『ミツバチのささやき』
2004年4月4日 映画
スペイン市民戦争が終わったころの、スペインのカスティーリヤ地方のある村が舞台です。緑も花の色彩もない荒涼とした大地と灰色の空の下で、ぜんたいに静かに進行するこの映画は、それに見合ったようにセリフもあまり多くありません。
でも口数の少ない大人たちとは違って、子供は元気です。 主人公のアナもショックで寝込むまでは元気でした。 精霊が住むと信じ通っていた廃屋のそばで、アナが風の鳴り聞こえてくる空に向かい、顔いっぱいに風を浴びてひとり遊んでいたシーンがとても印象に残ります。
日記を始めるときにも書きましたが、"Spirit of the Beehive" という名前は、ヴィクトル・エリセ監督のスペイン映画『ミツバチのささやき』の英語タイトルに由来しています。
この映画についてはだいぶ以前にも別なところで書いてるのですが、ちょっと違うところからあらためて短いのを少し。
始まりは村にやって来た巡回映画の「フランケンシュタイン」から。そこに登場したモンスターと女の子が、実は精霊であるということ、そして村の近くに精霊が住んでいるという話を主人公のアナにしたのは、姉のイザベルだった。そうして映画の世界の登場人物が、空想の世界――アナにとってはリアリティをもった世界――へとスライドする。そのときイザベルは、精霊に会えるという呪文の言葉も教えている。ということは、もう精霊の存在など信じてはいないイザベルも、かってはその呪文の言葉を使って精霊を呼ぼうとしたことがあったのかもしれない。呪文の言葉が、秘儀として姉から妹に伝えられたということになる。
言葉には力が秘められている。自然の威力や避けられない人の生死を前に、人間の無力さを感じていた古代の人々やアイヌ民族は、そう信じていた。その無力さへの絶望が精霊や神々を生みだしたのではないだろうか。そしてそれらへの呼びかけに、呪文や祝詞などが使われた。声を発する呼びかけによって、この世界に穴があけられ、声が精霊や神々へと届けられる。そして精霊や神々がそれに応答するという、交感の回路ができるのだ。仏教やキリスト教やイスラム教で念仏や神の名がとなえられるのも同様であり、また無力な子供が使う呪文や「魔法のことば」にも同じ意味が込められているのだろう。
アナの母親テレサの心は、遠くに住む想いを寄せる男のところにあり、アナの住む家にはない。そしていつも手紙を書き続け、駅にでかけてはそれを託した列車を見送る。そのためアナにとって精霊は母の代理だったとも言え、そこでアナと精霊(母)との癒着への父親の介入を、エディプス期におけるそれとアナロジーでとらえるという考察もできる。(1)
しかしアナは父フェルナンドの介入を拒絶し、失踪する。そして夜さまようなか、精霊と遭遇したところで倒れ、翌朝発見されて家で病床につくことになる。そのことを契機にテレサは遠くの男への想いを断ち切り、家での母と妻としての役割に戻ることになる。
寝たきりになったアナも、夜中にはベッドから起きだして、窓のところで呪文をとなえて精霊を呼ぶ。そして精霊は汽車の汽笛とともにやってくる。
子供は、かれらの書く詩なんか読んでも分かるけど、動いてるものや音を出すものを、まるで生き物のように見る傾向がある。アナが蒸気機関車に惹きつけられていたのは、そういうことかもしれない。対象への距離の近さや親密さを感じたり、またそこに「生きている」なにかを認めたら、ヒューヒューと風音を鳴らす空や、風に吹かれザワザワと揺れ動く樹木や、汽笛や轟音とともに走り抜ける蒸気機関車でさえ、精霊と思えてしまうなにか不思議なメタファーが働いている。そしておそらく古代人もまた、それに似た感覚を持っていたのではないだろうか。
この映画は、今まで観た映画のなかでもいちばん印象が深いもののひとつです。
でも口数の少ない大人たちとは違って、子供は元気です。 主人公のアナもショックで寝込むまでは元気でした。 精霊が住むと信じ通っていた廃屋のそばで、アナが風の鳴り聞こえてくる空に向かい、顔いっぱいに風を浴びてひとり遊んでいたシーンがとても印象に残ります。
日記を始めるときにも書きましたが、"Spirit of the Beehive" という名前は、ヴィクトル・エリセ監督のスペイン映画『ミツバチのささやき』の英語タイトルに由来しています。
この映画についてはだいぶ以前にも別なところで書いてるのですが、ちょっと違うところからあらためて短いのを少し。
始まりは村にやって来た巡回映画の「フランケンシュタイン」から。そこに登場したモンスターと女の子が、実は精霊であるということ、そして村の近くに精霊が住んでいるという話を主人公のアナにしたのは、姉のイザベルだった。そうして映画の世界の登場人物が、空想の世界――アナにとってはリアリティをもった世界――へとスライドする。そのときイザベルは、精霊に会えるという呪文の言葉も教えている。ということは、もう精霊の存在など信じてはいないイザベルも、かってはその呪文の言葉を使って精霊を呼ぼうとしたことがあったのかもしれない。呪文の言葉が、秘儀として姉から妹に伝えられたということになる。
言葉には力が秘められている。自然の威力や避けられない人の生死を前に、人間の無力さを感じていた古代の人々やアイヌ民族は、そう信じていた。その無力さへの絶望が精霊や神々を生みだしたのではないだろうか。そしてそれらへの呼びかけに、呪文や祝詞などが使われた。声を発する呼びかけによって、この世界に穴があけられ、声が精霊や神々へと届けられる。そして精霊や神々がそれに応答するという、交感の回路ができるのだ。仏教やキリスト教やイスラム教で念仏や神の名がとなえられるのも同様であり、また無力な子供が使う呪文や「魔法のことば」にも同じ意味が込められているのだろう。
アナの母親テレサの心は、遠くに住む想いを寄せる男のところにあり、アナの住む家にはない。そしていつも手紙を書き続け、駅にでかけてはそれを託した列車を見送る。そのためアナにとって精霊は母の代理だったとも言え、そこでアナと精霊(母)との癒着への父親の介入を、エディプス期におけるそれとアナロジーでとらえるという考察もできる。(1)
しかしアナは父フェルナンドの介入を拒絶し、失踪する。そして夜さまようなか、精霊と遭遇したところで倒れ、翌朝発見されて家で病床につくことになる。そのことを契機にテレサは遠くの男への想いを断ち切り、家での母と妻としての役割に戻ることになる。
寝たきりになったアナも、夜中にはベッドから起きだして、窓のところで呪文をとなえて精霊を呼ぶ。そして精霊は汽車の汽笛とともにやってくる。
(1) そうしたエディプス的解説が既にどこかでなされていたかどうか、記憶が不明。
倉林靖は『意味とイメージ』のなかで(ユング派の理論を援用して)、娘の「父」に向けられていた近親相姦的エロスを、「父」を拒絶することによって他の対象(ここでは精霊)へと向かったもの、つまり父権的存在の父親から遠ざかる娘アナというとらえかたをしている。
また姉のイザベルを、精霊にたいする非対象的なエロスをすでに自己のうちに女性的なエロスとして内在化した者(通過儀礼を終えた少女)、アナを非対象的なエロスが自覚のないまま精霊に向かう者(通過儀礼の中途にある少女)、と説明している。
子供は、かれらの書く詩なんか読んでも分かるけど、動いてるものや音を出すものを、まるで生き物のように見る傾向がある。アナが蒸気機関車に惹きつけられていたのは、そういうことかもしれない。対象への距離の近さや親密さを感じたり、またそこに「生きている」なにかを認めたら、ヒューヒューと風音を鳴らす空や、風に吹かれザワザワと揺れ動く樹木や、汽笛や轟音とともに走り抜ける蒸気機関車でさえ、精霊と思えてしまうなにか不思議なメタファーが働いている。そしておそらく古代人もまた、それに似た感覚を持っていたのではないだろうか。
この映画は、今まで観た映画のなかでもいちばん印象が深いもののひとつです。
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