いじめっ子のその後について (Reviced:6月7日19:00)
2ちゃんに、いじめっ子がその後どうなったかというスレがあった。読んだら、概ねいい人生は送れてないようだった。
いじめを熱心にやる人間には、人格的な問題のほかに、裏表のある二面性や功利性が特徴的に見られると思う。

(以下は単なる大雑把な私見です。)
ふつう人はたいてい、相手によって対応の仕方が変わる二面性や多面性を多少は持っている。また、自分の利益になることを追い求める習性も当然持っている。けれどもいじめっ子は、ふつう以上の裏表二面性と功利性に生きている。なんせ、いじめる行為を正当化するためと、公式にはいじめをやっていないと否認(つまりウソ)しなければならないので、顔をはっきりと使い分けることになるのだ。またいじめは、自分に都合のよい状況を作り出したり、快楽を得たりということにも結びついている。要するに、人を踏み台にして功利的な生き方をしていることになる。したがって、モラルや正義感も自らの内に持てないので、適正な自尊心も持ち得ないことになる。
「からかい」は「いじめ」とはちがう。ちなみに私はどちらかというと、からかいや突っ込みをやるタイプです。いえ、自分に都合のいい解釈をしてるわけじゃありませんよー。それに逆にからかわれることもあったり。「いじめ」と「からかい」との違いは、集団による排除、継続性、二面性、対称性、共感能力の有無などによる。それと、いじめは精神病理も入ってるので、笑いの質も違うのです。
そうした二面的な素と偽りの使い分けと功利性は、おそらく親子関係に由来している。親の倫理観はそのまま子どもに受け継がれるだろうし、親の愛情の欠如は子どもに何らかのネガティブな反応を生じさせる。またもし親が功利的な生き方に価値を見いだしていたら、子どももそれが価値だと思ったりする。
ただし、親と子どもが全く気質性格が異なってたり、兄弟でも全くちがったりすることはある。それはふつう誰もが、親子の二者関係だけでは生きていないということによる。
学校に限らず世の中でも、わりと素だけな人がいじめの対象になったりするように思う。素と偽りの二面性を生きる者にとっては、素だけで生きていられる者は妬ましいのではないだろうか。自分に欠けるもの――育ちの過程でのストレスのなさや、人から気遣ってもらって生きていることや、成績のよさ――などが妬みの対象にされるということです。
ただし大人の社会では、裏表のある人間は学校以上に嫌われる。もちろん上司にゴマをすったり、出世しようとして裏表を使い分ける人も少なくない。だけど、仕事の実力や能力も伴ってなければならないので、計算した立ち回りだけではやってゆけないのだ。
ただし実際は、表とは離れたところにお局様みたいのが棲息していたり、悪貨が良貨を駆逐するようないじめがあったりすることもある。でもそんな組織は腐ってるのだから、あまりストレスになるようなら、そしてもしできるなら、他に移ったほうがいいかもしれません。それができるためにも、何かのスペシャリストになっておくことが重要なのです。
それと、裏表の使い分けやゴマすりというのは、仕事ができないことの隠蔽でもあったりします。
従って、学校では裏表の使い分けや功利的な生き方で巧妙にやってこれた人間も、大学に入ったり社会に出たら・・・、たぶん、あまり良くない〜悲惨 までの分布のどこかに落ち着くことになるのではないかと思う。
素と偽りの二面性とかセコい功利性というのは、その人間を形づくっている骨格みたいなものなので、そう簡単には変われない。たぶんほとんどの人が一生そのままです。
でもふつうに素でやっていける人は、人間的に成長できるし、良い意味でも変われるんですよ。

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