人間バトン

2005年11月28日 読書
わたしゃ人間じゃなくてSpirit(妖怪/精霊)なので、人間バトンは出来ないことになってるのです、が……、でも今回は、特別にやりましょう。
(何をもったいぶって…)
 
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1、回してくれた方に対しての印象は?

例えば次の3つのような印象。
・『千と千尋の神隠し』の千尋
・『エミリー・ザ・ストレンジ(Emily the Strange) 』のエミリー
・『蹴りたい背中』の主人公ハツ
それに、もちろん文学少女イメージも。

2、周りから見た自分はどんな子だと思われてると思いますか?

「どんな子」って、わたしゃ とても「子」と呼べるような代物じゃないので…、
じゃあ、まだ男の「子」だった高校の頃のことを振り返ると、

・すごい根暗
・無口で無愛想
・意味わかんない
・むしろ何!?
・なんか偉そう。

コピペは楽だ〜。(♪〜(謎))
いや〜、でも ほんとに そのまま。(笑)

ちなみに、
小学校:ハイテンション、高校:ローテンション、そしていろいろあった今:ミドル(?)テンション

3、自分が好きな人間性について5つ述べて下さい。

(適度に)プライドをもっていて
無為であり(ときには作為も)
上品であり
格好よくて…

それと、なにかくれる人、騙しやすい人がいいです。

4、では反対に嫌いなタイプは?

(過度に)プライドをもっていて
偽善者か偽悪者で
下品な奴で
アタマ悪いのにその自覚がない人間=否定ばかりする人間
(いろいろな意味で)センスのない人間

5、自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?

仙人
(探求者、健康、(いろんな意味で)シェイプアップ、人生を達観、粗食で生きていける、など)
あと、シャーマンなど。

6、自分のことを慕ってる人に叫んでください

私のことを慕ってる奇特な人……なんかいないと思うけど、
じゃあ、
「お歳暮 おくれよ〜!」

7、そんな大好きな人15人にバトンタッチ(印象付きで)

えーと、この分流はここでおしまいにしたいと思います。
ISBN:4488013163 単行本 David Almond 東京創元社 2001/10 ¥1,995
<出版社からの内容紹介>
寂れた炭鉱町に越してきた僕は、風変わりな少年に誘われ、死という名のゲームに加わる。陽射しのもとへ戻るまでに、どれくらい闇の中にとどまらなくてはいけないのだろう? 英国児童文学の新星が贈る、心優しい魔法。


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ストーリー展開や文章(翻訳だけど)やキャラクターの設定が巧いと思った。
ふつう小説に赤線を引かないのだけど、この本は面白そうなところにマーカーで線を引いた。

作者はデイヴィッド・アーモンド。 グリコ・アーモンド・チョコではありません。
この人はWebサイトも持っていて、そこにTips from David Almond(小説を書くヒント)というのがあった。なるほどね。
http://www.davidalmond.com/writing/
以下はその抄訳です。(ジャーナルや公共的なものだったら全文の翻訳でもかまわない(?)と思うけど、個人のサイトなので抄訳にしました。)
私はノートにたくさん殴り書きをするよ。言葉やアイデアやイメージやキャラクターをいじり回し、そしてあらゆる可能性を試みてます。

私はストーリーをセンテンス(文)ごとに、あるいはチャプター(章)ごとに組み立てるようにしてます。

長編を書くときは、パーツ/チャプター(章)のつながりの中で書くこと。そうすると、ストーリーの中のひとつの部分に一度に集中することができます。ストーリー全体を頭の中に保持している必要はないのです。それぞれのパート/チャプターが終わったら、新しいページに進む。パート/チャプターは、もしかしてとても短いかもしれない。このようにして書くと、実際に面白いシーンや出来事に満ちた長いストーリーを書くことができます。
それとまず最初に、ストーリーにはタイトルをつけたほうがいいです。

ページ綴じを、クリップかホッチキスで留めて、保管してください。プリントしたページ綴じを、ペンで詳しく調べてください。うまくいってないと思える箇所を、削除してください。そこを新しくて優れているものに置き換えてください。

特に好きな文体/作家をコピーしてみてください。憧れる作家から、ストーリー展開/アイデア/イメージ/文章が自ずと取り込めます。

リラックスして、イマジネーションの働くままにしてください。
数行の文章を書いて、それでギブアップしないようにしよう。前進し続けることによって、自分のストーリーに夢中になっていくのです。

秘密のみ

Book Baton

2005年8月22日 読書
さて Book Baton。

・持っている本の冊数
1000冊以上はあるけど、でも完読率は低い。

・今読みかけの本 or 読もうと思っている本
・『清沢満之と哲学』/今村仁司(8千円と高いので、図書館の本で)と、清沢満之の著作。
 「有限である人間が、はたして無限を認識できるか?」
・『空間の詩学』/ガストン・バシュラール(まだ読み終えてない)
 「無限性はわれわれのうちにある。」

・最後に買った本(既読、未読問わず)
『雑学者の夢』/多木浩二

・特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊(まで)
・『孤島』/ジャン・グルニエ
 もし無人島にいくことがあったら、『孤島』はぜひ持っていきたい。
・『生の欲動』/作田啓一
 「他者」とはなんなのかを教えてくれる。
・『赤目四十八瀧心中未遂』/車谷長吉
 この前の「NHK福祉ネットワーク こころの相談室」で、車谷長吉がゲストで登場した。ずっと長いあいだ「強迫性障害」に悩まされていたとのこと。今はもう快方に向かっているらしいけど。
 ずいぶん激しい文学だなぁ〜、と思ってたら、そういうこともあったのか。
・『野火』『レイテ戦記』/大岡昇平
 いままで読んだ分野では、戦争物がいちばん多いかも。
・『星の書物』/コンスタンチン・ケドロフ
 天空の太陽・月・星空の運動が民話や文学などの主人公の活動と平行関係にあり、物語の主人公はそれぞれ太陽型・月型・北極星型に分けられるという。例えばキリストの復活が3日後に起きたのは、まさにキリストが新月を挟んで再び若月(三日月)になる月型であることの証明でもあると。
 月型の主人公は、なにか全一的で完全なものを心のなかで夢見ている。死と復活の二相への分裂は、いわば欠けたところがない満月への追憶に照らしだされている。事実、死にゆく月と復活する月の二つの相は、一つの月のなかで結合している。
 太陽の主人公は旅をしては、人々に光をもたらす。ところが月型の主人公は破滅したり、牢に入れられたりしたあとで、ふたたび生まれ変わる。しかしこれ以外にも、万物がそのまわりを回り、外見的には不動のままの主人公もいる。民話だとそれは高楼や塔に囚われた王女となる。彼女のために勇猛な騎士たちが闘い、遠い遥かな国へと飛んでいき、偉業をなし、蛇や竜を殺す。ところが当の星の王女はいわば世界の不動の中心であり、すべての星がそのまわりを回る。夜空でその役割を担うのは北極星だ。

物語や小説は、あるパターン化されたキャラクターとシナリオ文法によっても作ることができるとされる。(例えば大塚英志など) 実際、主人公が苦境から這い上がって再生するというシナリオもパターンとしてある。でもこの本による星空と民話・神話的なイメージは、宇宙の時間空間から無限や不死までの広大なビジョンなのだ。それらは、近代文学では意識に上ることは稀となっているが、直観や芸術的洞察や下意識にとどめられている記憶バンクなのだという。
有限なる人間の生と無限の宇宙との関係はいかなるものか?

M・バフチンが強調したように、芸術は上下が相対的なものとなる無重力の手法を幅広く駆使してきたし、今もそれは変わらない。要するに、上下などというものはなく、天をいくがごとしなのだ。

(この本はもう品切で入手ができないけど、図書館や古本屋で探せばあるかも。)

こうしてみると、いくつかのキーワードの周りを回っているようだ。無限性(と有限性)、肯定(と否定)、他者と存在、死と生、時間と空間などなど。
ありがとう、さあやさん。
それではバトンを……

・次にまわす人5人まで
・CUCKOO ROBINさん
・緋のさん
・disney_pooh_loveさん
もしよければ、いかがでしょう?
荒川修作+マドリン・ギンズ、河本 英夫 (翻訳) ¥1,365 (税込)(春秋社)

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『TONE』(トーン)という新雑誌で、荒川修作(アートの作家、コーデノロジスト)が相談室を連載するというので、買ってきた。(創刊1号目の記事で、創刊2号が6/27日に出た。)
第一回は「死にたいひとが、死なないために」― 自殺掲示板に投稿するひとたちへ、という相談。
今日は! 私は、荒川修作(コーデノロジスト)です。コーデノロジストとは、今までの芸術、哲学、科学の統合に向かい、その実践を推し進める者。
さて、世界は、いや日本の政治、経済、社会は、デタラメな方向に進んでいますね。その影響を、からだ、いや身体、いや有機体全体で受け止めてしまい、もう呼吸もできないような生活環境でやっと生きてるあなたやわたしたちに、スゴイ、ニュースが送られてきましたよ。
現在、東京・三鷹市大沢……に建設中の共同住居は、何百人という人々が草の根運動で集めたお金で、完成に向かっているのです。このアパート、いや住居で住み、生活を始めると、モノスゴイ希望と夢が生まれ、しかも、いままで考えてもいなかった「自由」が有機体のすみずみに降り立ってくるのです。しかも、いまのところ世界の誰も信じられませんが、その場所で生活することによって、”死なない”方向に動き出し、毎日少しずつ「命」があなたのからだの外側にも現れくるのですよ!
この現われを一時間でも早く知りたいひとは、最近出版された『建築する身体』を読んでみることですね。大変デタラメにムズカシイ本ですが、毎日、毎月、毎年、いや十年〜二十年くらい読み続けてみてくださいね。何もワカラナクても、何度も読んで、読み続けてみてくださいね。同時に、この本がトイレットぺーパーにもなっていますから、あたなの便所で使い始めれば、何が起こるかわかりませんよ。
こんなことを毎日考え、行動にうつしているひとのことをコーデノロジストというのですよ! そして、とくに毎日、毎秒、毎時間、あなたの近辺から現れる「雰囲気」と会話できるようになってくださいね! 気をつけて!
  ― 荒川

ちょっとだけ引用と思ったけど、けっきょく追伸を除いて全文を引用した。
『建築する身体』は、普通の本とトイレットぺーパーの2つのバージョンがあるそう。
NHKの「ようこそ先輩」に出た荒川修作は、卒業した小学校を勘違いして、他の小学校で授業をやったそうだ。母校を間違えるって よくあるよね……って、ないない、そんなこと。めったに。
でも、この番組、見逃した。もう再放送はやらないだろうな。

いちおう、三鷹天命反転住宅サイトのWebサイト。
http://www.architectural-body.com/mitaka/archives/_/index.html
いいなあ、東京は。
ISBN:4393713443 単行本 長谷川 淳史 春秋社 2002/03/09 ¥1,365
□ (amazan書評)
… TMSとは「Tension Myositis Syndrome」(緊張性筋 炎症候群)の略称で、ニューヨーク大学医学部のジョン・サーノ教授が発見した、肩こり・腰痛などの筋骨格系疾患を、心理的緊張を解くことによって治療しようという方法だ。
痛みと心の状態の間には、実は密接な関係がある。人間の体にはストレスや不快な感情を抑制しようとする「防衛機制」という働きがある。心の安定を保ち、精神的破局を避けるための意識的・無意識的な働き、心の安全装置だ。この防衛機制が、意識を他に 向けさせるため、痛みを作り出すのである。不安、心配、恐怖、悲しみ、抑うつ、後悔、自責の念、罪悪感、なかでも「怒り」は無意識のうちに抑圧されてしまうことが多い。なぜなら怒りは社会的に敵視された感情だからだ。怒るからには原因がある。けれど、怒りを見せて、良いことがあるだろうか。怒ってばかりいる人の社会的評価はたい てい低い。
さて、腰痛が起きたらどうするか?痛みはこの際、無視。心の中の怒りを探し出すことだ。最近のできごとを振り返り、職場か家庭でストレスになったことはないか、緊張したことはないか、腹を立てたことはないかをじっくり考えてみよう。怒りを自覚さえできれば、痛みの出番はもうない。

□ (村上正人 日本大学板橋病院心療内科 「心身医学」2000年8月 書評)
… サーノ理論のユニークな点は、筋肉骨格系の疾患を有する患者の9割が気管支喘息、消化性潰瘍、蕁麻疹、めまい、耳鳴りなどの症状を有している事実に注目し、これらが共通してある種の心理的緊張より生じる症候群であることに気づいていることである。著者(長谷川淳史氏)はここで日本心身医学会の心身症の定義を紹介しているが、サーノ博士はTMSやその合併症を心身症という概念で一元的にとらえることで、筋肉骨格系疾患患者の本質的な問題に迫ろうとしたのである。
サーノ博士は腰痛の原因となる不快な感情に焦点を当て「怒りの抑圧」が最も重要であると述ペている。
怒りの感情がほかの不安、悲哀、抑うつ、自責の念、罪悪感などの感情と決定的に異なっているのは、怒りが社会的に最も敵視され、人格が疑われる感情であるということである。怒りは無意識に抑圧され、その不快な感情をそらすための防衛機制として腰痛が出現するというのである。
TMS治療プログラムの要点は、怒りという陰性感情に気づき、身体的な痛みにこだわらず心の内面に目を向け、怒りとその理由に注意を振り向けるという認識の作業を行うことであり、緊張の緩和にリラクセーション技法を積極的に取り入れ、こじれた人間関係を修復し「いまここ」に生きる発見をすることであるという。


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(マウスの誤操作だったのか、書いたのが消えた。ガックリ。上のは引用なのでもう一回再アップできるけど、コメント文章はしんどい。きょうはやめ。また明日にでも)

空間の詩学

2005年6月6日 読書
■空間の詩学
ISBN:4480087249 文庫 ガストン・バシュラール(訳:岩村 行雄) 筑摩書房 2002/10 ¥1,680
家、宇宙、貝殻、ミニアチュール――人間をとりまくさまざまな空間は、どのような詩的イメージを喚起させるのか? ……

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われわれのいるこの世界は、まず空間があってそれから事物があるのではない。三次元空間は、そのなかで人や事物が位置を占める、コンテナ(容器)ではない。そういうのは稀だ。逆に、<私>の運動や知覚や認識が、「空間を与える」のだ。認知環境とのリアクションから生まれ、そして消えるその都度の出来事の束が、空間なのだ。そうした空間はあまり因果的ではないので、イメージや比喩の活躍の場でもある。
バシュラールにとって詩的イメージとは、ミニアチュールの微小なものから宇宙や無限大なものまで、それぞれのユニークな空間が想像力と夢想によって生成される場だ。空間の詩学とは世界そのものの表現であり、そしてたましいの息吹である。詩的イメージとは「霊魂のおもてに突如としてうかぶ浮彫であり」であり、もしそういう言葉が嫌なら、オーラ(アウラ)でもいいかも。あるいは、人の心に励起状態を生ずるもの、たとえば、「おーーぉ!」とか「あぁー!」とか「幸福な気分」とか「懐かしい」とか、何かときめくものだ。
これは詩的なイメージだけでなく、散文や小説でもおなじだろうし、さらに美術や写真や映画などのビジュアルについても言えるだろう。

それにしても『空間の詩学』は、わたしの理解力が不足してるところもあるのだろうけど、なかなか読むのが大変です。フランス語は分からないのだけど、訳がちょっと分かりづらいような気が。
ちょうど澁澤龍彦『夢の宇宙誌』とヴァレリー『人と貝殻』(松田浩則訳)で、該当する箇所(「貝殻」)を訳したものがあったので、比較してみる。
◆貝殻にはきわめて明晰、確実、硬質な概念が対応するので、貝殻をただ単純にえがくことができない詩人、これについてかたらなければない詩人は、さしあたってイメージに不足する。夢想される価値にのがれようとしても、形状がしめす幾何学的現実によってひきとめらてしまう。(『空間の詩学』)
◆貝殻には、じつに鮮明な確固とした一つの概念が結びついてるので、絵に描く場合は簡単だが、詩人がこれについて語らねばならない場合は、まずイメージの不足を感じる。せいぜい、形体の幾何学的現実が心に思い浮かべるいろいろな価値について、語ることぐらいしかできはしない。(澁澤龍彦『夢の宇宙誌』)
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◆ある結晶、ある花、ある貝殻は、感覚できるすべてのものがもつあの通例の無秩序から脱却している。(『空間の詩学』)
◆(たくさんの雑音のなかから聞こえてくる純粋な音、あるいは純粋な音による旋律構成のように、)水晶、花、貝殻は、感覚で捉えられるものの全体が通常呈している無秩序状態から浮かび上がってくる。(ヴァレリー「『人と貝殻』)


    *

■『つぐみ』(市川準監督)
いまさらなのだけど、ビデオで『つぐみ』(市川準監督)を観た。
吉本ばななの『TUGUMI』は、(エラそうな言い方になるけど)よくできた作品で、それこそ詩的イメージにあふれた小説だ。だからそれを映画に撮りたいという気持ちが分からないでもないけど、けっきょく単なる原作からとったエピソードの羅列のような気がした。
まりあと陽子は、つぐみがいくら我侭といえ、なにか結びつける絆があり、その関係を表現するたのにこの小説はある、ともいえる。たとえば小学生のときの回想で、三人がいつも見ていたTV番組が終了したあと、夜中に誰ともなく集まって、そして隣町まで行くというシーンがある。これなども、三人の気脈が相通じているという例証で、原作のあの夜のワクワクした気持ちが、映画では表現できなかったように思う。そして、つぐみが白い小石を拾ったという回想も、語り手のまりあの思いが込められていて、単に事実として小石を拾うというエピソードではないのだ。
でも私は、あらゆる点で、つぐみが「生の人間であること」を忘れそうになる度にその石ころのことと、あの夜、はだしで外に出て、歩かずにはいられなかった幼いつぐみのことを思い出して、なんとなくもの哀しい、冷静になるのだった。

小説には文学空間で紡がれたたましいがあるし、映画には映像作品のたましいがある。でもこの映画では、それが感じられなかった。

    *

■STUDIO VOICE 6月号 最終コミックリスト200
 "00年代マンガ"のすべて!! 『DEATH NOTE』から『ハチミツとクローバー』、『NANA』から『世界の終わりの魔法使い』まで!

もうとっくにガイシュツかもしれないですが・・・、そういうことです。
というか、スタジオ・ボイスは毎月6日に発売だそうで、今日は7月号が店頭に……。役立だない情報でした……、ウン、ザンネ〜〜ン!
あ、でも、バックナンバーを揃えている本屋もあります。

    *

■デザイン&アート&ゲーム・サイト

□a collaborative art project 2004
http://www.eviltree.de/zoomquilt/zoom.htm
[ click here to start ]のクリックと、ドラグup/downでズーム・イン/アウトとスピードの調整ができる。

□funnel design group
http://www.funneldesigngroup.com/

□SUILEN
http://www.suilen.net/
SUILENという日本のグループ。日本にいないハチドリもでてくるが、美しい。

□amanitadesign(もしかして、もうすっかり有名なのかも)
http://www.amanitadesign.com/samorost/
シュールなゲーム。画面に手がかりがある。
5画面(?)をやっとこクリアできた。
ISBN:4062582317 単行本 中沢 新一 講談社 ¥1,500 
宇宙、自然、人間本質の存在を問う、はじまりの哲学=神話。
神話を司る「感覚の論理」とは?
人類的分布をするシンデレラ物語に隠された秘密とは?
宗教と神話とちがいとは?
現実(リアル)の力を再発見する知の冒険。


日記でブックレビューを選択すると、amazonサイトに書かれてるレビューも一緒に表示されるようだけど(ただしレビューが書かれているものについて)、そのレビューは出版社の紹介文じゃなく、誰か(エディター)が書いたものなんですね。そのへんはここの日記サイト運営者とamazon(とエディター)で了解済みなのかもしれないけど、書評を書く立場からすると、別にそれは要らない。
でもでも、今日は書評は書かずに本の紹介だけなので、表紙に書かれていた紹介文だけ上に載せることにします。(何?!) 本の内容は……実際に本を読んでみてくださいねっ。 とくにこれから文学部に進まれる人・アニメのシンデレラに不満を感じた人(その不満はもっともです。その理由もこれを読めば分かります)は、ぜひブックレビューもどうぞ!

 
中沢新一の「カイエ・ソバージュ」シリーズは全5冊で、講義録なので読みやすいです。
ポール・ゴーギャンの絵に、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か れわれはどこへ行くのか」と題された有名な作品があります。
http://www.mfa.org/exhibitions/gauguin/tahiti/preview.asp
"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"
(ボストン美術館サイト。中ほどに横長の画像あり。)

象徴的な要素がいくつも込められた神話的雰囲気のある絵画だけど、神話というものがまさにわれわれが何者で、どこから来てどこへ行くのかを教えてくれる物語なのです。

で、何者でどこから来たのでしょう・・・?
 トールキンの『妖精物語の国へ』(ちくま文庫)この本のなかでトールキンは、妖精物語(フェアリー・テイル)にたいする世間一般の誤解にたいし異議を唱え、物語形式(ジャンル)としての妖精物語の確立を訴える。前者の世間の誤解については、例えば妖精というと小さいというイメージが想い起こされるが、概して人間のほうが小さいということ、また妖精は超自然的存在のように見られるが実は自然の側にいて、人間が自然の埒外にいるのだということなどが指摘される。さらに後者のジャンルについては、「何でないか」ということで定義される。意図的に子供向けに(大人の勝手で子供像を捏造して)書かれた話ではなく、旅をすることはあっても旅物語ではないし、また夢物語や動物寓話でもないといったことなどである。

 ファンタジーは基本的には、第一世界(現実世界)にたいし第二世界を誘惑(魔法)によって<準創造(subcreation)>するものであるとされる。そしてトールキンにとってそれは文学に他ならず、創造された物語世界への導きとしてとくに形容詞の働きを重視する。(例えば「緑の太陽」という言葉が喚起させるものなど。) つまり妖精物語は、文字で書かれた文学固有の表現ジャンルとされるのだ。したがって演劇という手段によるファンタジー表現の困難さも指摘される。(映画については書かれていない。)

 このオックスフォードの言語学・英文学者の物語を、(時代は違うが)同じ大学の数学(論理学)教師ルイス・キャロルの『アリス』のそれと比較すると、それぞれの学問領域という背景が影響しているようでおもしろい。ふたりの物語は対極にあるといってもいいのだ。(トールキンは『アリス』の物語をファンタジーとは見ていない。) 例えばトールキンの物語には「願い」があって、「アリス」にはそれがない。トールキンにあってその願いは、読者のものでもあり、また主人公たちのものでもあり、それらは<幸福な結末への慰み(ハッピー・エンディング)>へと結ばれてゆく。時間はその大団円に向かって怒涛のように流れ、その渦の中で日常的な倦怠の時間感覚を超越する。
あのような物語(グリム童話の「白槙(びゃくしん)の木」のこと)は異次元の<時>への扉を開く。その扉を通ると、ほんの一瞬だがわたしたちはこの現実世界の時間の外、おそらく<時>そのものの外に立っているのだ。

 一方の『アリス』では、ストーリーは夢(悪夢)から覚めて終わる。「論理」の世界に時間はない。さらに神も妖精もいない世界だ。登場人物たちには、固有名詞で表される「他にない・かけがいのなさ」といったものはなく、代わりに「白ウサギ」といった<種>の名前、つまり代入可能な変数や記号で呼ばれる。

 とはいっても、「物語」であるということは、いやおうなしに時間の世界に入り込むことでもある。しかし『アリス』の物語は、その時間を受け入れることも拒絶し、時間の順序を転倒させたりする。そうしたあらゆる努力と方策によって、ルイス・キャロルのノンセンスは細部に渡って意味を拒絶し通し、そもそもこの世界には意味の根拠性などないのだということを示そうとしているかのようだ。

 妖精というのは聖霊のことでもあり、そしてキリスト教が広まる以前にヨーロッパにいた神々やスピリットでもある。神話の世界では有形無形のそうした者たちが、さまざまな活躍をしていた。神話も妖精物語と同じく、準創造であるとトールキンは言う。妖精物語というのは彼にとって、かって生き生きとしていた人間と自然との関わりを取り戻し、世界に意味と希望を与えるという神話の役割を現代において果たそうとするものなのだろう。

 そうした点においても、常識的な意味を揺るがすルイス・キャロルのノンセンス文法と、形容詞を駆使して常識的な意味を超えた新しい意味を生み出そうとするトールキンのファンタジー文法との違いが表れているのではないだろうか。あるいは、この世界が実は隙間だらけであり、そこを覗かせてくれるか、それとも実は隙間には妖精たちが住んでいて、けっきょく世界は意味で充満されるということを教えてくれるのかの違いといえるかもしれない。

今日購入した本

2004年1月22日 読書
中村雄二郎+川手鷹彦『心の傷を担う子どもたち ― 次代への治療教育と藝術論』誠信書房

川手:西洋の詩人が戯曲を書くときというのは、正に「リズムありき」で、決められたリズムに言葉をのせてゆくという大変やっかいで地道な作業を、実は彼らはしているのです。
中村:それはね、詩人が何かを感ずるときからリズムがあり、表現するときにリズムがあるのは当り前です。それこそが、生きているということでしょう。

斎藤学『インナーマザーは支配する ― 侵入する「お母さん」は危ない』新曜社

眠い・・・

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