(参考)

■『孤島』「空白の魔力」より、冒頭の文。
 どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。 そんな瞬間はあとで見出すことが困難だ。それは、時刻の堆積の下にうずもれている。時刻はその上を無数に過ぎていったのであり、そうじた時刻の虚無は畏怖を感じさせる。すべてを決定する瞬間といっても、かならずしも稲妻のようなものではない。幼少期の全期間にわたって続き、表向き至って平凡な年月を、とくべつな虹の光彩で色どっていることがある。ある存在の啓示は、斬新的にやってくることもある。 ある子供たちは、まったく彼ら自身のなかにうずもれてしまっていて、暁はけっして彼らの上にきざしてこないように見える。だから、そういう彼らが、ラザロのように、すくっと立ちあがるのを見ると、まったくおどろかされる。 ラザロは屍衣をふるいおとすのだが、彼らがふるいおとすのは、産衣にほかならない。そういうことが、私にもおこった。私の最初の思い出は、数年にわたってひろがっている雑然としたものの思い出、とりとめのない思い出なのだ。 私はこの世のむなしさ(vanite) について人からきかされる必要はなかった。それについては、そのこと以上のものを、つまりからっぽ(vacuite) を感じたのである。
 私は特権的瞬間なるものを経験しなかった。そういう経験があれば、それを契機として、私の存在は、一つの勘のようなものをもったことであろうし、また、そのとき私自身から私に啓示されたものを、のちになって、そういう瞬間のせいに帰したかもしれなかった。だが、子供のときから、私は多くの奇妙な状態を経験した。それらの状態は、そのどれもが、予告ではなくて、警告であった。そのたびごとに、私は、時間のそとに位置する何物かにふれているような気がした。……

そして最後は、以下のような結び。
ある風景をだまってながめる、それだけで欲望をだまらせるに十分な日がくるのだ。すぎ去った自分の人生を思いうかべるとき、私には、その人生がこうした神聖な瞬間に達するための努力でしかなかったように思われる。子供のとき、仰向けにねて、枝越しにあんなに長いあいだながめてすごした あの澄んだ空、そしてある日、ふっと消え去るのを見たあの澄んだ空の、あの思い出によって、私は、こうした神的な瞬間に達するようにと決定づけられたのであろうか?

このあいだ、どういう経緯があったのでしょうか? それはまた次週に。(ほんとは理解不足なので、じっくり読まないと。)

■美術手帳6月号「物語る絵画」:斎藤環がアーティスト鴻池朋子の物語に関して書いたものが参考になる。

……、彼女の物語も未知なるものへの予感をたたえてわれわれを魅惑する。彼女自身(鴻池朋子)が「ジェットコースターが頂点にさしかかろうとする、何かが待ち構えてるギリギリのところ」と述べているように、埋もれているのは「未来としての過去」であり「未知としての既知」であるからだ。
それは中井久夫の言葉を借りるなら、「兆候」であり「索引」でもあるような物語、とも言いうるだろう。「索引」とは、あの「紅茶に浸したマドレーヌ」が喚起する記憶のように、ひとつの刺激をきっかけにして自分のなかの記憶の層がポリフォニックに賦活されるような作用を意味している。いっぽう「兆候」は、やはりひとつの刺激が予兆として、圧倒的ななにものかの到来を予感させる作用である。余談ながら、前者は「うつ病」に親和性が高く、後者は「統合失調症」的な認識であるとされている。
「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって兆候の明滅するところでもところでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、いわば眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。」「ここにおいては、もっとも とおく、もっともかすかなもの、存在の地平に明滅しているものほど、重大な価値と意味を有するものではないだろうか」(中井久夫『兆候・記憶・外傷』)
以前にも書いたことだが、われわれは「純粋兆候」や「純粋索引」を見いだすことはない。中井の功績は、「兆候」「索引」を正確に区分したのみならず、「兆候の索引性」「索引の兆候性」という捻れた関係を取り出した点にある。それは追想と予感が一致する、「ハイデガー的捻れ」でもある。(斎藤環「反復する「不時着」」美術手帳6月号)

(言うまでもないけど)、「紅茶に浸したマドレーヌ」は、それを食べたことから過去の記憶が一気に思い出されるという、プルースト『失われた時を求めて』の有名なシーン。

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