愚かな一部サッカーファンと賢いロッテファン(ジーコとバレンタイン)(1)
2004年2月27日 時事ニュース「サッカーファンがジーコの解任求めてデモ」
今までの日本チームの監督の仕事は、攻めや守りのフォーメーション(型)をつくることだった。それは個人の能力のなさを組織力で補うということなのだろうけど、もうそのやり方では限界があることは見えている。
そもそもフォーメーション主体で試合をやるというのは、とにかく攻守の型を作らないと始まらないというレベルの低いチームが採用するか、あるいは格下相手に正攻法で押しまくることのできる強いチームが使う手なのだ。
強いチームは、相手のフォーメーションを見切れたらいくらでも対応できる。敵チームの型を崩すのが選手の仕事なのだし、身体能力の強いチームの選手はそれが楽に出来る。(前々回のフランス・ワールドカップでの日本チームの負けっぷりがそのいい例だ。あのチームの中では身体能力の高かったカズなどを外した岡田監督はタコ。あれはカズにたいしも失礼だったし。)
組織として型を持っていることは必要だろうが、中レベルのチームの戦術としては、それに加え何をやってくるか分からないというのが、相手チームにとって脅威となる。それには選手同士の有機的な連携プレーが必要になる。そこで個々の選手のいろいろな意味での能力が問題になってくるのは当然だ。要は、命令に忠実な兵隊さんのいるチームではなく、ひとりひとりが戦士のチームでなくてはならないということ。それはすでに企業社会でも言われてきたことでもあるけど。
つまり必要なのは選手が状況に応じて変幻自在にプレーできる能力を高めることで、それなくしては有機的な連携プレーはできない。それには身体能力はもちろん、意思決定・判断能力やコミュニケーション能力を高めるということでもあるが、そんなのは監督が教えてというレベルじゃない。小中学生のチームじゃないんだし、個々の選手が過去の経験の蓄積と現チームでの練習で培ってゆくしかない。つまり個人の選手それぞれに帰するところが大きいのだ。
但し、ボール扱いの身体能力や頑強な体格やセコいプレーへの適応力は、平均的に欧州や南米やアフリカの選手のほうがやはり上だ。子供の頃から外に出れば足元にサッカーボールがあるという環境は、日本にはないし。そういう意味では、はっきり言って日本チームにあまり過度な期待をかけない方がいいと思う。ただ、最低でも実際の能力に応じた成績は残してもらいたいとは思うけど。
オーマン戦のあとで中田英寿が、「もっと一人ひとりが声を出して欲しい。全然足りない」とコメントを残していたのが印象的だ。コミュニケーションという基本的な能力に問題があったら、連携プレーなんてできっこない。そのへんは経験を重ねたらある程度以心伝心でも通じ合うというレベルにもなるのだろうけど、チーム練習にあまり参加できない欧州組などもいるし、最初のうちはもっと声をかけ合う必要があるのだという中田の危機感の表れなのだと思う。
目標達成のために作られた組織というのは、組織それ自体を守ることに専念する組織と違って、変わる可能性が大きい。それは外からの強い力というより、内部に変わる要素が大いにあるのだ。やはり中田がキーパーソンだろう。予選はまだ始まったばかりだし、これから組織がどう変わってゆくかは分からない。
したがってジーコ監督の方針は間違ってなんかいないと思うし、解任デモをやるなんてのは、何を勘違いしてるのか知らないが、バカげてる。近視眼でしかものを見れないから、いまジーコが監督を辞めたらどうなるかなんて想像もできないのだろう。だいたい負けてもいない試合で、何で責任を取らなくちゃならないのだ。それにもし監督に何か責任があるというなら、その監督を招聘した協会の会長にも多少の責任はあることになる。
それにしても一部のヒステリックなサポーターって、どうしてああ気違いじみているんだろう。群れてナニ様モードの解任要求をするなどというのは、西部劇に出てくるリンチと感覚が変わらない。
それと、選手の多くがジーコ解任を望んでいるならともかく、そうでないなら監督解任要求などというのは選手にたいしても嫌がらせみたいなものだ。その影響がどこかでマイナス効果となって出てくることだってありえる。もし試合に負けたら、それは一部のバカなファンにも責任の一端があるかもしれないのだ。
今までの日本チームの監督の仕事は、攻めや守りのフォーメーション(型)をつくることだった。それは個人の能力のなさを組織力で補うということなのだろうけど、もうそのやり方では限界があることは見えている。
そもそもフォーメーション主体で試合をやるというのは、とにかく攻守の型を作らないと始まらないというレベルの低いチームが採用するか、あるいは格下相手に正攻法で押しまくることのできる強いチームが使う手なのだ。
強いチームは、相手のフォーメーションを見切れたらいくらでも対応できる。敵チームの型を崩すのが選手の仕事なのだし、身体能力の強いチームの選手はそれが楽に出来る。(前々回のフランス・ワールドカップでの日本チームの負けっぷりがそのいい例だ。あのチームの中では身体能力の高かったカズなどを外した岡田監督はタコ。あれはカズにたいしも失礼だったし。)
組織として型を持っていることは必要だろうが、中レベルのチームの戦術としては、それに加え何をやってくるか分からないというのが、相手チームにとって脅威となる。それには選手同士の有機的な連携プレーが必要になる。そこで個々の選手のいろいろな意味での能力が問題になってくるのは当然だ。要は、命令に忠実な兵隊さんのいるチームではなく、ひとりひとりが戦士のチームでなくてはならないということ。それはすでに企業社会でも言われてきたことでもあるけど。
つまり必要なのは選手が状況に応じて変幻自在にプレーできる能力を高めることで、それなくしては有機的な連携プレーはできない。それには身体能力はもちろん、意思決定・判断能力やコミュニケーション能力を高めるということでもあるが、そんなのは監督が教えてというレベルじゃない。小中学生のチームじゃないんだし、個々の選手が過去の経験の蓄積と現チームでの練習で培ってゆくしかない。つまり個人の選手それぞれに帰するところが大きいのだ。
但し、ボール扱いの身体能力や頑強な体格やセコいプレーへの適応力は、平均的に欧州や南米やアフリカの選手のほうがやはり上だ。子供の頃から外に出れば足元にサッカーボールがあるという環境は、日本にはないし。そういう意味では、はっきり言って日本チームにあまり過度な期待をかけない方がいいと思う。ただ、最低でも実際の能力に応じた成績は残してもらいたいとは思うけど。
オーマン戦のあとで中田英寿が、「もっと一人ひとりが声を出して欲しい。全然足りない」とコメントを残していたのが印象的だ。コミュニケーションという基本的な能力に問題があったら、連携プレーなんてできっこない。そのへんは経験を重ねたらある程度以心伝心でも通じ合うというレベルにもなるのだろうけど、チーム練習にあまり参加できない欧州組などもいるし、最初のうちはもっと声をかけ合う必要があるのだという中田の危機感の表れなのだと思う。
目標達成のために作られた組織というのは、組織それ自体を守ることに専念する組織と違って、変わる可能性が大きい。それは外からの強い力というより、内部に変わる要素が大いにあるのだ。やはり中田がキーパーソンだろう。予選はまだ始まったばかりだし、これから組織がどう変わってゆくかは分からない。
したがってジーコ監督の方針は間違ってなんかいないと思うし、解任デモをやるなんてのは、何を勘違いしてるのか知らないが、バカげてる。近視眼でしかものを見れないから、いまジーコが監督を辞めたらどうなるかなんて想像もできないのだろう。だいたい負けてもいない試合で、何で責任を取らなくちゃならないのだ。それにもし監督に何か責任があるというなら、その監督を招聘した協会の会長にも多少の責任はあることになる。
それにしても一部のヒステリックなサポーターって、どうしてああ気違いじみているんだろう。群れてナニ様モードの解任要求をするなどというのは、西部劇に出てくるリンチと感覚が変わらない。
それと、選手の多くがジーコ解任を望んでいるならともかく、そうでないなら監督解任要求などというのは選手にたいしても嫌がらせみたいなものだ。その影響がどこかでマイナス効果となって出てくることだってありえる。もし試合に負けたら、それは一部のバカなファンにも責任の一端があるかもしれないのだ。
コメント