『孤島』 ―(その1)
2005年7月31日
ジャン・グルニエ『孤島』(井上究一郎 訳)ちくま書房
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『孤島』は、なんというか、象徴的な読み物だ。小説でも脚本でも思想論文でもなく、エッセイ(仏語表記でエセー)で、オムニバス・エッセイや叙情的エッセイ(lyrical essays)ということになる。でもエッセイというジャンルに収まりきれない、(訳者の井上究一郎が指摘したように)「高度な文学作品」である。一人称で書かれているが、グルニエ自身のことではない。(*1)
(1) ――私はやむなく「私」という人称にする。私は元来、小説家が使う「彼」のよそよそしさも、「私」の正直さも、それほど信用しないのだ、と。(p.165)
まず最初の前口上に、これはさまざま属性や虚飾をはぎとったある裸の人間を描くものであると述べられている。名前をもたないその人間は背景にとけていき、存在そのものが浮かび上がる。語り手の「私」は、もはや無人称の語りに近づく。その「ある人間」は、あなたかもしれないし、私かもしれない。記憶や追憶を持ち合わせない人間などだれもいない。特権的瞬間(*2) の経験したものはもちろん、そうでない者も、空虚とかはかなさなとか愛着あるものとかにたいして、感受性を研ぎ澄ましていはずだ。でもそのことは、たいていは忘れている。
(2)特権的瞬間――これはある特定の作家たち(ルソー、ネルヴァル、ボードレール、プルーストなど)にもたらされた天啓的、直観的、無意志的な歓喜、完全な幸福の瞬間で、彼らに文学的創造の神秘な源泉を暗示した心理現象。(訳注)
『孤島』は愛読書……というほどには、きちんと読み込んでなかった。カミュが『孤島』から啓示をうけたようには。グルニエはカミュの師であり、カミュは『孤島』の序文を寄せている。そのなかでこの作品は、魔法の呪縛から脱する手ほどきになり、肯定の瞬間とか霊魂の源となったことを思い出せ、また私たちがおちいる急激な憂鬱の理由を知るようになったと。
これは比喩なので、もちろん北国の人々が決して想像の彼方や見えない世界に関心がないわけではないけど。
(↓以下、参考まで)
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『孤島』は、なんというか、象徴的な読み物だ。小説でも脚本でも思想論文でもなく、エッセイ(仏語表記でエセー)で、オムニバス・エッセイや叙情的エッセイ(lyrical essays)ということになる。でもエッセイというジャンルに収まりきれない、(訳者の井上究一郎が指摘したように)「高度な文学作品」である。一人称で書かれているが、グルニエ自身のことではない。(*1)
(1) ――私はやむなく「私」という人称にする。私は元来、小説家が使う「彼」のよそよそしさも、「私」の正直さも、それほど信用しないのだ、と。(p.165)
まず最初の前口上に、これはさまざま属性や虚飾をはぎとったある裸の人間を描くものであると述べられている。名前をもたないその人間は背景にとけていき、存在そのものが浮かび上がる。語り手の「私」は、もはや無人称の語りに近づく。その「ある人間」は、あなたかもしれないし、私かもしれない。記憶や追憶を持ち合わせない人間などだれもいない。特権的瞬間(*2) の経験したものはもちろん、そうでない者も、空虚とかはかなさなとか愛着あるものとかにたいして、感受性を研ぎ澄ましていはずだ。でもそのことは、たいていは忘れている。
(2)特権的瞬間――これはある特定の作家たち(ルソー、ネルヴァル、ボードレール、プルーストなど)にもたらされた天啓的、直観的、無意志的な歓喜、完全な幸福の瞬間で、彼らに文学的創造の神秘な源泉を暗示した心理現象。(訳注)
『孤島』は愛読書……というほどには、きちんと読み込んでなかった。カミュが『孤島』から啓示をうけたようには。グルニエはカミュの師であり、カミュは『孤島』の序文を寄せている。そのなかでこの作品は、魔法の呪縛から脱する手ほどきになり、肯定の瞬間とか霊魂の源となったことを思い出せ、また私たちがおちいる急激な憂鬱の理由を知るようになったと。
収穫が思うにまかせぬ土地と陰鬱な空とのあいだでつらい労働をしている人は、空とパンが心を重くしない他の土地を夢みることができる。彼は希望する。だが、一日中どこへ行っても光と丘とに満たされている人々は、もはや希望しない。彼らはある想像の彼方をしか夢みることができない。そんなわけで、北の国の人々は、地中海の岸辺、または光の砂漠にのがれる。しかし、光の国の人々は、見ることのできない世界よりほかの、どこにのがれるのか?
これは比喩なので、もちろん北国の人々が決して想像の彼方や見えない世界に関心がないわけではないけど。
(↓以下、参考まで)
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