、一方でカタルシスをもたらすかもしれない。でも単純で決定論的な因果関係を反復させてしまうだけのストーリーでは、主人公も苦痛に苛まれるだけで、悲劇のヒーロー/ヒロインとなることはできないのだ。
たぶん叙事詩や悲劇形式も必要なのだと思う。けれどもその「固定された筋や役割」だけに縛られるのではなく、さらに可能性や自由を得るには「小説性の力」に頼るということも必要なのだろう。それはそう簡単なことではないかもしれないけれど、とにかく書き続けることだとは思います。(個人的には俳句や短歌もお勧めですけど。)
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