蔦と蔓
2004年2月6日 この日記、隔日日記の様相。どうせ日付に関係ないことばかり書いてるので、書かなかった日はあとで埋めてもいいのだけど、そこまでするのもなんだかなぁ と思ったり。
*
前に精神分析医の斎藤環を引用して、ボーダーラインの自己の中心が空虚ということを書いたけど、実は誰でも多少は中心の空白を抱えているのだと思う。ふつうそう感じないで、自己というものが中心に確固としてあると信じているのだけれど、そう思っているだけなのかもしれない。そう思ってていることが重要なのだが、それは何か取っ掛かりがあるからだ。ひとつには役割というのが大きく働いている。役割は一般には、どこかに帰属していることによって得られる。もちろんどこにも所属しないで役割を担う場合もあるけど、たいていは会社などの組織や(特に商売をやっている)家などの場合が多い。そうして、役割をとおして何らかのネットワーク(網の目)にからまっているから、宙吊りにならないで済んでいるだけなのだろう。そのネットワークは、蔦(つた)や蔓(つる)草に喩えられるかもしれない。自らも、乳幼児期の親から始まり、周囲の人間に蔓を伸ばしてつかまり、また周りからも蔓が伸びてきて受け止めてくれる。ふつうそうした蔦や蔓のイメージも空気と同じで、とくに意識されることはないのだろう。しかし感覚としては、中心は何かで充満されていることになるのだと思う。
子供のころは依存のために蔓を伸ばすことが多いが、大きくなると次第に人を支えるためにも蔓を使うようにもなる。また子供でも、友だちとの関係やママゴトや動物の世話などを通して、それを学ぶことがある。だが育った過程でその蔓の絡み合いに失敗すると、のちのちに障害となって表れることがあるということなのだろう。だから人格障害の人たちが抱える中心の空虚感というのも、また見捨てられないことに執着するのも、そうした蔓のネットワークの希薄さにあるのかもしれない。それが絶えず前景化して意識されてしまうので、必死に外に向かって蔓を伸ばそうとするのだ。そしやって周囲から迷惑がられることになる。基本的に依存志向なので、対象は人でもモノ(アニメや主義主張などでも)でも、あるいはアルコールでも何でもいいのだ。
役割を担うということは、他から伸びてくる蔓に巻かれてもいいということでもあったりする。必死になって誰にでもいいから蔓を伸ばそうとしてる人には、それができないということなのだろう。そういう意味では、診断や治療ももちろん大事かもしれないけど、社会で役割を作っていく仕組みやソーシャルワークなどもかなり重要になってくると思う。
というわけで自己の中心に関しては、誰しも強固な地盤があって、そこに立脚しているというわけではないのだ。
ただ、中心に蔦や蔓が張り巡らされているとしても、それが絡まってがんじがらめになるというのもまた問題だ。硬直化して、生の感覚が失われてくるからだ。実際に、役割に収まってるだけの、ロボットのような人間だっている。それで人は昔から、「穴をあける」ということをやってきたのではないだろうか。例えば「祭」がそうだし、遊びなどもそうだ。蔓は自分や他者や社会などからだけでなく、自然からも伸びてきているのではないだろうか。
ということで、そのうちそのへんのところを、文化人類学や宗教論(*)や物語論に接続しようと思ってるのだけど・・・どうなるやら。
* 例えば、梅原賢一郎『カミの現象学 ― 身体から見た日本文化論』
(角川叢書)
実際に見聞した日本各地の祭りや神楽、宗教的な儀礼や行法
から、子どもの遊びといった日常の行為まで、具体例をあげ、
ながら「自分と自分以外のものとの間の回路」としての「穴」
をキーワードに、身体にいわば埋蔵された日本文化を解明する。
*
ところでいきなりですが、ADDやADHDと境界性人格障害はぜんぜん別物でしょう。
うちの甥っ子にも、障害名が付くのかどうか分からないけど、ほかの子たちとちょっと違う子がいて、うちの母(祖母−孫にあたる)なんかは最初かなり戸惑ったみたいです。だけど「そういう子なんだ」と思って対応するようになったら、別になんということはなくなったとか。そうすると、それに合わせてその子もまたちょっと変わって。
もって生まれたものはしゃーないですしね。
それと「頼る」というのは、ごく普通のことだと思います。蔓が延びるというのはいろいろな意味があると思うし、けっこう双方向だったり。
*
まあ、やるべきことをさっさとやらない人間が、こうやって偉そうなこと書いてられないのだけど・・・。
あ、カフェインが切れそう、ぐはぁ。
*
前に精神分析医の斎藤環を引用して、ボーダーラインの自己の中心が空虚ということを書いたけど、実は誰でも多少は中心の空白を抱えているのだと思う。ふつうそう感じないで、自己というものが中心に確固としてあると信じているのだけれど、そう思っているだけなのかもしれない。そう思ってていることが重要なのだが、それは何か取っ掛かりがあるからだ。ひとつには役割というのが大きく働いている。役割は一般には、どこかに帰属していることによって得られる。もちろんどこにも所属しないで役割を担う場合もあるけど、たいていは会社などの組織や(特に商売をやっている)家などの場合が多い。そうして、役割をとおして何らかのネットワーク(網の目)にからまっているから、宙吊りにならないで済んでいるだけなのだろう。そのネットワークは、蔦(つた)や蔓(つる)草に喩えられるかもしれない。自らも、乳幼児期の親から始まり、周囲の人間に蔓を伸ばしてつかまり、また周りからも蔓が伸びてきて受け止めてくれる。ふつうそうした蔦や蔓のイメージも空気と同じで、とくに意識されることはないのだろう。しかし感覚としては、中心は何かで充満されていることになるのだと思う。
子供のころは依存のために蔓を伸ばすことが多いが、大きくなると次第に人を支えるためにも蔓を使うようにもなる。また子供でも、友だちとの関係やママゴトや動物の世話などを通して、それを学ぶことがある。だが育った過程でその蔓の絡み合いに失敗すると、のちのちに障害となって表れることがあるということなのだろう。だから人格障害の人たちが抱える中心の空虚感というのも、また見捨てられないことに執着するのも、そうした蔓のネットワークの希薄さにあるのかもしれない。それが絶えず前景化して意識されてしまうので、必死に外に向かって蔓を伸ばそうとするのだ。そしやって周囲から迷惑がられることになる。基本的に依存志向なので、対象は人でもモノ(アニメや主義主張などでも)でも、あるいはアルコールでも何でもいいのだ。
役割を担うということは、他から伸びてくる蔓に巻かれてもいいということでもあったりする。必死になって誰にでもいいから蔓を伸ばそうとしてる人には、それができないということなのだろう。そういう意味では、診断や治療ももちろん大事かもしれないけど、社会で役割を作っていく仕組みやソーシャルワークなどもかなり重要になってくると思う。
というわけで自己の中心に関しては、誰しも強固な地盤があって、そこに立脚しているというわけではないのだ。
ただ、中心に蔦や蔓が張り巡らされているとしても、それが絡まってがんじがらめになるというのもまた問題だ。硬直化して、生の感覚が失われてくるからだ。実際に、役割に収まってるだけの、ロボットのような人間だっている。それで人は昔から、「穴をあける」ということをやってきたのではないだろうか。例えば「祭」がそうだし、遊びなどもそうだ。蔓は自分や他者や社会などからだけでなく、自然からも伸びてきているのではないだろうか。
ということで、そのうちそのへんのところを、文化人類学や宗教論(*)や物語論に接続しようと思ってるのだけど・・・どうなるやら。
* 例えば、梅原賢一郎『カミの現象学 ― 身体から見た日本文化論』
(角川叢書)
実際に見聞した日本各地の祭りや神楽、宗教的な儀礼や行法
から、子どもの遊びといった日常の行為まで、具体例をあげ、
ながら「自分と自分以外のものとの間の回路」としての「穴」
をキーワードに、身体にいわば埋蔵された日本文化を解明する。
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ところでいきなりですが、ADDやADHDと境界性人格障害はぜんぜん別物でしょう。
うちの甥っ子にも、障害名が付くのかどうか分からないけど、ほかの子たちとちょっと違う子がいて、うちの母(祖母−孫にあたる)なんかは最初かなり戸惑ったみたいです。だけど「そういう子なんだ」と思って対応するようになったら、別になんということはなくなったとか。そうすると、それに合わせてその子もまたちょっと変わって。
もって生まれたものはしゃーないですしね。
それと「頼る」というのは、ごく普通のことだと思います。蔓が延びるというのはいろいろな意味があると思うし、けっこう双方向だったり。
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まあ、やるべきことをさっさとやらない人間が、こうやって偉そうなこと書いてられないのだけど・・・。
あ、カフェインが切れそう、ぐはぁ。
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