サービス提供としてのボランティア−MEMO(1)
2004年5月4日 給与をもらう普通の仕事とボランティアの仕事との違いは、提供するサービスに対し、お金という対価を求めるか、それとも別なもので受け取るか、という違いしかないのではないだろうか。
ニーズに応じたサービスの提供という意味では、どんな仕事でも同じということ。つまり、どちらもニーズが前提となるので、需要のないところでは仕事にもボランティアにもならない。つまり、ボランティアが何か特別なことであると考えることがおかしいのじゃないだろうか。
だからボランティアに対して自己満足だとか偽善だとか言っても始まらないし、逆にボランティアをする側が自分たちが正しい特別なことをしていると思ったりするのも勘違いでしかないと思う。
以前会社人間をやっていたとき、残業をしてもあえて残業代を請求しなかったことがあったけど(自分からやるサービス残業)、それは自己満足と言われたらそうだったかもしれない。でも自分の仕事の進みが遅かったからというときもあったし、仕事がおもしろくてつい会社に残っていたときもある。いずれにしても他人からどうこう言われることではない。
かっての共同体社会では、上の者が下の者や弱い者の面倒を見るということがあったけれど、ボランティアという言葉で「面倒を見る」範囲が地縁を越えたということになるのだろう。
普通の仕事でも、その人のサービス提供能力が発揮できる範囲なら、どこへ行くのもどんなことをやるのも自由だ。またそれは国内に留まらない。渡米して日本料理店の板前になることもできるし、東南アジアで商売や商品の買い付けをやるのも自由だ。ニーズがあるなら、仕事やビジネスだけでなく、ボランティアだって行きたいところに行けばいいのだ。
ボランティアのサービスが向けられる先に他者がいないのは、はたしてボランティアといえるのだろうか。
例えばある地方都市で高校生による駅前清掃奉仕というのがあったけど(*1)、清掃費が浮くJRを除いてべつに喜ぶ人間などいないと思う。また、主催者が営利でやってるイベントに学生がボランティアとして参加するというケースがある。(*2) そうしたものはボランティアといえるのかどうか疑問だ。
ニーズに応じたサービスの提供という意味では、どんな仕事でも同じということ。つまり、どちらもニーズが前提となるので、需要のないところでは仕事にもボランティアにもならない。つまり、ボランティアが何か特別なことであると考えることがおかしいのじゃないだろうか。
だからボランティアに対して自己満足だとか偽善だとか言っても始まらないし、逆にボランティアをする側が自分たちが正しい特別なことをしていると思ったりするのも勘違いでしかないと思う。
以前会社人間をやっていたとき、残業をしてもあえて残業代を請求しなかったことがあったけど(自分からやるサービス残業)、それは自己満足と言われたらそうだったかもしれない。でも自分の仕事の進みが遅かったからというときもあったし、仕事がおもしろくてつい会社に残っていたときもある。いずれにしても他人からどうこう言われることではない。
かっての共同体社会では、上の者が下の者や弱い者の面倒を見るということがあったけれど、ボランティアという言葉で「面倒を見る」範囲が地縁を越えたということになるのだろう。
普通の仕事でも、その人のサービス提供能力が発揮できる範囲なら、どこへ行くのもどんなことをやるのも自由だ。またそれは国内に留まらない。渡米して日本料理店の板前になることもできるし、東南アジアで商売や商品の買い付けをやるのも自由だ。ニーズがあるなら、仕事やビジネスだけでなく、ボランティアだって行きたいところに行けばいいのだ。
ボランティアのサービスが向けられる先に他者がいないのは、はたしてボランティアといえるのだろうか。
例えばある地方都市で高校生による駅前清掃奉仕というのがあったけど(*1)、清掃費が浮くJRを除いてべつに喜ぶ人間などいないと思う。また、主催者が営利でやってるイベントに学生がボランティアとして参加するというケースがある。(*2) そうしたものはボランティアといえるのかどうか疑問だ。
*1. 今もやっているかどうか不明。前もってテレビ局や新聞社に連絡して取材してもらう。要するに「美談」作り。
*2. 例えば「よさこいソーラン」とかいう、金と騒音にまみれた田舎臭い祭。踊りそのものは別にいいのだけど。
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