アメリはトリックスターだった
2005年10月10日 映画
『アメリ』フランス映画
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
出演:オドレイ・トトゥ, マチュー・カソヴィッツその他
撮影:ブリュノ・デルボネル
音楽:ヤン・ティルセン
----------------------------------
アメリはお茶目さんで不思議ちゃん。(でも自称不思議ちゃんではない。) で、どうしてそうなったのか? そこでちょっと騒がしいナレーション(ト書き)と三拍子のシャンソンで、少女時代の回想が始まる。画像エフェクトされたセピア調の風景が、「これは現実離れた設定です」という雰囲気をかもしだす。
アメリは少女時代、父親の見立て(というか勘違い)で病弱ということにされ、学校には通わず、教師をしてた母親から勉強を習っていた。だから友だちがいない。空想が大好きで、ひとり遊びをしていた。
それからモンマルトルのカフェで働く、22歳になったアメリ。曲は四拍子も入り、ト書きはちょっと少なめ。アメリ本人や人形や写真なども、説明のナレーションに加わる。好きなことは、えーと、キーワードはクレーム・ブリュレと水切りと豆袋、そして映画館で後ろの観客の顔を眺めることなど。こうしてアメリがいったい何者なのかということが、まるでネットのHPやブログのプロフィール感覚で伝えられる。要するに、これはおとぎ話なのだ。
アメリはふとしたことがきっかけで、他人の人生を幸せにしようと思い立つ。お茶目の発動だ。あるいはトリックスターのほうがいいかも。じっさいひとを幸せにしょうと試みるだけでなく、いやな男には悪戯(いたずら)も仕掛けるくらいだから。
そして興味を惹かれた青年が登場する。単に惚れたとかいうのでなく、彼が証明写真のボックスのところで、あやしげな挙動をしていたからだ。なんだろう?と、アメリの好奇心は高まる。そしてお互いに惹かれ始めるが、でも内気なアメリは……。
<アメリ 公式サイト>
http://www.albatros-film.com/movie/amelie/
この監督が『デリカテッセン』(共同監督)も撮ってたというのは知らなかった。あとでそうと分かって、確かに匂いや感じが似てると思った。それに『デリカテッセン』の登場人物のひとり(『デリカテッセン』のポスターの顔)が、この映画でもカフェの常連客(マイク録音オタク)として出てる。たぶん。
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
出演:オドレイ・トトゥ, マチュー・カソヴィッツその他
撮影:ブリュノ・デルボネル
音楽:ヤン・ティルセン
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アメリはお茶目さんで不思議ちゃん。(でも自称不思議ちゃんではない。) で、どうしてそうなったのか? そこでちょっと騒がしいナレーション(ト書き)と三拍子のシャンソンで、少女時代の回想が始まる。画像エフェクトされたセピア調の風景が、「これは現実離れた設定です」という雰囲気をかもしだす。
アメリは少女時代、父親の見立て(というか勘違い)で病弱ということにされ、学校には通わず、教師をしてた母親から勉強を習っていた。だから友だちがいない。空想が大好きで、ひとり遊びをしていた。
それからモンマルトルのカフェで働く、22歳になったアメリ。曲は四拍子も入り、ト書きはちょっと少なめ。アメリ本人や人形や写真なども、説明のナレーションに加わる。好きなことは、えーと、キーワードはクレーム・ブリュレと水切りと豆袋、そして映画館で後ろの観客の顔を眺めることなど。こうしてアメリがいったい何者なのかということが、まるでネットのHPやブログのプロフィール感覚で伝えられる。要するに、これはおとぎ話なのだ。
アメリはふとしたことがきっかけで、他人の人生を幸せにしようと思い立つ。お茶目の発動だ。あるいはトリックスターのほうがいいかも。じっさいひとを幸せにしょうと試みるだけでなく、いやな男には悪戯(いたずら)も仕掛けるくらいだから。
そして興味を惹かれた青年が登場する。単に惚れたとかいうのでなく、彼が証明写真のボックスのところで、あやしげな挙動をしていたからだ。なんだろう?と、アメリの好奇心は高まる。そしてお互いに惹かれ始めるが、でも内気なアメリは……。
<アメリ 公式サイト>
http://www.albatros-film.com/movie/amelie/
この監督が『デリカテッセン』(共同監督)も撮ってたというのは知らなかった。あとでそうと分かって、確かに匂いや感じが似てると思った。それに『デリカテッセン』の登場人物のひとり(『デリカテッセン』のポスターの顔)が、この映画でもカフェの常連客(マイク録音オタク)として出てる。たぶん。
いまさらだけど、6月20日の「クローズアップ現代」で片頭痛のことをやってた。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2005/0506-4.html
頭痛にもいくつかパターンがあって、それぞれに対応した薬がある。また、ここで頭痛が始まるというタイミングを計って、予め飲む薬もある。
片頭痛(偏頭痛)は、血液中に不足したセロトニンによって三叉神経が異常をきたし、血管の膨張による神経圧迫を起こす、などなど。
頭痛には片頭痛、群発頭痛、緊張型頭痛などがあって、私の場合は、慢性ではないけど、たぶん「後頭部を中心に頭がしめつけられるように痛む緊張型頭痛」が多い。
また「こめかみから目のあたりがズキズキ脈打つように痛む」こともあり、これは片頭痛の症状とすると、やはり片頭痛もある。その他、たまに鼻腔に膿が溜まるようなとき(蓄膿?)も、頭痛になることがあった。
頭痛になったら、まずツボを押さえる。百会(頭のてっぺん真中)、天柱や風池(首の後ろの髪の生え際のくぼみ)、太陽や頷厭(側頭部)などを、手で押すか、または良導絡(*1)のパルス波治療器を使う。また、爪楊枝を束ねたものでツボを刺激することもある。(*2)
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*1:良導絡というのは、東洋医学のツボ(経絡)と皮膚の導電性とが一致することから発見された、電気針による治療法。
電気パルス波治療器は、ノイロメータ、ツボ音響探査装置、自律神経測定器などの製品名でよばれ、業務用から小型携帯のものまでいろいろある。たとえば、http://www.ncc.ne.jp/zen/menu1/z017paruse-2.html
*2:頭痛などのツボの場所は、ネットで検索したらいろいろあります。
-----
パルス波によるハリ刺激は、脳内モルヒネであるエンドルフィンなどの鎮痛物質も生むので、鎮痛効果はもちろん、うつの治療などにも使われているところがあるそうだ。
針などの東洋医学はもっと広く普及するといいのだけど、医師会(と自民党)が医療改革をさまたげている。
なお、写真はヒーリング・ストーンのアメジスト。ストレスや心の傷に、頭痛や不眠症に良いとされる。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2005/0506-4.html
日本人の三人に一人が苦しんでいるといわれる国民病「頭痛」。近年、特に痛みのひどい「片頭痛」のメカニズムが解明され、新たに開発された新薬により痛みを劇的に和らげることが可能となっている。都内のある頭痛専門医の窓口には日々200人以上が押し寄せ、長年の悩みを解決した患者も少なくない。しかし、いまだに「たかが頭痛」「やる気の問題」など、頭痛を病気と捉えない"無理解"な医師も数多い。この結果、不登校に陥る小学生や、市販の鎮痛薬を過剰に服用して痛みが酷くなる「薬物乱用頭痛」という症例も発生。診断基準や治療方法を明確化し、医師、薬剤師、患者の啓発を行うことが急務となっている。今月発足した頭痛専門医制度をきっかけに、頭痛を取り巻く最新事情を追う。
頭痛にもいくつかパターンがあって、それぞれに対応した薬がある。また、ここで頭痛が始まるというタイミングを計って、予め飲む薬もある。
片頭痛(偏頭痛)は、血液中に不足したセロトニンによって三叉神経が異常をきたし、血管の膨張による神経圧迫を起こす、などなど。
頭痛には片頭痛、群発頭痛、緊張型頭痛などがあって、私の場合は、慢性ではないけど、たぶん「後頭部を中心に頭がしめつけられるように痛む緊張型頭痛」が多い。
また「こめかみから目のあたりがズキズキ脈打つように痛む」こともあり、これは片頭痛の症状とすると、やはり片頭痛もある。その他、たまに鼻腔に膿が溜まるようなとき(蓄膿?)も、頭痛になることがあった。
頭痛になったら、まずツボを押さえる。百会(頭のてっぺん真中)、天柱や風池(首の後ろの髪の生え際のくぼみ)、太陽や頷厭(側頭部)などを、手で押すか、または良導絡(*1)のパルス波治療器を使う。また、爪楊枝を束ねたものでツボを刺激することもある。(*2)
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*1:良導絡というのは、東洋医学のツボ(経絡)と皮膚の導電性とが一致することから発見された、電気針による治療法。
電気パルス波治療器は、ノイロメータ、ツボ音響探査装置、自律神経測定器などの製品名でよばれ、業務用から小型携帯のものまでいろいろある。たとえば、http://www.ncc.ne.jp/zen/menu1/z017paruse-2.html
*2:頭痛などのツボの場所は、ネットで検索したらいろいろあります。
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パルス波によるハリ刺激は、脳内モルヒネであるエンドルフィンなどの鎮痛物質も生むので、鎮痛効果はもちろん、うつの治療などにも使われているところがあるそうだ。
針などの東洋医学はもっと広く普及するといいのだけど、医師会(と自民党)が医療改革をさまたげている。
なお、写真はヒーリング・ストーンのアメジスト。ストレスや心の傷に、頭痛や不眠症に良いとされる。
ハチミツのパワー
2005年9月27日
9/21のTBS「人体サイエンススペクタクル『ザ・限界』」は、極限状態のなかで生還した人たち(37日間漂流した漁船員やデパート崩壊で17日間閉じ込められた女性など)、そして今でもハードな状況のなかで生活してる人たち(2年間何も食べずに生きている不食の限界を超えた人、20年間全く寝ていない不眠の限界を超えた人)の話だった。
そのなかで、2年間なにも食べてないウクライナ人の話。自宅で心理カウンセラーをやっており、妻と小さい子どもがいる。
で、なにも食べてないのかと思ったら……、ちゃんとハチミツを食べていた。(それと、もちろん水も。)
ハチミツは栄養豊富なので、「2年間なにも食べずに生きている」というのは正確な表現ではない。
前に本で読んだことがあるのだけど、ハチミツとビタミンCとだけで6ヶ月生活するという実験をやったひとがいた。結果は、べつに異常なし。(ハチミツにはビタミンCが含まれてないので、サプリメントとしてビタミンCも。)
けっきょくこの番組は、2年間ハチミツだけで生きていける、ということを証明したようなものだ。
ただし、食生活や栄養の問題は、あとあとに影響してくるようだ。たとえばシベリア抑留で苛酷な食事環境をサバイバルしたひとも、日本に戻ってから亡くなるケースが多かったそうだ。だからもしハチミツ(+ビタミンC)だけの食生活を続けてその時は良くても、のちのちどうなるのかは分からない。もっとも、この番組では採血で血液検査をやったが、データは基準値内だったけど。
そもそもこの心理カウンセラーは、食事に興味を持っていないようだ。でも体の調子が悪くて食欲がないわけではない。片手で腕立て伏せをやってたくらいだから、健康なのだろう。そしてよく太陽を浴びて、太陽のエネルギーを吸収していると言う。
一般に精神的な仕事をしている人というのは、たとえば精神修行する僧のように、食欲など欲望に淡白なイメージがある。また心理カウンセラーというのも、(ふつうは)クライアントとの意識・無意識の精神的な交流をとおして治療が進められる。このウクライナ人の仕事である心理カウンセリングもたぶん影響してるのでは、と思った。
番組のもうひとりの「20年間全く寝ていない男」もウクライナ人だった。ロシアやウクライナって、へんなひとが多い。
そのなかで、2年間なにも食べてないウクライナ人の話。自宅で心理カウンセラーをやっており、妻と小さい子どもがいる。
で、なにも食べてないのかと思ったら……、ちゃんとハチミツを食べていた。(それと、もちろん水も。)
ハチミツは栄養豊富なので、「2年間なにも食べずに生きている」というのは正確な表現ではない。
前に本で読んだことがあるのだけど、ハチミツとビタミンCとだけで6ヶ月生活するという実験をやったひとがいた。結果は、べつに異常なし。(ハチミツにはビタミンCが含まれてないので、サプリメントとしてビタミンCも。)
けっきょくこの番組は、2年間ハチミツだけで生きていける、ということを証明したようなものだ。
ただし、食生活や栄養の問題は、あとあとに影響してくるようだ。たとえばシベリア抑留で苛酷な食事環境をサバイバルしたひとも、日本に戻ってから亡くなるケースが多かったそうだ。だからもしハチミツ(+ビタミンC)だけの食生活を続けてその時は良くても、のちのちどうなるのかは分からない。もっとも、この番組では採血で血液検査をやったが、データは基準値内だったけど。
そもそもこの心理カウンセラーは、食事に興味を持っていないようだ。でも体の調子が悪くて食欲がないわけではない。片手で腕立て伏せをやってたくらいだから、健康なのだろう。そしてよく太陽を浴びて、太陽のエネルギーを吸収していると言う。
一般に精神的な仕事をしている人というのは、たとえば精神修行する僧のように、食欲など欲望に淡白なイメージがある。また心理カウンセラーというのも、(ふつうは)クライアントとの意識・無意識の精神的な交流をとおして治療が進められる。このウクライナ人の仕事である心理カウンセリングもたぶん影響してるのでは、と思った。
番組のもうひとりの「20年間全く寝ていない男」もウクライナ人だった。ロシアやウクライナって、へんなひとが多い。
『大人は判ってくれない』
2005年8月31日 映画
監督:フランソワ・トリュフォー、音楽:ジャン・コンスタンタン、Cast:ジャン=ピエール・レオー
軽快でペーソスに満ちたテーマ曲をバックに、パリの街並みが白黒の画面に映しだされる。タイトルやクレジットが流れ、そしてエッフェル塔を周回するように、集合住宅やビルや工場がローアングルで流れていく。
このテーマ曲は、主人公が野や浜辺を疾走する最後のシーンでも使われている。速度と流れる風景と三拍子は、主人公の少年が駆け抜けた人生も暗示している。
この映画を観るのは久しぶりで、ほとんど内容は憶えてないのだけど、なんだか懐かしい。モノクロのヌーベルバーグと三拍子のリズムで、もうたまりません。(三拍子フェチ) DVDなので、最初のクレジットのところを何度も繰り返して見た。
このテーマ曲は、
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/B00019JQDM/103-6880497-7871022?v=glance
のサンプル(Listen to Samples)の3番目 "Quatre Cents Coups (Score From "Les Quatre Cents Coups") - Jean Constantin " で試聴ができます。
軽快でペーソスに満ちたテーマ曲をバックに、パリの街並みが白黒の画面に映しだされる。タイトルやクレジットが流れ、そしてエッフェル塔を周回するように、集合住宅やビルや工場がローアングルで流れていく。
このテーマ曲は、主人公が野や浜辺を疾走する最後のシーンでも使われている。速度と流れる風景と三拍子は、主人公の少年が駆け抜けた人生も暗示している。
この映画を観るのは久しぶりで、ほとんど内容は憶えてないのだけど、なんだか懐かしい。モノクロのヌーベルバーグと三拍子のリズムで、もうたまりません。(三拍子フェチ) DVDなので、最初のクレジットのところを何度も繰り返して見た。
このテーマ曲は、
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/B00019JQDM/103-6880497-7871022?v=glance
のサンプル(Listen to Samples)の3番目 "Quatre Cents Coups (Score From "Les Quatre Cents Coups") - Jean Constantin " で試聴ができます。
『ジョゼと虎と魚たち』
2005年8月31日 映画
監督:犬童一心、脚本:渡辺あや、Cast:池脇千鶴、妻夫木聡
今さらなのだけど、『ジョゼと虎と魚たち』を観た。おもしろかったので、田辺聖子の原作も読んだ。短編だった。映画のほうは、原作から基本的な設定を借り、新しくエピソードやストーリーを追加した90分の脚本となっている。最後のエンディングは、両者では異なっていた。
映画がこってりしたラーメンだとすると、原作はざるそば。(なんか、あまりいい喩えじゃない。) 原作は軽快でリズム感があって、読後の爽快感は格別でした。
今さらなのだけど、『ジョゼと虎と魚たち』を観た。おもしろかったので、田辺聖子の原作も読んだ。短編だった。映画のほうは、原作から基本的な設定を借り、新しくエピソードやストーリーを追加した90分の脚本となっている。最後のエンディングは、両者では異なっていた。
映画がこってりしたラーメンだとすると、原作はざるそば。(なんか、あまりいい喩えじゃない。) 原作は軽快でリズム感があって、読後の爽快感は格別でした。
Book Baton
2005年8月22日 読書
さて Book Baton。
・持っている本の冊数
1000冊以上はあるけど、でも完読率は低い。
・今読みかけの本 or 読もうと思っている本
・『清沢満之と哲学』/今村仁司(8千円と高いので、図書館の本で)と、清沢満之の著作。
「有限である人間が、はたして無限を認識できるか?」
・『空間の詩学』/ガストン・バシュラール(まだ読み終えてない)
「無限性はわれわれのうちにある。」
・最後に買った本(既読、未読問わず)
『雑学者の夢』/多木浩二
・特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊(まで)
・『孤島』/ジャン・グルニエ
もし無人島にいくことがあったら、『孤島』はぜひ持っていきたい。
・『生の欲動』/作田啓一
「他者」とはなんなのかを教えてくれる。
・『赤目四十八瀧心中未遂』/車谷長吉
この前の「NHK福祉ネットワーク こころの相談室」で、車谷長吉がゲストで登場した。ずっと長いあいだ「強迫性障害」に悩まされていたとのこと。今はもう快方に向かっているらしいけど。
ずいぶん激しい文学だなぁ〜、と思ってたら、そういうこともあったのか。
・『野火』『レイテ戦記』/大岡昇平
いままで読んだ分野では、戦争物がいちばん多いかも。
・『星の書物』/コンスタンチン・ケドロフ
天空の太陽・月・星空の運動が民話や文学などの主人公の活動と平行関係にあり、物語の主人公はそれぞれ太陽型・月型・北極星型に分けられるという。例えばキリストの復活が3日後に起きたのは、まさにキリストが新月を挟んで再び若月(三日月)になる月型であることの証明でもあると。
物語や小説は、あるパターン化されたキャラクターとシナリオ文法によっても作ることができるとされる。(例えば大塚英志など) 実際、主人公が苦境から這い上がって再生するというシナリオもパターンとしてある。でもこの本による星空と民話・神話的なイメージは、宇宙の時間空間から無限や不死までの広大なビジョンなのだ。それらは、近代文学では意識に上ることは稀となっているが、直観や芸術的洞察や下意識にとどめられている記憶バンクなのだという。
(この本はもう品切で入手ができないけど、図書館や古本屋で探せばあるかも。)
こうしてみると、いくつかのキーワードの周りを回っているようだ。無限性(と有限性)、肯定(と否定)、他者と存在、死と生、時間と空間などなど。
ありがとう、さあやさん。
それではバトンを……
・次にまわす人5人まで
・CUCKOO ROBINさん
・緋のさん
・disney_pooh_loveさん
もしよければ、いかがでしょう?
・持っている本の冊数
1000冊以上はあるけど、でも完読率は低い。
・今読みかけの本 or 読もうと思っている本
・『清沢満之と哲学』/今村仁司(8千円と高いので、図書館の本で)と、清沢満之の著作。
「有限である人間が、はたして無限を認識できるか?」
・『空間の詩学』/ガストン・バシュラール(まだ読み終えてない)
「無限性はわれわれのうちにある。」
・最後に買った本(既読、未読問わず)
『雑学者の夢』/多木浩二
・特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊(まで)
・『孤島』/ジャン・グルニエ
もし無人島にいくことがあったら、『孤島』はぜひ持っていきたい。
・『生の欲動』/作田啓一
「他者」とはなんなのかを教えてくれる。
・『赤目四十八瀧心中未遂』/車谷長吉
この前の「NHK福祉ネットワーク こころの相談室」で、車谷長吉がゲストで登場した。ずっと長いあいだ「強迫性障害」に悩まされていたとのこと。今はもう快方に向かっているらしいけど。
ずいぶん激しい文学だなぁ〜、と思ってたら、そういうこともあったのか。
・『野火』『レイテ戦記』/大岡昇平
いままで読んだ分野では、戦争物がいちばん多いかも。
・『星の書物』/コンスタンチン・ケドロフ
天空の太陽・月・星空の運動が民話や文学などの主人公の活動と平行関係にあり、物語の主人公はそれぞれ太陽型・月型・北極星型に分けられるという。例えばキリストの復活が3日後に起きたのは、まさにキリストが新月を挟んで再び若月(三日月)になる月型であることの証明でもあると。
月型の主人公は、なにか全一的で完全なものを心のなかで夢見ている。死と復活の二相への分裂は、いわば欠けたところがない満月への追憶に照らしだされている。事実、死にゆく月と復活する月の二つの相は、一つの月のなかで結合している。
太陽の主人公は旅をしては、人々に光をもたらす。ところが月型の主人公は破滅したり、牢に入れられたりしたあとで、ふたたび生まれ変わる。しかしこれ以外にも、万物がそのまわりを回り、外見的には不動のままの主人公もいる。民話だとそれは高楼や塔に囚われた王女となる。彼女のために勇猛な騎士たちが闘い、遠い遥かな国へと飛んでいき、偉業をなし、蛇や竜を殺す。ところが当の星の王女はいわば世界の不動の中心であり、すべての星がそのまわりを回る。夜空でその役割を担うのは北極星だ。
物語や小説は、あるパターン化されたキャラクターとシナリオ文法によっても作ることができるとされる。(例えば大塚英志など) 実際、主人公が苦境から這い上がって再生するというシナリオもパターンとしてある。でもこの本による星空と民話・神話的なイメージは、宇宙の時間空間から無限や不死までの広大なビジョンなのだ。それらは、近代文学では意識に上ることは稀となっているが、直観や芸術的洞察や下意識にとどめられている記憶バンクなのだという。
有限なる人間の生と無限の宇宙との関係はいかなるものか?
M・バフチンが強調したように、芸術は上下が相対的なものとなる無重力の手法を幅広く駆使してきたし、今もそれは変わらない。要するに、上下などというものはなく、天をいくがごとしなのだ。
(この本はもう品切で入手ができないけど、図書館や古本屋で探せばあるかも。)
こうしてみると、いくつかのキーワードの周りを回っているようだ。無限性(と有限性)、肯定(と否定)、他者と存在、死と生、時間と空間などなど。
ありがとう、さあやさん。
それではバトンを……
・次にまわす人5人まで
・CUCKOO ROBINさん
・緋のさん
・disney_pooh_loveさん
もしよければ、いかがでしょう?
『孤島』 ―(その1)
2005年7月31日
ジャン・グルニエ『孤島』(井上究一郎 訳)ちくま書房
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『孤島』は、なんというか、象徴的な読み物だ。小説でも脚本でも思想論文でもなく、エッセイ(仏語表記でエセー)で、オムニバス・エッセイや叙情的エッセイ(lyrical essays)ということになる。でもエッセイというジャンルに収まりきれない、(訳者の井上究一郎が指摘したように)「高度な文学作品」である。一人称で書かれているが、グルニエ自身のことではない。(*1)
(1) ――私はやむなく「私」という人称にする。私は元来、小説家が使う「彼」のよそよそしさも、「私」の正直さも、それほど信用しないのだ、と。(p.165)
まず最初の前口上に、これはさまざま属性や虚飾をはぎとったある裸の人間を描くものであると述べられている。名前をもたないその人間は背景にとけていき、存在そのものが浮かび上がる。語り手の「私」は、もはや無人称の語りに近づく。その「ある人間」は、あなたかもしれないし、私かもしれない。記憶や追憶を持ち合わせない人間などだれもいない。特権的瞬間(*2) の経験したものはもちろん、そうでない者も、空虚とかはかなさなとか愛着あるものとかにたいして、感受性を研ぎ澄ましていはずだ。でもそのことは、たいていは忘れている。
(2)特権的瞬間――これはある特定の作家たち(ルソー、ネルヴァル、ボードレール、プルーストなど)にもたらされた天啓的、直観的、無意志的な歓喜、完全な幸福の瞬間で、彼らに文学的創造の神秘な源泉を暗示した心理現象。(訳注)
『孤島』は愛読書……というほどには、きちんと読み込んでなかった。カミュが『孤島』から啓示をうけたようには。グルニエはカミュの師であり、カミュは『孤島』の序文を寄せている。そのなかでこの作品は、魔法の呪縛から脱する手ほどきになり、肯定の瞬間とか霊魂の源となったことを思い出せ、また私たちがおちいる急激な憂鬱の理由を知るようになったと。
これは比喩なので、もちろん北国の人々が決して想像の彼方や見えない世界に関心がないわけではないけど。
(↓以下、参考まで)
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『孤島』は、なんというか、象徴的な読み物だ。小説でも脚本でも思想論文でもなく、エッセイ(仏語表記でエセー)で、オムニバス・エッセイや叙情的エッセイ(lyrical essays)ということになる。でもエッセイというジャンルに収まりきれない、(訳者の井上究一郎が指摘したように)「高度な文学作品」である。一人称で書かれているが、グルニエ自身のことではない。(*1)
(1) ――私はやむなく「私」という人称にする。私は元来、小説家が使う「彼」のよそよそしさも、「私」の正直さも、それほど信用しないのだ、と。(p.165)
まず最初の前口上に、これはさまざま属性や虚飾をはぎとったある裸の人間を描くものであると述べられている。名前をもたないその人間は背景にとけていき、存在そのものが浮かび上がる。語り手の「私」は、もはや無人称の語りに近づく。その「ある人間」は、あなたかもしれないし、私かもしれない。記憶や追憶を持ち合わせない人間などだれもいない。特権的瞬間(*2) の経験したものはもちろん、そうでない者も、空虚とかはかなさなとか愛着あるものとかにたいして、感受性を研ぎ澄ましていはずだ。でもそのことは、たいていは忘れている。
(2)特権的瞬間――これはある特定の作家たち(ルソー、ネルヴァル、ボードレール、プルーストなど)にもたらされた天啓的、直観的、無意志的な歓喜、完全な幸福の瞬間で、彼らに文学的創造の神秘な源泉を暗示した心理現象。(訳注)
『孤島』は愛読書……というほどには、きちんと読み込んでなかった。カミュが『孤島』から啓示をうけたようには。グルニエはカミュの師であり、カミュは『孤島』の序文を寄せている。そのなかでこの作品は、魔法の呪縛から脱する手ほどきになり、肯定の瞬間とか霊魂の源となったことを思い出せ、また私たちがおちいる急激な憂鬱の理由を知るようになったと。
収穫が思うにまかせぬ土地と陰鬱な空とのあいだでつらい労働をしている人は、空とパンが心を重くしない他の土地を夢みることができる。彼は希望する。だが、一日中どこへ行っても光と丘とに満たされている人々は、もはや希望しない。彼らはある想像の彼方をしか夢みることができない。そんなわけで、北の国の人々は、地中海の岸辺、または光の砂漠にのがれる。しかし、光の国の人々は、見ることのできない世界よりほかの、どこにのがれるのか?
これは比喩なので、もちろん北国の人々が決して想像の彼方や見えない世界に関心がないわけではないけど。
(↓以下、参考まで)
『孤島』 ―(その2)
2005年7月31日(参考)
■『孤島』「空白の魔力」より、冒頭の文。
そして最後は、以下のような結び。
このあいだ、どういう経緯があったのでしょうか? それはまた次週に。(ほんとは理解不足なので、じっくり読まないと。)
■美術手帳6月号「物語る絵画」:斎藤環がアーティスト鴻池朋子の物語に関して書いたものが参考になる。
(言うまでもないけど)、「紅茶に浸したマドレーヌ」は、それを食べたことから過去の記憶が一気に思い出されるという、プルースト『失われた時を求めて』の有名なシーン。
■『孤島』「空白の魔力」より、冒頭の文。
どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。 そんな瞬間はあとで見出すことが困難だ。それは、時刻の堆積の下にうずもれている。時刻はその上を無数に過ぎていったのであり、そうじた時刻の虚無は畏怖を感じさせる。すべてを決定する瞬間といっても、かならずしも稲妻のようなものではない。幼少期の全期間にわたって続き、表向き至って平凡な年月を、とくべつな虹の光彩で色どっていることがある。ある存在の啓示は、斬新的にやってくることもある。 ある子供たちは、まったく彼ら自身のなかにうずもれてしまっていて、暁はけっして彼らの上にきざしてこないように見える。だから、そういう彼らが、ラザロのように、すくっと立ちあがるのを見ると、まったくおどろかされる。 ラザロは屍衣をふるいおとすのだが、彼らがふるいおとすのは、産衣にほかならない。そういうことが、私にもおこった。私の最初の思い出は、数年にわたってひろがっている雑然としたものの思い出、とりとめのない思い出なのだ。 私はこの世のむなしさ(vanite) について人からきかされる必要はなかった。それについては、そのこと以上のものを、つまりからっぽ(vacuite) を感じたのである。
私は特権的瞬間なるものを経験しなかった。そういう経験があれば、それを契機として、私の存在は、一つの勘のようなものをもったことであろうし、また、そのとき私自身から私に啓示されたものを、のちになって、そういう瞬間のせいに帰したかもしれなかった。だが、子供のときから、私は多くの奇妙な状態を経験した。それらの状態は、そのどれもが、予告ではなくて、警告であった。そのたびごとに、私は、時間のそとに位置する何物かにふれているような気がした。……
そして最後は、以下のような結び。
ある風景をだまってながめる、それだけで欲望をだまらせるに十分な日がくるのだ。すぎ去った自分の人生を思いうかべるとき、私には、その人生がこうした神聖な瞬間に達するための努力でしかなかったように思われる。子供のとき、仰向けにねて、枝越しにあんなに長いあいだながめてすごした あの澄んだ空、そしてある日、ふっと消え去るのを見たあの澄んだ空の、あの思い出によって、私は、こうした神的な瞬間に達するようにと決定づけられたのであろうか?
このあいだ、どういう経緯があったのでしょうか? それはまた次週に。(ほんとは理解不足なので、じっくり読まないと。)
■美術手帳6月号「物語る絵画」:斎藤環がアーティスト鴻池朋子の物語に関して書いたものが参考になる。
……、彼女の物語も未知なるものへの予感をたたえてわれわれを魅惑する。彼女自身(鴻池朋子)が「ジェットコースターが頂点にさしかかろうとする、何かが待ち構えてるギリギリのところ」と述べているように、埋もれているのは「未来としての過去」であり「未知としての既知」であるからだ。
それは中井久夫の言葉を借りるなら、「兆候」であり「索引」でもあるような物語、とも言いうるだろう。「索引」とは、あの「紅茶に浸したマドレーヌ」が喚起する記憶のように、ひとつの刺激をきっかけにして自分のなかの記憶の層がポリフォニックに賦活されるような作用を意味している。いっぽう「兆候」は、やはりひとつの刺激が予兆として、圧倒的ななにものかの到来を予感させる作用である。余談ながら、前者は「うつ病」に親和性が高く、後者は「統合失調症」的な認識であるとされている。
「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって兆候の明滅するところでもところでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、いわば眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。」「ここにおいては、もっとも とおく、もっともかすかなもの、存在の地平に明滅しているものほど、重大な価値と意味を有するものではないだろうか」(中井久夫『兆候・記憶・外傷』)
以前にも書いたことだが、われわれは「純粋兆候」や「純粋索引」を見いだすことはない。中井の功績は、「兆候」「索引」を正確に区分したのみならず、「兆候の索引性」「索引の兆候性」という捻れた関係を取り出した点にある。それは追想と予感が一致する、「ハイデガー的捻れ」でもある。(斎藤環「反復する「不時着」」美術手帳6月号)
(言うまでもないけど)、「紅茶に浸したマドレーヌ」は、それを食べたことから過去の記憶が一気に思い出されるという、プルースト『失われた時を求めて』の有名なシーン。
design・music・hotel・poetry サイト
2005年7月24日
Patrick Watson (music/composer)
http://www.patrickwatson.net/
utopia (design studio)
http://www.utopia.com.mx/
John Leigh (Designer)
http://www.karborn.com/2005/index.html
「アドリア海の真珠」城塞都市ドブロヴニクのホテル
(この前のユーゴ内戦で、ドブロヴニクの街はセルビアの砲撃で破壊された。)
http://www.hotelimaestral.com/index2.php
(BGのサウンドが4トラックあり、それぞれ旅情を味わえる)
「腐った林檎うつくしい世界ころされたあなたそのとき…」
http://kill.sunnyday.jp/
http://www.patrickwatson.net/
utopia (design studio)
http://www.utopia.com.mx/
John Leigh (Designer)
http://www.karborn.com/2005/index.html
「アドリア海の真珠」城塞都市ドブロヴニクのホテル
(この前のユーゴ内戦で、ドブロヴニクの街はセルビアの砲撃で破壊された。)
http://www.hotelimaestral.com/index2.php
(BGのサウンドが4トラックあり、それぞれ旅情を味わえる)
「腐った林檎うつくしい世界ころされたあなたそのとき…」
http://kill.sunnyday.jp/
きょうのできごと…ということでもないけど
2005年7月7日
・来週いっぱいまでの仕事があるので、なかなか更新できない。
本当は去年で終わっている仕事なのだけど、先方がデータをなかなか送ってこず、やっと来たっと思ったら私が病気で倒れ、(知り合いの会社なので待ってもらえた)、そして退院したら今度はデータの変更があるということでまた延び延びになって、そしてやっと仕事に着手できた、という具合。
・「マック、100円メニューで大幅減益へ。 33億円が1億円に。」
ということで、100円のメニューが、今は写真もなく、隅に追いやられている。
でもそれでも100円メニューの文字を指して、これとこれとコーヒー(200〜300円なり)と注文する。100円メニューがなくなったら、マックは行かない…かも。
・前回(6/28)、「いいなあ、東京は。」と書いたが、東京(首都圏)こそストレス社会の最前線かもしれない。
・『空間の詩学』(ガストン・バシュラール)と『孤島』(ジャン・グルニエ)の英語翻訳本をamazonに注文した。
ぜんぶ英語版で読むというのではなく、英語版で仏和翻訳のよく理解できないところを確かめるために。なんせフランス語がわからないので。
本当は去年で終わっている仕事なのだけど、先方がデータをなかなか送ってこず、やっと来たっと思ったら私が病気で倒れ、(知り合いの会社なので待ってもらえた)、そして退院したら今度はデータの変更があるということでまた延び延びになって、そしてやっと仕事に着手できた、という具合。
・「マック、100円メニューで大幅減益へ。 33億円が1億円に。」
ということで、100円のメニューが、今は写真もなく、隅に追いやられている。
でもそれでも100円メニューの文字を指して、これとこれとコーヒー(200〜300円なり)と注文する。100円メニューがなくなったら、マックは行かない…かも。
・前回(6/28)、「いいなあ、東京は。」と書いたが、東京(首都圏)こそストレス社会の最前線かもしれない。
・『空間の詩学』(ガストン・バシュラール)と『孤島』(ジャン・グルニエ)の英語翻訳本をamazonに注文した。
ぜんぶ英語版で読むというのではなく、英語版で仏和翻訳のよく理解できないところを確かめるために。なんせフランス語がわからないので。
『建築する身体―人間を超えていくために』
2005年6月28日 読書
荒川修作+マドリン・ギンズ、河本 英夫 (翻訳) ¥1,365 (税込)(春秋社)
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・
『TONE』(トーン)という新雑誌で、荒川修作(アートの作家、コーデノロジスト)が相談室を連載するというので、買ってきた。(創刊1号目の記事で、創刊2号が6/27日に出た。)
第一回は「死にたいひとが、死なないために」― 自殺掲示板に投稿するひとたちへ、という相談。
ちょっとだけ引用と思ったけど、けっきょく追伸を除いて全文を引用した。
『建築する身体』は、普通の本とトイレットぺーパーの2つのバージョンがあるそう。
NHKの「ようこそ先輩」に出た荒川修作は、卒業した小学校を勘違いして、他の小学校で授業をやったそうだ。母校を間違えるって よくあるよね……って、ないない、そんなこと。めったに。
でも、この番組、見逃した。もう再放送はやらないだろうな。
いちおう、三鷹天命反転住宅サイトのWebサイト。
http://www.architectural-body.com/mitaka/archives/_/index.html
いいなあ、東京は。
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『TONE』(トーン)という新雑誌で、荒川修作(アートの作家、コーデノロジスト)が相談室を連載するというので、買ってきた。(創刊1号目の記事で、創刊2号が6/27日に出た。)
第一回は「死にたいひとが、死なないために」― 自殺掲示板に投稿するひとたちへ、という相談。
今日は! 私は、荒川修作(コーデノロジスト)です。コーデノロジストとは、今までの芸術、哲学、科学の統合に向かい、その実践を推し進める者。
さて、世界は、いや日本の政治、経済、社会は、デタラメな方向に進んでいますね。その影響を、からだ、いや身体、いや有機体全体で受け止めてしまい、もう呼吸もできないような生活環境でやっと生きてるあなたやわたしたちに、スゴイ、ニュースが送られてきましたよ。
現在、東京・三鷹市大沢……に建設中の共同住居は、何百人という人々が草の根運動で集めたお金で、完成に向かっているのです。このアパート、いや住居で住み、生活を始めると、モノスゴイ希望と夢が生まれ、しかも、いままで考えてもいなかった「自由」が有機体のすみずみに降り立ってくるのです。しかも、いまのところ世界の誰も信じられませんが、その場所で生活することによって、”死なない”方向に動き出し、毎日少しずつ「命」があなたのからだの外側にも現れくるのですよ!
この現われを一時間でも早く知りたいひとは、最近出版された『建築する身体』を読んでみることですね。大変デタラメにムズカシイ本ですが、毎日、毎月、毎年、いや十年〜二十年くらい読み続けてみてくださいね。何もワカラナクても、何度も読んで、読み続けてみてくださいね。同時に、この本がトイレットぺーパーにもなっていますから、あたなの便所で使い始めれば、何が起こるかわかりませんよ。
こんなことを毎日考え、行動にうつしているひとのことをコーデノロジストというのですよ! そして、とくに毎日、毎秒、毎時間、あなたの近辺から現れる「雰囲気」と会話できるようになってくださいね! 気をつけて!
― 荒川
ちょっとだけ引用と思ったけど、けっきょく追伸を除いて全文を引用した。
『建築する身体』は、普通の本とトイレットぺーパーの2つのバージョンがあるそう。
NHKの「ようこそ先輩」に出た荒川修作は、卒業した小学校を勘違いして、他の小学校で授業をやったそうだ。母校を間違えるって よくあるよね……って、ないない、そんなこと。めったに。
でも、この番組、見逃した。もう再放送はやらないだろうな。
いちおう、三鷹天命反転住宅サイトのWebサイト。
http://www.architectural-body.com/mitaka/archives/_/index.html
いいなあ、東京は。
『腰痛は”怒り”である』 ―(その2 -2)
2005年6月24日(Revised 11:00)
うちの母親は腰痛があまりひどいので、去年の暮、形成外科を受診して、そして手術を受けることになった。脊椎をピン止めで固定する手術だ。
で、その術後、どうなったかというと、以前ほどではないが相変わらず痛みはあり、さほど良くはなってないようだ。というか、最近は以前と同じくらいの痛みがあるようだ。薬では、痛みは取れないらしい。
母親はこの本とか、あと夏樹静子の『椅子がこわい ― 私の腰痛放浪記』(1)といった本も読んでいた。でも、ストレスは心療内科や精神科の範囲だし、それよりも「あなたの脊椎はこれこれの問題があって、それでこうすると直ります」という検査診断と外科手術のほうが分かりやすかったのだろう。
(1) この作家の3年くらい続いた腰痛が、けっきょく心療内科を受診して、ストレス由来であることが分かった、という話。
今年の4月、『腰痛は”怒り”である』の著者である長谷川淳史氏(TMSジャパン代表)が札幌で講演会を開くという新聞記事が出ていて、それでわたしが代わりに講演会に行ってきた。
要は、世界の腰痛治療はここまで進んでいて、それにくらべて日本の腰痛医療はやらなくてもいい治療や検査などを行っている、というもの。
従来、腰痛の原因として、背骨の老化、椎間板の異常、背骨や骨盤の異常、不良姿勢、腰部損傷などが考えられていたが、そうではなく、心理・社会的な要素が大きく、仕事に対するストレスや心理社会的因子(不安、抑うつ、欲求不満、夫婦や姑嫁関係)が危険因子となっている、ということらしい。
じっさい母親は、人間関係でいろいろとストレスが鬱積していた。(わたしにも原因があるのだろうけど。) がんらい生真面目だし、ストレス解消法があまり得意じゃない。
あ、もう寝ないと。
ということで、また明日。(続く)
うちの母親は腰痛があまりひどいので、去年の暮、形成外科を受診して、そして手術を受けることになった。脊椎をピン止めで固定する手術だ。
で、その術後、どうなったかというと、以前ほどではないが相変わらず痛みはあり、さほど良くはなってないようだ。というか、最近は以前と同じくらいの痛みがあるようだ。薬では、痛みは取れないらしい。
母親はこの本とか、あと夏樹静子の『椅子がこわい ― 私の腰痛放浪記』(1)といった本も読んでいた。でも、ストレスは心療内科や精神科の範囲だし、それよりも「あなたの脊椎はこれこれの問題があって、それでこうすると直ります」という検査診断と外科手術のほうが分かりやすかったのだろう。
(1) この作家の3年くらい続いた腰痛が、けっきょく心療内科を受診して、ストレス由来であることが分かった、という話。
今年の4月、『腰痛は”怒り”である』の著者である長谷川淳史氏(TMSジャパン代表)が札幌で講演会を開くという新聞記事が出ていて、それでわたしが代わりに講演会に行ってきた。
要は、世界の腰痛治療はここまで進んでいて、それにくらべて日本の腰痛医療はやらなくてもいい治療や検査などを行っている、というもの。
従来、腰痛の原因として、背骨の老化、椎間板の異常、背骨や骨盤の異常、不良姿勢、腰部損傷などが考えられていたが、そうではなく、心理・社会的な要素が大きく、仕事に対するストレスや心理社会的因子(不安、抑うつ、欲求不満、夫婦や姑嫁関係)が危険因子となっている、ということらしい。
じっさい母親は、人間関係でいろいろとストレスが鬱積していた。(わたしにも原因があるのだろうけど。) がんらい生真面目だし、ストレス解消法があまり得意じゃない。
あ、もう寝ないと。
ということで、また明日。(続く)
『腰痛は”怒り”である』 ―(その1)
2005年6月23日 読書
ISBN:4393713443 単行本 長谷川 淳史 春秋社 2002/03/09 ¥1,365
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(マウスの誤操作だったのか、書いたのが消えた。ガックリ。上のは引用なのでもう一回再アップできるけど、コメント文章はしんどい。きょうはやめ。また明日にでも)
□ (amazan書評)
… TMSとは「Tension Myositis Syndrome」(緊張性筋 炎症候群)の略称で、ニューヨーク大学医学部のジョン・サーノ教授が発見した、肩こり・腰痛などの筋骨格系疾患を、心理的緊張を解くことによって治療しようという方法だ。
痛みと心の状態の間には、実は密接な関係がある。人間の体にはストレスや不快な感情を抑制しようとする「防衛機制」という働きがある。心の安定を保ち、精神的破局を避けるための意識的・無意識的な働き、心の安全装置だ。この防衛機制が、意識を他に 向けさせるため、痛みを作り出すのである。不安、心配、恐怖、悲しみ、抑うつ、後悔、自責の念、罪悪感、なかでも「怒り」は無意識のうちに抑圧されてしまうことが多い。なぜなら怒りは社会的に敵視された感情だからだ。怒るからには原因がある。けれど、怒りを見せて、良いことがあるだろうか。怒ってばかりいる人の社会的評価はたい てい低い。
さて、腰痛が起きたらどうするか?痛みはこの際、無視。心の中の怒りを探し出すことだ。最近のできごとを振り返り、職場か家庭でストレスになったことはないか、緊張したことはないか、腹を立てたことはないかをじっくり考えてみよう。怒りを自覚さえできれば、痛みの出番はもうない。
□ (村上正人 日本大学板橋病院心療内科 「心身医学」2000年8月 書評)
… サーノ理論のユニークな点は、筋肉骨格系の疾患を有する患者の9割が気管支喘息、消化性潰瘍、蕁麻疹、めまい、耳鳴りなどの症状を有している事実に注目し、これらが共通してある種の心理的緊張より生じる症候群であることに気づいていることである。著者(長谷川淳史氏)はここで日本心身医学会の心身症の定義を紹介しているが、サーノ博士はTMSやその合併症を心身症という概念で一元的にとらえることで、筋肉骨格系疾患患者の本質的な問題に迫ろうとしたのである。
サーノ博士は腰痛の原因となる不快な感情に焦点を当て「怒りの抑圧」が最も重要であると述ペている。
怒りの感情がほかの不安、悲哀、抑うつ、自責の念、罪悪感などの感情と決定的に異なっているのは、怒りが社会的に最も敵視され、人格が疑われる感情であるということである。怒りは無意識に抑圧され、その不快な感情をそらすための防衛機制として腰痛が出現するというのである。
TMS治療プログラムの要点は、怒りという陰性感情に気づき、身体的な痛みにこだわらず心の内面に目を向け、怒りとその理由に注意を振り向けるという認識の作業を行うことであり、緊張の緩和にリラクセーション技法を積極的に取り入れ、こじれた人間関係を修復し「いまここ」に生きる発見をすることであるという。
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(マウスの誤操作だったのか、書いたのが消えた。ガックリ。上のは引用なのでもう一回再アップできるけど、コメント文章はしんどい。きょうはやめ。また明日にでも)
■空間の詩学
ISBN:4480087249 文庫 ガストン・バシュラール(訳:岩村 行雄) 筑摩書房 2002/10 ¥1,680
家、宇宙、貝殻、ミニアチュール――人間をとりまくさまざまな空間は、どのような詩的イメージを喚起させるのか? ……
------
われわれのいるこの世界は、まず空間があってそれから事物があるのではない。三次元空間は、そのなかで人や事物が位置を占める、コンテナ(容器)ではない。そういうのは稀だ。逆に、<私>の運動や知覚や認識が、「空間を与える」のだ。認知環境とのリアクションから生まれ、そして消えるその都度の出来事の束が、空間なのだ。そうした空間はあまり因果的ではないので、イメージや比喩の活躍の場でもある。
バシュラールにとって詩的イメージとは、ミニアチュールの微小なものから宇宙や無限大なものまで、それぞれのユニークな空間が想像力と夢想によって生成される場だ。空間の詩学とは世界そのものの表現であり、そしてたましいの息吹である。詩的イメージとは「霊魂のおもてに突如としてうかぶ浮彫であり」であり、もしそういう言葉が嫌なら、オーラ(アウラ)でもいいかも。あるいは、人の心に励起状態を生ずるもの、たとえば、「おーーぉ!」とか「あぁー!」とか「幸福な気分」とか「懐かしい」とか、何かときめくものだ。
これは詩的なイメージだけでなく、散文や小説でもおなじだろうし、さらに美術や写真や映画などのビジュアルについても言えるだろう。
それにしても『空間の詩学』は、わたしの理解力が不足してるところもあるのだろうけど、なかなか読むのが大変です。フランス語は分からないのだけど、訳がちょっと分かりづらいような気が。
ちょうど澁澤龍彦『夢の宇宙誌』とヴァレリー『人と貝殻』(松田浩則訳)で、該当する箇所(「貝殻」)を訳したものがあったので、比較してみる。
*
■『つぐみ』(市川準監督)
いまさらなのだけど、ビデオで『つぐみ』(市川準監督)を観た。
吉本ばななの『TUGUMI』は、(エラそうな言い方になるけど)よくできた作品で、それこそ詩的イメージにあふれた小説だ。だからそれを映画に撮りたいという気持ちが分からないでもないけど、けっきょく単なる原作からとったエピソードの羅列のような気がした。
まりあと陽子は、つぐみがいくら我侭といえ、なにか結びつける絆があり、その関係を表現するたのにこの小説はある、ともいえる。たとえば小学生のときの回想で、三人がいつも見ていたTV番組が終了したあと、夜中に誰ともなく集まって、そして隣町まで行くというシーンがある。これなども、三人の気脈が相通じているという例証で、原作のあの夜のワクワクした気持ちが、映画では表現できなかったように思う。そして、つぐみが白い小石を拾ったという回想も、語り手のまりあの思いが込められていて、単に事実として小石を拾うというエピソードではないのだ。
小説には文学空間で紡がれたたましいがあるし、映画には映像作品のたましいがある。でもこの映画では、それが感じられなかった。
*
■STUDIO VOICE 6月号 最終コミックリスト200
"00年代マンガ"のすべて!! 『DEATH NOTE』から『ハチミツとクローバー』、『NANA』から『世界の終わりの魔法使い』まで!
もうとっくにガイシュツかもしれないですが・・・、そういうことです。
というか、スタジオ・ボイスは毎月6日に発売だそうで、今日は7月号が店頭に……。役立だない情報でした……、ウン、ザンネ〜〜ン!
あ、でも、バックナンバーを揃えている本屋もあります。
*
■デザイン&アート&ゲーム・サイト
□a collaborative art project 2004
http://www.eviltree.de/zoomquilt/zoom.htm
[ click here to start ]のクリックと、ドラグup/downでズーム・イン/アウトとスピードの調整ができる。
□funnel design group
http://www.funneldesigngroup.com/
□SUILEN
http://www.suilen.net/
SUILENという日本のグループ。日本にいないハチドリもでてくるが、美しい。
□amanitadesign(もしかして、もうすっかり有名なのかも)
http://www.amanitadesign.com/samorost/
シュールなゲーム。画面に手がかりがある。
5画面(?)をやっとこクリアできた。
ISBN:4480087249 文庫 ガストン・バシュラール(訳:岩村 行雄) 筑摩書房 2002/10 ¥1,680
家、宇宙、貝殻、ミニアチュール――人間をとりまくさまざまな空間は、どのような詩的イメージを喚起させるのか? ……
------
われわれのいるこの世界は、まず空間があってそれから事物があるのではない。三次元空間は、そのなかで人や事物が位置を占める、コンテナ(容器)ではない。そういうのは稀だ。逆に、<私>の運動や知覚や認識が、「空間を与える」のだ。認知環境とのリアクションから生まれ、そして消えるその都度の出来事の束が、空間なのだ。そうした空間はあまり因果的ではないので、イメージや比喩の活躍の場でもある。
バシュラールにとって詩的イメージとは、ミニアチュールの微小なものから宇宙や無限大なものまで、それぞれのユニークな空間が想像力と夢想によって生成される場だ。空間の詩学とは世界そのものの表現であり、そしてたましいの息吹である。詩的イメージとは「霊魂のおもてに突如としてうかぶ浮彫であり」であり、もしそういう言葉が嫌なら、オーラ(アウラ)でもいいかも。あるいは、人の心に励起状態を生ずるもの、たとえば、「おーーぉ!」とか「あぁー!」とか「幸福な気分」とか「懐かしい」とか、何かときめくものだ。
これは詩的なイメージだけでなく、散文や小説でもおなじだろうし、さらに美術や写真や映画などのビジュアルについても言えるだろう。
それにしても『空間の詩学』は、わたしの理解力が不足してるところもあるのだろうけど、なかなか読むのが大変です。フランス語は分からないのだけど、訳がちょっと分かりづらいような気が。
ちょうど澁澤龍彦『夢の宇宙誌』とヴァレリー『人と貝殻』(松田浩則訳)で、該当する箇所(「貝殻」)を訳したものがあったので、比較してみる。
◆貝殻にはきわめて明晰、確実、硬質な概念が対応するので、貝殻をただ単純にえがくことができない詩人、これについてかたらなければない詩人は、さしあたってイメージに不足する。夢想される価値にのがれようとしても、形状がしめす幾何学的現実によってひきとめらてしまう。(『空間の詩学』)
◆貝殻には、じつに鮮明な確固とした一つの概念が結びついてるので、絵に描く場合は簡単だが、詩人がこれについて語らねばならない場合は、まずイメージの不足を感じる。せいぜい、形体の幾何学的現実が心に思い浮かべるいろいろな価値について、語ることぐらいしかできはしない。(澁澤龍彦『夢の宇宙誌』)
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◆ある結晶、ある花、ある貝殻は、感覚できるすべてのものがもつあの通例の無秩序から脱却している。(『空間の詩学』)
◆(たくさんの雑音のなかから聞こえてくる純粋な音、あるいは純粋な音による旋律構成のように、)水晶、花、貝殻は、感覚で捉えられるものの全体が通常呈している無秩序状態から浮かび上がってくる。(ヴァレリー「『人と貝殻』)
*
■『つぐみ』(市川準監督)
いまさらなのだけど、ビデオで『つぐみ』(市川準監督)を観た。
吉本ばななの『TUGUMI』は、(エラそうな言い方になるけど)よくできた作品で、それこそ詩的イメージにあふれた小説だ。だからそれを映画に撮りたいという気持ちが分からないでもないけど、けっきょく単なる原作からとったエピソードの羅列のような気がした。
まりあと陽子は、つぐみがいくら我侭といえ、なにか結びつける絆があり、その関係を表現するたのにこの小説はある、ともいえる。たとえば小学生のときの回想で、三人がいつも見ていたTV番組が終了したあと、夜中に誰ともなく集まって、そして隣町まで行くというシーンがある。これなども、三人の気脈が相通じているという例証で、原作のあの夜のワクワクした気持ちが、映画では表現できなかったように思う。そして、つぐみが白い小石を拾ったという回想も、語り手のまりあの思いが込められていて、単に事実として小石を拾うというエピソードではないのだ。
でも私は、あらゆる点で、つぐみが「生の人間であること」を忘れそうになる度にその石ころのことと、あの夜、はだしで外に出て、歩かずにはいられなかった幼いつぐみのことを思い出して、なんとなくもの哀しい、冷静になるのだった。
小説には文学空間で紡がれたたましいがあるし、映画には映像作品のたましいがある。でもこの映画では、それが感じられなかった。
*
■STUDIO VOICE 6月号 最終コミックリスト200
"00年代マンガ"のすべて!! 『DEATH NOTE』から『ハチミツとクローバー』、『NANA』から『世界の終わりの魔法使い』まで!
もうとっくにガイシュツかもしれないですが・・・、そういうことです。
というか、スタジオ・ボイスは毎月6日に発売だそうで、今日は7月号が店頭に……。役立だない情報でした……、ウン、ザンネ〜〜ン!
あ、でも、バックナンバーを揃えている本屋もあります。
*
■デザイン&アート&ゲーム・サイト
□a collaborative art project 2004
http://www.eviltree.de/zoomquilt/zoom.htm
[ click here to start ]のクリックと、ドラグup/downでズーム・イン/アウトとスピードの調整ができる。
□funnel design group
http://www.funneldesigngroup.com/
□SUILEN
http://www.suilen.net/
SUILENという日本のグループ。日本にいないハチドリもでてくるが、美しい。
□amanitadesign(もしかして、もうすっかり有名なのかも)
http://www.amanitadesign.com/samorost/
シュールなゲーム。画面に手がかりがある。
5画面(?)をやっとこクリアできた。
冬眠明け?
2005年3月20日えっと、久しぶりの更新になります。
さてこの間、わたしの身辺に何が起きたのでしょう?
まあ、「そんなこと 知らんわ!」と言われそうですし、それに、もう訪問者が誰もいなくなったのかもしれないのですが…、
いちおう、
1. 「blog燃えつき症候群」だった。
2. 商売繁盛で、更新するヒマもなかった。
3. 冬を乗り切るため、冬眠でエネルギー消費を抑えていたため。で、やっと春が来たので、更新を再開です。
4. 宇宙人に拉致されていたから。
5. 病気のため。
6. その他。
の、いずれかです。
少なくとも更新できるような状況ではなかったのですが、これからも更新頻度は、そんなに多くないと思います。また、あまり ややこしいことは書かないで、もっとまったりしたものや WebデザインなどのURLの紹介にしたいと思ってます。
*
で、webデザインsite の紹介。
Teodoru Badiu(オーストリアのクリエータ)
http://www.scene360.com/xtra/InDetail/16_teo/teodorubadiu.html
「gallery」にシュールな画像が。
もっとたくさんの画像は以下に。
http://www.apocryph.net/
the corn project
http://www.hybridworks.jp/
Le Club
http://www.leclubsantaeulalia.com/
ポルトガルのレストラン・バー
さてこの間、わたしの身辺に何が起きたのでしょう?
まあ、「そんなこと 知らんわ!」と言われそうですし、それに、もう訪問者が誰もいなくなったのかもしれないのですが…、
いちおう、
1. 「blog燃えつき症候群」だった。
2. 商売繁盛で、更新するヒマもなかった。
3. 冬を乗り切るため、冬眠でエネルギー消費を抑えていたため。で、やっと春が来たので、更新を再開です。
4. 宇宙人に拉致されていたから。
5. 病気のため。
6. その他。
の、いずれかです。
少なくとも更新できるような状況ではなかったのですが、これからも更新頻度は、そんなに多くないと思います。また、あまり ややこしいことは書かないで、もっとまったりしたものや WebデザインなどのURLの紹介にしたいと思ってます。
*
で、webデザインsite の紹介。
Teodoru Badiu(オーストリアのクリエータ)
http://www.scene360.com/xtra/InDetail/16_teo/teodorubadiu.html
「gallery」にシュールな画像が。
もっとたくさんの画像は以下に。
http://www.apocryph.net/
the corn project
http://www.hybridworks.jp/
Le Club
http://www.leclubsantaeulalia.com/
ポルトガルのレストラン・バー
無垢の非力
2004年11月1日(別のほうのblogに書いたのとほぼ同じ内容です。)
いくつかのblogで見られるように、香田さんという人を馬鹿な奴だと非難するのは確かに簡単だろう。でも経緯はなんであれ、実際に命が失われるかどうかという境目にいて、テレビカメラの前で「助けてください」と懇願している者の表情や声を見聞きして、死んでも当然とか自分には関係ないと捨てておけるものだろうかという疑問を感じた。(1) 彼はまさに死に最も近い者という意味で、レヴィナスのいう「他者」(寡婦、孤児、異邦人などと同列の大文字の他者)だったのではないだろうか。そうした者を前にして、高見に立って侮蔑したり、出来事と自分との切り離しに懸命な人間というのは、正直あまり信用できないと思ってる。もしも殺されるかもしれない立場に置かれた者に、同情や憐憫の気持ちが湧かないとしたら、少なくとも黙ってるのが作法というものでしょう。(2)
とはいっても実際は、人を「他者」として見るというのは、なかなか出来るものではない。ものごとや人をあるがままに見ることを妨げる心理的なバイアスがかかるし、また共感能力というのも必要になってくる。私にしてもとくに共感たっぷりというわけではなく、実は他の人の視点をブースターにしたところもあったりする。共感というのはたしかに政治的に利用されることがあり、じっさい今回の悲劇を自分たちの政治主張にリンクさせようとする綱引きもすでに始まっている。だけど共感はたんなる同意や馴れ合いとは違うし、何よりも「他者」認知がそこから始まる入口でもあると思う。
香田さんという人は無垢な人だったのだと思う。そうでなければ今のイラクで自分探しをするなどという発想などしないだろうし。もしかして無辜(innocence)といってもいいかもしれない。
無垢や無辜といった面を強調するのもなんだけど、ふつう人は憎悪とか敵意とかを心のなかに持つことがあり、したがって他人もそれを持つものだと認識する。だけど、そういう考えを持ち合わせていない人も世の中にはけっこういるのだ。いわゆる人を疑うということをしないというタイプだ。
人それぞれ、頭や要領の良し悪しとか注意深さに違いがあったり、それに運不運も重なったりして、人生には間違いやドジやミスというのはザラにあるものだ。だけど、だからといって他人からどうこう言われる筋合いなんかない。そして無垢な人というのは、けっこうドジで世渡りもヘタなので、たいていはいつも世界の端っこにいる。そしてたまたま人質とかになって注目を浴びたりすると世界の中心近くに引っぱり上げられ、そうするとこんどは妬まれて叩かれるというパターン。(無垢な人の考えることってよく分からないところがあるけど、嫉妬に駆られる自己愛人間の考えることは分かりやすくてツマラナイ。)
知らない土地に行けば、そしてとくに土地事情に疎ければ、災難や悲劇に見舞われることもあったりする。私も昔まだウブだったころ、ヨーロッパを旅行していたとき、話し掛けてきた二人組に睡眠薬入りのジュースを飲まされたことがあって、けっきょく被害は時間だけだったけど(一日分余計にベッドで寝てた)、あれでもし薬の量がずっと多ければ、貨物便で日本に帰って来てた可能性もまったくないわけではない。ほんとバカみたい話だけど、他人にとやかく言われる筋合いはない。バックパックはやったことがないけれど、経験豊富な人なら危ない目に会ってないことのほうが少ないと思うし、経験に応じて危険回避のノウハウも蓄積されてくるものだろう。つまり、人生いろいろあるってこと。
どこかのblogで「24歳にもなってまだ自分探しなんて」と書いてたのがあった。そう書いてた本人は自分というものが見つかったのだろうか。単に就職先や進路が決まったというのでは、自分が探せたことにはならない。そもそも人間は自己の中心に空を抱えているものなので、そうだとしたらいくら自分を掘り下げていっても、自分というものに到達することはできない。自分探しや自己ナントカというのをやると、たいていそこで躓いてしまう。<わたし>というのは、それこそ様々な「他者」や「われわれ」から抽出されてくるものなのだろうから。彼の場合は可哀想に、悲劇で24年の人生が終わってしまったけれど。
無垢や無辜な人間ならなおさらだろうけど、そうでなくとも一般民間人に対する攻撃じたい罪が重いし、殺人となると最大の罪だろう。もちろんアルカイダが下手人で一番重罪だけど、きたない戦争の尻馬に乗って内乱状態のイラクに自衛隊を送った政府も、決して罪を免れるものではない。それと、開戦以来のイラクの死者が10万人と推計され、そのなかに無辜の子供もたくさんいるという事実からも目をそむけてはいけないですね。とくに保守系のメディアなど、なんかモラルハザードを起こしてるんじゃないの。
無垢というのは何かの欠如だ。欠如(という否定)が否定神学的に肯定に、さらには「他者」につながるというのは、レヴィナスやバフチンの論理だった(と思う)。内田樹の新しい著書『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』は、ラカンとレヴィナスとの接点についても言及している作田啓一『生の欲動』を下敷きにしてるっぽい感じもするけど、時間とお金の余裕が出来たら読んでみたい。
内田樹はレヴィナスの「他者」を死者(たち)としているけど、香田さんは「死に近い者」から世界の彼岸の「他者」になってしまった。今回の事件に関しては、相も変わらず政治的立場に依拠したスローガンや記号を使いまわして、固定した意味・価値体系のなかでの自閉的反復も繰り返されているけど、数多くの人間にあらためて何かを考える機会をもたらしたという意味では、決して無駄な死というわけではなかったと思う。 (合掌)
(1) おそらく捨て置くために、そして相対的な価値を下げるために、ほんらい関係のない新潟地震が持ち出されたりするのだろう。いろいろなやり方で「切断操作」をしているが散見され、なかには「自殺願望」などといった無茶苦茶なものもあった。
(2) 誰もが香田さんという人に愚かさやナイーブさ感じるとは思うけど、自己尊大感をくすぐられたのか、わざわざ香田は愚かな奴だという侮蔑を得意満面に書いている愚かな人間が何人もいた。「語るに落ちる」とは気づかず、自分は愚かではないということをわざわざ主張したいわけだ。
(3) 無辜さというのは、四月の人質事件の高遠さんについても同様に言えると思ってる。彼女も俗世間の常識からするとヘンな人なのだ。個人的には、ボランティアが良いことだとか偽善だとかいうのはどーでもいい話で興味はないし、彼女もそんな水準を超えてると思っている。
基本的には、自分で「これが自分のミッションだ」と思ったことは、(悪行や他人に危害を及ぼすものなどは別として)好きなところに行って自由にやったらいいと思う。評価はまた別の話。そして、世界を見たいというバックパックにしろ、アラスカでオーロラやグリズリーをぜひ見てみたいという旅行にしろ、その人なりのミッションと言えないこともないと思うのだけど。前回の人質3人+2人と今回のは、基本的に変わりはないと思っている。
いくつかのblogで見られるように、香田さんという人を馬鹿な奴だと非難するのは確かに簡単だろう。でも経緯はなんであれ、実際に命が失われるかどうかという境目にいて、テレビカメラの前で「助けてください」と懇願している者の表情や声を見聞きして、死んでも当然とか自分には関係ないと捨てておけるものだろうかという疑問を感じた。(1) 彼はまさに死に最も近い者という意味で、レヴィナスのいう「他者」(寡婦、孤児、異邦人などと同列の大文字の他者)だったのではないだろうか。そうした者を前にして、高見に立って侮蔑したり、出来事と自分との切り離しに懸命な人間というのは、正直あまり信用できないと思ってる。もしも殺されるかもしれない立場に置かれた者に、同情や憐憫の気持ちが湧かないとしたら、少なくとも黙ってるのが作法というものでしょう。(2)
とはいっても実際は、人を「他者」として見るというのは、なかなか出来るものではない。ものごとや人をあるがままに見ることを妨げる心理的なバイアスがかかるし、また共感能力というのも必要になってくる。私にしてもとくに共感たっぷりというわけではなく、実は他の人の視点をブースターにしたところもあったりする。共感というのはたしかに政治的に利用されることがあり、じっさい今回の悲劇を自分たちの政治主張にリンクさせようとする綱引きもすでに始まっている。だけど共感はたんなる同意や馴れ合いとは違うし、何よりも「他者」認知がそこから始まる入口でもあると思う。
香田さんという人は無垢な人だったのだと思う。そうでなければ今のイラクで自分探しをするなどという発想などしないだろうし。もしかして無辜(innocence)といってもいいかもしれない。
無垢や無辜といった面を強調するのもなんだけど、ふつう人は憎悪とか敵意とかを心のなかに持つことがあり、したがって他人もそれを持つものだと認識する。だけど、そういう考えを持ち合わせていない人も世の中にはけっこういるのだ。いわゆる人を疑うということをしないというタイプだ。
人それぞれ、頭や要領の良し悪しとか注意深さに違いがあったり、それに運不運も重なったりして、人生には間違いやドジやミスというのはザラにあるものだ。だけど、だからといって他人からどうこう言われる筋合いなんかない。そして無垢な人というのは、けっこうドジで世渡りもヘタなので、たいていはいつも世界の端っこにいる。そしてたまたま人質とかになって注目を浴びたりすると世界の中心近くに引っぱり上げられ、そうするとこんどは妬まれて叩かれるというパターン。(無垢な人の考えることってよく分からないところがあるけど、嫉妬に駆られる自己愛人間の考えることは分かりやすくてツマラナイ。)
知らない土地に行けば、そしてとくに土地事情に疎ければ、災難や悲劇に見舞われることもあったりする。私も昔まだウブだったころ、ヨーロッパを旅行していたとき、話し掛けてきた二人組に睡眠薬入りのジュースを飲まされたことがあって、けっきょく被害は時間だけだったけど(一日分余計にベッドで寝てた)、あれでもし薬の量がずっと多ければ、貨物便で日本に帰って来てた可能性もまったくないわけではない。ほんとバカみたい話だけど、他人にとやかく言われる筋合いはない。バックパックはやったことがないけれど、経験豊富な人なら危ない目に会ってないことのほうが少ないと思うし、経験に応じて危険回避のノウハウも蓄積されてくるものだろう。つまり、人生いろいろあるってこと。
どこかのblogで「24歳にもなってまだ自分探しなんて」と書いてたのがあった。そう書いてた本人は自分というものが見つかったのだろうか。単に就職先や進路が決まったというのでは、自分が探せたことにはならない。そもそも人間は自己の中心に空を抱えているものなので、そうだとしたらいくら自分を掘り下げていっても、自分というものに到達することはできない。自分探しや自己ナントカというのをやると、たいていそこで躓いてしまう。<わたし>というのは、それこそ様々な「他者」や「われわれ」から抽出されてくるものなのだろうから。彼の場合は可哀想に、悲劇で24年の人生が終わってしまったけれど。
無垢や無辜な人間ならなおさらだろうけど、そうでなくとも一般民間人に対する攻撃じたい罪が重いし、殺人となると最大の罪だろう。もちろんアルカイダが下手人で一番重罪だけど、きたない戦争の尻馬に乗って内乱状態のイラクに自衛隊を送った政府も、決して罪を免れるものではない。それと、開戦以来のイラクの死者が10万人と推計され、そのなかに無辜の子供もたくさんいるという事実からも目をそむけてはいけないですね。とくに保守系のメディアなど、なんかモラルハザードを起こしてるんじゃないの。
無垢というのは何かの欠如だ。欠如(という否定)が否定神学的に肯定に、さらには「他者」につながるというのは、レヴィナスやバフチンの論理だった(と思う)。内田樹の新しい著書『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』は、ラカンとレヴィナスとの接点についても言及している作田啓一『生の欲動』を下敷きにしてるっぽい感じもするけど、時間とお金の余裕が出来たら読んでみたい。
内田樹はレヴィナスの「他者」を死者(たち)としているけど、香田さんは「死に近い者」から世界の彼岸の「他者」になってしまった。今回の事件に関しては、相も変わらず政治的立場に依拠したスローガンや記号を使いまわして、固定した意味・価値体系のなかでの自閉的反復も繰り返されているけど、数多くの人間にあらためて何かを考える機会をもたらしたという意味では、決して無駄な死というわけではなかったと思う。 (合掌)
(1) おそらく捨て置くために、そして相対的な価値を下げるために、ほんらい関係のない新潟地震が持ち出されたりするのだろう。いろいろなやり方で「切断操作」をしているが散見され、なかには「自殺願望」などといった無茶苦茶なものもあった。
(2) 誰もが香田さんという人に愚かさやナイーブさ感じるとは思うけど、自己尊大感をくすぐられたのか、わざわざ香田は愚かな奴だという侮蔑を得意満面に書いている愚かな人間が何人もいた。「語るに落ちる」とは気づかず、自分は愚かではないということをわざわざ主張したいわけだ。
(3) 無辜さというのは、四月の人質事件の高遠さんについても同様に言えると思ってる。彼女も俗世間の常識からするとヘンな人なのだ。個人的には、ボランティアが良いことだとか偽善だとかいうのはどーでもいい話で興味はないし、彼女もそんな水準を超えてると思っている。
基本的には、自分で「これが自分のミッションだ」と思ったことは、(悪行や他人に危害を及ぼすものなどは別として)好きなところに行って自由にやったらいいと思う。評価はまた別の話。そして、世界を見たいというバックパックにしろ、アラスカでオーロラやグリズリーをぜひ見てみたいという旅行にしろ、その人なりのミッションと言えないこともないと思うのだけど。前回の人質3人+2人と今回のは、基本的に変わりはないと思っている。
Education
2004年9月18日もうひとつの方のwebLogサイトに、米国の学校に通っている17歳の日本人の女の子のblogがあるのですが、そこで書いてること(哲学・思想関係など)がなかなかハイレベルなので、けっこう注目を浴びてます。つい最近高校を卒業して、今はどこかの大学に入ったみたいだけど、私なんかも読んでてとても勉強になります。w いえ、単に知識があるってだけじゃなく、とても筋がいいという感じ。
で、日本の大学院生並みのことを書いているのですが、もともと頭の良さや資質の高さがというのがあるにしても、たぶん環境も大きく影響してるのではないかと思っています。つまり、もし米国ではなく日本の高校に通っていたら、どうなっていただろうと。
フランスの高校では哲学の授業があって、数学や英語よりも多い時間をとって本格的にやるらしい。米国も同様なのかもしれない。
哲学や思想を学ぶということは、自分と社会や(いろんな意味での)世界との関わりを見つけていくということなのだと思う。逆に世の中と向き合ってそしたことを考える過程で、社会や世界が意識にあがってもくるのだろうし。そして思考は論理として言葉で表現しなければならないので、欧米では論理的思考やディベートといった学習も受けることになる。
おそらくそのへんのところで、日本の学校と欧米の学校の差が出てくるものと思える。日本の学校でやる「倫理」などは暗記科目みたいなものだし、それよりそもそも倫理や哲学を深くおもしろく上手に教えられる教師は、あまりいないだろうし。
それと日本の中高生は、社会や外の世界に向かうとか、何か自分で勉強したいとか思っても、その前に受験勉強や周囲の人間関係(グループ作りやその維持、部活、家庭など)でエネルギーを消耗してしまっているような気がする。
で、その米国の大学に行ってる女性のblogですが、世の中には、とくに才能ある若い女性にたいし、妬んだりひがんだりする男共がいるみたいで、「17歳なのに偉そうだ」とか「ほんとはオヤジなんだろう」とか「たいしたことない」とか、いろいろネットでやっかみを言ってるみたいです。まあ、才能ある人間を見たら、自分たちの頭の悪さやみじめさを思い知らされて、それを他人に投影(*) する人間ってけっこういますしね。
educationという言葉は日本では「教育」と訳されているけど、もともとは花などを開かせるという意味らしい。才能ある人は、あまり「教育」には期待せず、でも利用できるところは利用して、自らの才能を拓かせていってほしいと思います。 まったく余計なお世話ですけど、はい。
で、日本の大学院生並みのことを書いているのですが、もともと頭の良さや資質の高さがというのがあるにしても、たぶん環境も大きく影響してるのではないかと思っています。つまり、もし米国ではなく日本の高校に通っていたら、どうなっていただろうと。
フランスの高校では哲学の授業があって、数学や英語よりも多い時間をとって本格的にやるらしい。米国も同様なのかもしれない。
哲学や思想を学ぶということは、自分と社会や(いろんな意味での)世界との関わりを見つけていくということなのだと思う。逆に世の中と向き合ってそしたことを考える過程で、社会や世界が意識にあがってもくるのだろうし。そして思考は論理として言葉で表現しなければならないので、欧米では論理的思考やディベートといった学習も受けることになる。
おそらくそのへんのところで、日本の学校と欧米の学校の差が出てくるものと思える。日本の学校でやる「倫理」などは暗記科目みたいなものだし、それよりそもそも倫理や哲学を深くおもしろく上手に教えられる教師は、あまりいないだろうし。
それと日本の中高生は、社会や外の世界に向かうとか、何か自分で勉強したいとか思っても、その前に受験勉強や周囲の人間関係(グループ作りやその維持、部活、家庭など)でエネルギーを消耗してしまっているような気がする。
で、その米国の大学に行ってる女性のblogですが、世の中には、とくに才能ある若い女性にたいし、妬んだりひがんだりする男共がいるみたいで、「17歳なのに偉そうだ」とか「ほんとはオヤジなんだろう」とか「たいしたことない」とか、いろいろネットでやっかみを言ってるみたいです。まあ、才能ある人間を見たら、自分たちの頭の悪さやみじめさを思い知らされて、それを他人に投影(*) する人間ってけっこういますしね。
*投影:自分の持ってる後ろめたいことを、他人が持ってることにしてしまう心理のこと。
educationという言葉は日本では「教育」と訳されているけど、もともとは花などを開かせるという意味らしい。才能ある人は、あまり「教育」には期待せず、でも利用できるところは利用して、自らの才能を拓かせていってほしいと思います。 まったく余計なお世話ですけど、はい。
台風18号
2004年9月10日台風18号の強風はすごかったです。・・・って、いつの話だって言われそうですが。
近所のナナカマドの並木は、まだ熟していないオレンジ色の実をたくさん付けていたのだけど、そのうち二本ほどが折れて倒れていた。
北大のポプラ並木もかなりの木が倒れたらしい。
ナナカマドの木の幹は直径十数cmくらいだけど、ポプラは1mくらいあると思う。ポプラは台風やハリケーンなどのないヨーロッパから来た木なので、風には弱いのかもしれない。(地中海にシロッコはありますが。)
台風で8人死んでる・・・。
近所のナナカマドの並木は、まだ熟していないオレンジ色の実をたくさん付けていたのだけど、そのうち二本ほどが折れて倒れていた。
北大のポプラ並木もかなりの木が倒れたらしい。
ナナカマドの木の幹は直径十数cmくらいだけど、ポプラは1mくらいあると思う。ポプラは台風やハリケーンなどのないヨーロッパから来た木なので、風には弱いのかもしれない。(地中海にシロッコはありますが。)
台風で8人死んでる・・・。
逃げる子供たちを容赦なく銃撃 [日刊スポーツ]
2004年9月3日 時事ニュース
逃げる子供20人を背後から銃撃(Ashahi.com 2004.9.3)
北オセチアでの学校占拠事件で、突然、現場周辺に響き渡った爆発音。続いて銃撃戦が始まった。たちのぼる白煙。上空を軍用ヘリが舞う。
「目の前でばたばたと子どもたち約20人が倒れた。学校から逃げ出そうとしたところを、犯人が背後から銃で撃った」
ベスラン市の工場勤務ファメーラ・ファルカザノフさん(46)は、朝日新聞の電話取材にそう語った。
紛争のタネを撒いて、火をつけ、さらにそれに油をかけて煽る奴らが多すぎる。
チェチェン独立派
武装集団・・・無理かもしれないけど、子供というカードが
どこまで通用するかやってみた。
子供まで殺すんだぞという意志を教えてやった。
ロシア・・・子供だって切り札にならんということを教えてやった。
自分たちの権益を守るためなら、人なんかいくら
死んだって構わない。
どちらも勝てない。殺し合いが果てしなく続くだけ。
軍事的に制圧・占領して傀儡政権を作るというやり方は、米国とロシア(ソ連)がそれぞれベトナムとアフガニスタンで、そしていまイラクとチェチェンでやっている手口だけど、必死に抵抗する勢力があるとスキームは崩壊する。
そして破綻してカタストロフに至るまでに、人的にも経済的にも膨大な犠牲を残すことになる。
第三者、つまり両国民が声を上げるしかない。でもチェチェンって、人口が数十万しかいないんだよね。だからプーチンも事が簡単に運ぶと思ったのだろうけど。そして殺し屋プーチンは、もう少し人口を減らせば独立なんてことも考えなくなるだろうと考えたのか、けっきょくチェチェン人の25%を間引きしてしまったみたいだけど。
どちらの側も、チェチェンには資源があるから、独立して我がものにしたい/みすみす手放したくない、という経済的な事情があるのだろうけど、その中間(両者で分ける:自治政府)で妥協するしかないと思う。
チェチェンの人口は日本の地方の中堅都市並み。もし独立しても、どのくらい国家承認を得られ、国連にも加盟できるのかどうか疑問。また、もしロシアが国境を封鎖したら、グルジアに依存することになる。
というか、もし独立したら、ゆくゆくは
なんだか金の成る木を巡るマフィア同士の勢力争いみたいだから、ちょっとうんざりする。
(そこにいたから運が悪いんだという理屈で、あるいは意図的に)子供でも殺すというのは、ロシアやイスラエルや米国や抵抗組織などの連中によってチェチェンやパレスチナやイラクでもやらてることだけど、それにしても逃げる子供を機関銃で撃ちまくるかね。気違い共。
北海道方言
2004年9月3日ネタがないので、CUCKOO ROBINさんのところからいただき。
北海道方言
北海道の方言は大きく分けて、海岸系と内陸系の二つに分類できると言われています。海岸系はいわゆる浜言葉っていうやつで(浜といっても横浜じゃないっすよ)、おもに津軽を中心とした東北沿岸ルーツの言葉です。もうひとつの内陸系は、たぶん北陸や内陸東北やその他の地域からやって来た人たちの言葉です。それらは混じっているので、明瞭な境界線があるわけではなく、また地域によっても方言の使われ方や頻度が違ってきます。例えば、小樽には加賀衆と津軽衆の二大系統があるらしく、海岸系の言葉は津軽系(と越後の漁民系)の人たちが使い、それ以外は内陸系になると思います。例えば岩手出身の石川啄木が小樽を訪れて、「悲しきは小樽の町よ 歌うことなき人々の声の荒さよ」と詠ったのも、その海岸系(津軽弁)のことなのだろうと思ってます。
ちなみに、うちの家系は北陸加賀出身なので、いちおう内陸系になるのですが、両親もあまり北海道弁は喋らないです。私もあまり北海道弁は喋りません。って、うそ。じっさいはガキのころ、「……だべさ」とか使いまくりだったんだけどさ。でも、モロ北海道弁(とくに海岸系方言)を喋る人には、どうしてもなんとなく距離の遠さや違和感を感じてしまうんだべさ。 あ、「……だべさ」というのも津軽弁だけどね。
で、オマエは津軽をバカにして差別してるんか? と言われそうだけど、そのとおりです・・・いや違うって、そうじゃなく、何か遠さを感じるってことです。
と言いつつ、青森出身のタレント田中義剛が北海道人のふりするのは気に入らん、と思ってたりして・・・・ああ、何と器の小さいことを言ってるんだか。
そういえば会社員時代、出張で青森に行って仕事先のおっさんと話をしたとき、向こうの言ってることの半分は分からなかったことがあります。もう外国に近い。
青森(三沢)から飛行機で帰るときの空港のロビーに、北海道観光に行くらしい女の子が4人いて、でも彼女たちは、ロビーでも、また千歳から札幌市内に向かうのバスのなかでも、ほとんど話をしていなかった。ふつう4人いたら、ひとりくらいはよく喋る子がいるものだけど。そしてバスが札幌市内の大通り公園を通ったとき、イルミネーションがきれいだったので、それに気づいたひとりの子が隣の友だちに教えるのに、言葉ではなく、腕をちょっとつついて公園のほうを指さしていた。それを見て、もしかして言葉に訛りがあるから恥かしがっているのだろうかと思い、もしそうなら可哀想な気がしました。
人間、ほんとうは何を喋るかなのだけど、どう喋るかも意識する生き物ですしね。
ところで、北海盆歌は歌詞に海や浜のモチーフが多く登場します。何より「津軽海峡を渡って…」という箇所もあったし、なので、あの歌のルーツは海岸系・津軽という気がします。
人間、喋らないで、一緒に踊ったりすればいいんだね。
あ、北海道方言の話のはずなのに、何だか青森・津軽の話になってきてる。
ちなみに、アイヌの人たちは独自の言語を持っていたので、日本語の方言の枠内には入らないけど、萱野さんというアイヌの人(前参議院議員)が喋る日本語には独特のイントネーションがあります。あるときテレビをつけたときに喋ってた人が、その萱野さんとそっくりの喋り方をしてたので、きっとこの人はアイヌなのだろうと思っていたら、じつは沖縄の人だったということがあった。どちらも縄文系なので、言葉の音感でもつながりがあるのかも。
(あ、でも、津軽も縄文系の土地か・・・)
北海道方言
北海道の方言は大きく分けて、海岸系と内陸系の二つに分類できると言われています。海岸系はいわゆる浜言葉っていうやつで(浜といっても横浜じゃないっすよ)、おもに津軽を中心とした東北沿岸ルーツの言葉です。もうひとつの内陸系は、たぶん北陸や内陸東北やその他の地域からやって来た人たちの言葉です。それらは混じっているので、明瞭な境界線があるわけではなく、また地域によっても方言の使われ方や頻度が違ってきます。例えば、小樽には加賀衆と津軽衆の二大系統があるらしく、海岸系の言葉は津軽系(と越後の漁民系)の人たちが使い、それ以外は内陸系になると思います。例えば岩手出身の石川啄木が小樽を訪れて、「悲しきは小樽の町よ 歌うことなき人々の声の荒さよ」と詠ったのも、その海岸系(津軽弁)のことなのだろうと思ってます。
ちなみに、うちの家系は北陸加賀出身なので、いちおう内陸系になるのですが、両親もあまり北海道弁は喋らないです。私もあまり北海道弁は喋りません。って、うそ。じっさいはガキのころ、「……だべさ」とか使いまくりだったんだけどさ。でも、モロ北海道弁(とくに海岸系方言)を喋る人には、どうしてもなんとなく距離の遠さや違和感を感じてしまうんだべさ。 あ、「……だべさ」というのも津軽弁だけどね。
で、オマエは津軽をバカにして差別してるんか? と言われそうだけど、そのとおりです・・・いや違うって、そうじゃなく、何か遠さを感じるってことです。
と言いつつ、青森出身のタレント田中義剛が北海道人のふりするのは気に入らん、と思ってたりして・・・・ああ、何と器の小さいことを言ってるんだか。
そういえば会社員時代、出張で青森に行って仕事先のおっさんと話をしたとき、向こうの言ってることの半分は分からなかったことがあります。もう外国に近い。
青森(三沢)から飛行機で帰るときの空港のロビーに、北海道観光に行くらしい女の子が4人いて、でも彼女たちは、ロビーでも、また千歳から札幌市内に向かうのバスのなかでも、ほとんど話をしていなかった。ふつう4人いたら、ひとりくらいはよく喋る子がいるものだけど。そしてバスが札幌市内の大通り公園を通ったとき、イルミネーションがきれいだったので、それに気づいたひとりの子が隣の友だちに教えるのに、言葉ではなく、腕をちょっとつついて公園のほうを指さしていた。それを見て、もしかして言葉に訛りがあるから恥かしがっているのだろうかと思い、もしそうなら可哀想な気がしました。
人間、ほんとうは何を喋るかなのだけど、どう喋るかも意識する生き物ですしね。
ところで、北海盆歌は歌詞に海や浜のモチーフが多く登場します。何より「津軽海峡を渡って…」という箇所もあったし、なので、あの歌のルーツは海岸系・津軽という気がします。
人間、喋らないで、一緒に踊ったりすればいいんだね。
あ、北海道方言の話のはずなのに、何だか青森・津軽の話になってきてる。
ちなみに、アイヌの人たちは独自の言語を持っていたので、日本語の方言の枠内には入らないけど、萱野さんというアイヌの人(前参議院議員)が喋る日本語には独特のイントネーションがあります。あるときテレビをつけたときに喋ってた人が、その萱野さんとそっくりの喋り方をしてたので、きっとこの人はアイヌなのだろうと思っていたら、じつは沖縄の人だったということがあった。どちらも縄文系なので、言葉の音感でもつながりがあるのかも。
(あ、でも、津軽も縄文系の土地か・・・)