いじめMEMO

2004年2月21日
いじめを引き起こす原因に、ねたみがあるという指摘がある。

「いじめと学校社会 − 人間学的考察」菅野盾樹
「多くのいじめの事例にねたみの形跡がある。この事実は従来の研究でそれほど強調されてこなかった。むしろねたみへの言及がいじめをめぐる言説から周到に除去されてきたとさえいえるかもしれない。」

『 PSYCHE(心理・精神医学)』(これで良いのか?「病める日本」の心理学)又吉正治
「他人にそのような感情(いじめる感情のこと)を向けるとき、何が原因か?ということを考えますと「嫉妬」であると思います。嫉妬というのは、甘えたくても甘えられない状態にある者が甘えることができる者を見たときに生じる感情、と定義します。
いじめの構図の根底にあるのは、それまでの家族関係における嫉妬の感情が抑圧されていることを事例で確認することができます」


これらの見解は、他人に自分にないもの――卓れている点、特技、(親などに)甘えることのできた環境など――をみいだしたとき、ねたみの感情が湧き起こり、それがいじめにつながるというものだ。

一方、いじめの原因を個人心理ではなく、社会集団が不可避に持つ排除の原理から説明しようとするものもある。例えば永井俊哉サイトの講義録など。
「いじめの本質がスケープゴートであることが分かる。スケープゴートとは、周縁における両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である。同級生は、《自分たちとは異質であるにもかかわらず、自分たちと同じクラスに存在する》両義性ゆえに、太郎君(引用者注:喩え話に登場するいじめられる人物名。生贄の羊)を消そうとするのだ。」

しかし、いじめは「社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではない」と言い切ることはできないと思う。またその解決に「個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。」というのは、現実には難しいだろう。小中学校の学級で、生徒個人が組織(学級)から自立というのはかなり無理な話だ。(ただし、学級という制度をなくしてしまえば可能だけど。)

作田啓一『生の欲動』による、ラカン−ジジェクなども援用して独自の精神分析的考察から、いじめが「倒錯」(とくにサディズム)によるもので、「享楽」(苦痛を伴った快楽)として行われるという説がとても参考になる。

いじめの動機については、ねたみなど個人心理が欠かせないが、それだけでは「個人的いやがらせ」にとどまるかもしれない。それが組織・集団全体におよんで定常的な「いじめ」となるには、やはり集団の力学が働いているのは確かだろう。
学級では(とくに女の子の場合)協調的行動をしがちだ。つまり二人〜数人のグループを作る。だから個人の心理がそのまま集団の現象へ移行するというより、個人や小グループの段階で、テリトリー・コンシャスというか、守るべきものを持っているという認識(思い込み・錯覚)と、そこから生じる過剰な防衛機制が、もっと大きな学級集団レベルへ移行するというのもあるのではないかと思ったりする。

グループ内や学級内に絶えず椅子取りゲームのような神経症的雰囲気が充満していると、防衛機制、例えばそのひとつである「投影」(自己の持つ都合悪いことを他人に転嫁すること)などが働くということもあるのではないだろうか。また、いじめる者といじめられる者とあいだで交代が起きるというのも、そうした雰囲気が背景にあるのではないかと思う。
そしてそういう雰囲気が出来上がっているところに、ねたみでいじめの対象が決められ作動するという仕組みかなと。

ほんらい、いじめにたいする心理的対応の対象は、いじめられている者ではなく、いじめている者になるはずだ。いじめられている者は確かに心理的苦痛を蒙っているので、カウンセリングなどの必要があるかもしれないが、でもそれもおかしい話だ。なによりいじめをなくすことが、いじめられている者への最大の心の治癒になるのだし、それにはいじめている側の心理的問題の解決の方が優先されるはずだ。
ただしその場合、いじめているクラスの大多数というより、キー・パーソンが対象となるのだろうし、それもカウンセリングというより、どういう学級運営をしてゆくかという方が重要度は高いように思う。

そうするといじめの問題は、(とくにいじめている者の)個人心理や親の心理や家族環境、そしてクラスという社会的なレベル(それには教師の関わり方や学校の対応なども含まれる)まで、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることになる。

では、いじめの解決にはどうしたらいいのだろうか。
キーワードとしては、「開く」「自由」「人格」といったことだと思う。

(この続きは明後日あたりに)

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