「現代家族の問題点とその展望」
2004年3月31日 斎藤茂太、斎藤学、斎藤環と、どうして著名な精神分析医に斎藤という姓の人が多いのかよく分からないけど、そのうちのひとり、斎藤学(さとる)氏の日本女子大での講演を記録したサイトがあった。
http://www.iff.co.jp/ssworld/mssg/gendai/zenbun.html
「現代家族の問題点とその展望」と題したもので、児童虐待、家族概念の歴史的変遷、日本の男、母娘の母子関係についてなど、かなりのボリュームがある。
男も大変だけど、女性のほうがもっと大変で、生きにくさを感じることが多いのかもしれない。そのへんについて氏は例えば、「どんどんみなさんは人間らしく生きることを剥ぎ取られて、女らしく生きることを強制されています。」という。弱い女性らしさを生きることへの、社会からかかるプレッシャーのことだ。
女子大生を聞き手とする講演なので、内容も分かりやすい。
ただ、どんな言説でもそうだけど、言われていることすべてが当たってるわけでないということは、ちょっとだけ頭の隅に置いといたほうがいいかもしれない。10割打者というのはいないのだし、6年前の講演時とは状況も講演者の考え方も少し変わっているかもしれないからだ。
いずれにしても、考えさせられる講演内容だった。
えーと、それはつまり、内容が多岐だったので、どんなのだったか大半忘れてしまって・・・(おい!)、とにかく考えさせられる講演内容だったことは憶えてる、という意味なんだけど。ふぎゃ。
もう一回読まなくちゃ。
http://www.iff.co.jp/ssworld/mssg/gendai/zenbun.html
「現代家族の問題点とその展望」と題したもので、児童虐待、家族概念の歴史的変遷、日本の男、母娘の母子関係についてなど、かなりのボリュームがある。
男も大変だけど、女性のほうがもっと大変で、生きにくさを感じることが多いのかもしれない。そのへんについて氏は例えば、「どんどんみなさんは人間らしく生きることを剥ぎ取られて、女らしく生きることを強制されています。」という。弱い女性らしさを生きることへの、社会からかかるプレッシャーのことだ。
女子大生を聞き手とする講演なので、内容も分かりやすい。
ただ、どんな言説でもそうだけど、言われていることすべてが当たってるわけでないということは、ちょっとだけ頭の隅に置いといたほうがいいかもしれない。10割打者というのはいないのだし、6年前の講演時とは状況も講演者の考え方も少し変わっているかもしれないからだ。
いずれにしても、考えさせられる講演内容だった。
えーと、それはつまり、内容が多岐だったので、どんなのだったか大半忘れてしまって・・・(おい!)、とにかく考えさせられる講演内容だったことは憶えてる、という意味なんだけど。ふぎゃ。
もう一回読まなくちゃ。
回転ドアなんて世の中に必要ない
2004年3月27日しばらく更新しないと書いたばかりなのに・・・
ちょっと気になったことがあったので更新。
「六本木ヒルズの回転ドアに6歳男児はさまれ死亡」(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0327/022.html
回転ドアなんて、あんなもの、空調・暖房費節減という建物所有者側の都合を利用者に押し付けてるだけで、必要なんかない。
あれは回転する前後のドアの動きに人間が身体を合わせなければならないので、普通の運動神経を持った大人でも、入って出るまで何かイヤな感じがする。入るタイミングもそうだし、後ろからドアが迫ってくるというのも、まるで人間がホウキで掃き出されるゴミみたいな感じ。
回転ドアのタイミングは縄跳びと同じで、縄跳びも子供は慣れてからやっとできるものなのだ。(いつまでも慣れない子供もいる。) したがって子供や老人にとって回転ドアは、出入り口というより関門みたいなものじゃないだろうか。バリアフリーやユニバーサル・デザインというのは、子供も含まれているはずなのに。
回転ドアはもともと外国の高級ホテルなどで使われているのを、日本でも真似して採用したのが始まりと思うけど、風・寒気除けや人の出入りの制御という目的の他に、高級ホテルという敷居の高さを象徴するものでもあったのだろう。子供が一人で出入りすることを想定していない高級ホテルなど、利用者が限られている場所で、そういう目的のために普通のドアと併用して使われるのは別にかまわないと思う。だがホテルでも、もし普通のビジネスホテルが回転ドアをつけたら、なんか勘違いしてると思われて客が寄り付かなくなるだろう。回転ドアそういうシロモノなのだ。まして子供も含め不特定多数が利用する場所では、全く必要ない。
時代の先端をゆく商業施設で人を挟む回転ドアが使われるなんて、実は近代的装いの背景にある文化や技術の意識がけっこう貧困だったということなのだろう。
ドアが回転するという、仕組みそのものに危険性が不可避に孕まれているものは、センサーを取り付けて技術的に制御するという次元のものではない。じっさい去年すでに、子供が挟まれてケガするという事故が起きていたわけだし。
自動ドアは建物や車両の入口やエレベーターなど非常に多くの場所で使われているので、安全技術の蓄積も(=事故の蓄積も)相当にあると思う。もし挟まれたら、それがどの部位であっても接触センサーや圧力センサーが働いて、ドアが停止するだけでなく、逆戻りするという仕組みにもなっているはずだ。
だが森ビルの回転ドアには、(ものにもよるけど出力にバラつきのある)赤外線センサーと、(去年の事故のあと取り付けたという)線や面ではなく点で作動する接触センサーしかなかったようだ。(どちらもハイテクでも何でもない。) しかもそれが効いたとしても、モーターを止めるだけで戻りの動作はせず、それどころか回転体の重量が大きいのでイナーシア(慣性)によって25cmも動くというのだから、驚くしかない。
そしてけっきょくは今回、上部の赤外線センサーは身長の低い子供を検知できなかった可能性があり、子供が前傾した下向きの姿勢で飛び込んだせいか足元の赤外線センサーが感知できなかった可能性もあり、また部分的な守備範囲しかない接触センサーも働かなった可能性もあって、さらにはたとえセンサーが働いたとしても慣性によってすぐに停止しなかった可能性などにより、けっきょく挟まれることになってしまったのだろう。
おそらくエレベータなどのドア制御をやってる他メーカーのエンジニアが聞いたら、あまりの粗雑な安全対策に吃驚するに違いない。
こういう風に事故をあと追いで批判をするというのはあまり好きじゃないけど、けっきょく必要もない物を設置し、そのうえ安全性への対策を怠ったために子供が犠牲になったとしか思えないので、ひとこと言いたくなった。
ということで、これから犠牲者を出さないように、世の中から回転ドアをなくそう!
*
<追加>
今またこの記事を見て、唖然。
「回転ドア事故:六本木ヒルズの事故32件 対策が不十分か」(毎日新聞)
ちょっと信じられない。
この会社、感覚がちょっとマヒしてる。
*
<さらに追加>
「六本木ヒルズ回転ドア、衝撃緩和の仕組み無し」(読売新聞)
メーカーのサイトで製品紹介を見ると、たしかに衝撃緩和するタイプのドアもあるようだ。ただ、事故を起こしたスライドドア併用タイプは1種類しかなく、それには衝撃緩和機能は付けられていなかったということのようだ。
やはり技術の問題というより、営業的な事情で価格を抑えるために安全性を軽視したものと思える。
今回の事故で被害者にかかった圧力が記事に出てたけど、相当なものだ。大人でも完全に死ぬ。
センサーで検知できなかったらあとは挟まれるだけ、あるいは感知しても慣性で25cmも動くというのは、考えただけでも非常にコワい。最悪ケースを想定してないメーカーの安全意識は、ほんとうに信じられない。そういう仕様のドアを設計に組み入れた発注者側にも、責任があるのだろうけど。
ちょっと気になったことがあったので更新。
「六本木ヒルズの回転ドアに6歳男児はさまれ死亡」(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0327/022.html
回転ドアなんて、あんなもの、空調・暖房費節減という建物所有者側の都合を利用者に押し付けてるだけで、必要なんかない。
あれは回転する前後のドアの動きに人間が身体を合わせなければならないので、普通の運動神経を持った大人でも、入って出るまで何かイヤな感じがする。入るタイミングもそうだし、後ろからドアが迫ってくるというのも、まるで人間がホウキで掃き出されるゴミみたいな感じ。
回転ドアのタイミングは縄跳びと同じで、縄跳びも子供は慣れてからやっとできるものなのだ。(いつまでも慣れない子供もいる。) したがって子供や老人にとって回転ドアは、出入り口というより関門みたいなものじゃないだろうか。バリアフリーやユニバーサル・デザインというのは、子供も含まれているはずなのに。
回転ドアはもともと外国の高級ホテルなどで使われているのを、日本でも真似して採用したのが始まりと思うけど、風・寒気除けや人の出入りの制御という目的の他に、高級ホテルという敷居の高さを象徴するものでもあったのだろう。子供が一人で出入りすることを想定していない高級ホテルなど、利用者が限られている場所で、そういう目的のために普通のドアと併用して使われるのは別にかまわないと思う。だがホテルでも、もし普通のビジネスホテルが回転ドアをつけたら、なんか勘違いしてると思われて客が寄り付かなくなるだろう。回転ドアそういうシロモノなのだ。まして子供も含め不特定多数が利用する場所では、全く必要ない。
時代の先端をゆく商業施設で人を挟む回転ドアが使われるなんて、実は近代的装いの背景にある文化や技術の意識がけっこう貧困だったということなのだろう。
ドアが回転するという、仕組みそのものに危険性が不可避に孕まれているものは、センサーを取り付けて技術的に制御するという次元のものではない。じっさい去年すでに、子供が挟まれてケガするという事故が起きていたわけだし。
自動ドアは建物や車両の入口やエレベーターなど非常に多くの場所で使われているので、安全技術の蓄積も(=事故の蓄積も)相当にあると思う。もし挟まれたら、それがどの部位であっても接触センサーや圧力センサーが働いて、ドアが停止するだけでなく、逆戻りするという仕組みにもなっているはずだ。
だが森ビルの回転ドアには、(ものにもよるけど出力にバラつきのある)赤外線センサーと、(去年の事故のあと取り付けたという)線や面ではなく点で作動する接触センサーしかなかったようだ。(どちらもハイテクでも何でもない。) しかもそれが効いたとしても、モーターを止めるだけで戻りの動作はせず、それどころか回転体の重量が大きいのでイナーシア(慣性)によって25cmも動くというのだから、驚くしかない。
そしてけっきょくは今回、上部の赤外線センサーは身長の低い子供を検知できなかった可能性があり、子供が前傾した下向きの姿勢で飛び込んだせいか足元の赤外線センサーが感知できなかった可能性もあり、また部分的な守備範囲しかない接触センサーも働かなった可能性もあって、さらにはたとえセンサーが働いたとしても慣性によってすぐに停止しなかった可能性などにより、けっきょく挟まれることになってしまったのだろう。
おそらくエレベータなどのドア制御をやってる他メーカーのエンジニアが聞いたら、あまりの粗雑な安全対策に吃驚するに違いない。
こういう風に事故をあと追いで批判をするというのはあまり好きじゃないけど、けっきょく必要もない物を設置し、そのうえ安全性への対策を怠ったために子供が犠牲になったとしか思えないので、ひとこと言いたくなった。
ということで、これから犠牲者を出さないように、世の中から回転ドアをなくそう!
*
<追加>
今またこの記事を見て、唖然。
「回転ドア事故:六本木ヒルズの事故32件 対策が不十分か」(毎日新聞)
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20040328k0000m040074005c.html
森タワーでは今回の事故前に計22件、回転ドアで負傷事故が起きていたことが分かった。うち子供が大型ドアに挟まれる事故は計7件あった。さらに六本木ヒルズでは森タワーを含め昨年4月のオープンから計32件の事故があった。
ちょっと信じられない。
この会社、感覚がちょっとマヒしてる。
*
<さらに追加>
「六本木ヒルズ回転ドア、衝撃緩和の仕組み無し」(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040327i117.htm
同じ会社で製造されている他のタイプの大型自動回転ドアはすべて、衝撃を緩和するためドア部分が動く機能が付いていた。販売元の「三和タジマ」と親会社の「三和シヤッター工業」は27日、同機能がなかったことが重大事故につながったとの見方を明らかにした。
メーカーのサイトで製品紹介を見ると、たしかに衝撃緩和するタイプのドアもあるようだ。ただ、事故を起こしたスライドドア併用タイプは1種類しかなく、それには衝撃緩和機能は付けられていなかったということのようだ。
やはり技術の問題というより、営業的な事情で価格を抑えるために安全性を軽視したものと思える。
今回の事故で被害者にかかった圧力が記事に出てたけど、相当なものだ。大人でも完全に死ぬ。
センサーで検知できなかったらあとは挟まれるだけ、あるいは感知しても慣性で25cmも動くというのは、考えただけでも非常にコワい。最悪ケースを想定してないメーカーの安全意識は、ほんとうに信じられない。そういう仕様のドアを設計に組み入れた発注者側にも、責任があるのだろうけど。
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『アイヌ神揺集』
2004年3月26日著作権の切れた文学作品を再録しているサイトでは、「青空文庫」
http://www.aozora.gr.jp/
が有名だが、「つれづれの文車」というサイトもあるみたいで、
http://www.nextftp.com/y_misa/
ここに知里幸惠の『アイヌ神揺集』
http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_jyo.html
が載っている。・・・ということをネットをいろいろを見ていて知った。
誰もが美しいという「序」の文章。
(旧漢字が使われているけど、文学好きや国文学専攻の人ならきっと楽勝でしょう。)
アイヌのユーカラなどは、おそらく歌うように語られたのだろう。そしてそこで文体の音感やリズム感が養われ、それが(日本語であっても)「序」の優美さに表れているのだと思う。
またしばらく更新は休みます。やることやんなきゃ・・・。
http://www.aozora.gr.jp/
が有名だが、「つれづれの文車」というサイトもあるみたいで、
http://www.nextftp.com/y_misa/
ここに知里幸惠の『アイヌ神揺集』
http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_jyo.html
が載っている。・・・ということをネットをいろいろを見ていて知った。
誰もが美しいという「序」の文章。
(旧漢字が使われているけど、文学好きや国文学専攻の人ならきっと楽勝でしょう。)
アイヌのユーカラなどは、おそらく歌うように語られたのだろう。そしてそこで文体の音感やリズム感が養われ、それが(日本語であっても)「序」の優美さに表れているのだと思う。
またしばらく更新は休みます。やることやんなきゃ・・・。
3月24日の日記
2004年3月24日コンビニで買い物していた外国人の十代くらいの女の子が、レジのところで店員から袋を受け取って帰るとき、小さな声で「ありがと」と言って行った。無口な若い男の店員は何も言わず、次の客の対応。 逆じゃん。
まあ、先に言われたら、店員も言いづらいかもしれないけど。
日本人も外国に行くと、めったに「ありがとう」なんて言葉を言わない人でも、よく「サンキュー」を連発したりする。女性なんか「セーンキュー」と、母音を ’a/e’ではなく、もろ ’e’ の発音で言ったり。
もっとも、国内より外国、母国語より外国語のほうが、言葉を軽く使いやすというのはあるけど。
もうだいぶ前のことだけど、東京のMacExpoに行った帰り、会場近くの駅で電車を待っていたとき、列のすぐ前に外国人(白人)の親子(父と小学低学年くらいの男の子)がいた。男の子が疲れたらしく、お父さんに尋ねた。
男の子「(英語で)電車に座れるかな?」
父 親「No, it’s gonna be a Konderu Densha(混んでる電車).」
思わず笑ってしまった。
まあ、東京ではよく見かける会話なのかもしれないけど。
まあ、先に言われたら、店員も言いづらいかもしれないけど。
日本人も外国に行くと、めったに「ありがとう」なんて言葉を言わない人でも、よく「サンキュー」を連発したりする。女性なんか「セーンキュー」と、母音を ’a/e’ではなく、もろ ’e’ の発音で言ったり。
もっとも、国内より外国、母国語より外国語のほうが、言葉を軽く使いやすというのはあるけど。
もうだいぶ前のことだけど、東京のMacExpoに行った帰り、会場近くの駅で電車を待っていたとき、列のすぐ前に外国人(白人)の親子(父と小学低学年くらいの男の子)がいた。男の子が疲れたらしく、お父さんに尋ねた。
男の子「(英語で)電車に座れるかな?」
父 親「No, it’s gonna be a Konderu Densha(混んでる電車).」
思わず笑ってしまった。
まあ、東京ではよく見かける会話なのかもしれないけど。
人類最古の哲学―カイエ・ソバージュ〈1〉
2004年3月24日 読書
ISBN:4062582317 単行本 中沢 新一 講談社 ¥1,500
宇宙、自然、人間本質の存在を問う、はじまりの哲学=神話。
神話を司る「感覚の論理」とは?
人類的分布をするシンデレラ物語に隠された秘密とは?
宗教と神話とちがいとは?
現実(リアル)の力を再発見する知の冒険。
日記でブックレビューを選択すると、amazonサイトに書かれてるレビューも一緒に表示されるようだけど(ただしレビューが書かれているものについて)、そのレビューは出版社の紹介文じゃなく、誰か(エディター)が書いたものなんですね。そのへんはここの日記サイト運営者とamazon(とエディター)で了解済みなのかもしれないけど、書評を書く立場からすると、別にそれは要らない。
でもでも、今日は書評は書かずに本の紹介だけなので、表紙に書かれていた紹介文だけ上に載せることにします。(何?!) 本の内容は……実際に本を読んでみてくださいねっ。 とくにこれから文学部に進まれる人・アニメのシンデレラに不満を感じた人(その不満はもっともです。その理由もこれを読めば分かります)は、ぜひブックレビューもどうぞ!
中沢新一の「カイエ・ソバージュ」シリーズは全5冊で、講義録なので読みやすいです。
ポール・ゴーギャンの絵に、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か れわれはどこへ行くのか」と題された有名な作品があります。
http://www.mfa.org/exhibitions/gauguin/tahiti/preview.asp
"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"
(ボストン美術館サイト。中ほどに横長の画像あり。)
象徴的な要素がいくつも込められた神話的雰囲気のある絵画だけど、神話というものがまさにわれわれが何者で、どこから来てどこへ行くのかを教えてくれる物語なのです。
で、何者でどこから来たのでしょう・・・?
宇宙、自然、人間本質の存在を問う、はじまりの哲学=神話。
神話を司る「感覚の論理」とは?
人類的分布をするシンデレラ物語に隠された秘密とは?
宗教と神話とちがいとは?
現実(リアル)の力を再発見する知の冒険。
日記でブックレビューを選択すると、amazonサイトに書かれてるレビューも一緒に表示されるようだけど(ただしレビューが書かれているものについて)、そのレビューは出版社の紹介文じゃなく、誰か(エディター)が書いたものなんですね。そのへんはここの日記サイト運営者とamazon(とエディター)で了解済みなのかもしれないけど、書評を書く立場からすると、別にそれは要らない。
でもでも、今日は書評は書かずに本の紹介だけなので、表紙に書かれていた紹介文だけ上に載せることにします。(何?!) 本の内容は……実際に本を読んでみてくださいねっ。 とくにこれから文学部に進まれる人・アニメのシンデレラに不満を感じた人(その不満はもっともです。その理由もこれを読めば分かります)は、ぜひブックレビューもどうぞ!
中沢新一の「カイエ・ソバージュ」シリーズは全5冊で、講義録なので読みやすいです。
ポール・ゴーギャンの絵に、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か れわれはどこへ行くのか」と題された有名な作品があります。
http://www.mfa.org/exhibitions/gauguin/tahiti/preview.asp
"Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?"
(ボストン美術館サイト。中ほどに横長の画像あり。)
象徴的な要素がいくつも込められた神話的雰囲気のある絵画だけど、神話というものがまさにわれわれが何者で、どこから来てどこへ行くのかを教えてくれる物語なのです。
で、何者でどこから来たのでしょう・・・?
シンデレラは死んでれら?
2004年3月22日中沢新一『カイエソバージュ1 人類最古の哲学』のシンデレラの話について書く予定だったけど、今日中には書けないので、他の話題でお茶濁し。
これから、宗教学ではなく文学、それも日本文学をやろうとしてる学生にヘブライ語の勉強を進める人は、はっきり言ってヘンです。
マイナーな言語をやってれば他人とスタートが同じだと言ってそれを勧めるのもヘンだと思う。
でも、「なんか変なところで完成してしまってる」というのは、可塑性をもっていないとならない時期に、固まった石膏のようになってる部分があるということかな? それだとなんとなく納得できるかも。あ、あくまで「かも」ですからねっ。「かも」はメイビー、パハップス・・・。
えーと、これから学問をやって、世界をもっと広く深く見てゆく人は、ものごとにたいしてできるだけ無垢な眼――生まれたばかりの、鼻が高くなる前のピノキオのような眼――を持って望むのがいいと思います。
ちなみに私は世界をすべて知ってしまったので、こうして堂々とお説教が言えるわけ・・・・・だといいですけどね〜。
ほんとうは、知に向き合うということは、未知のものに向き合うということなのです。だから自分は知っていると思っている人は、未知なものがあることを知らないでいるということでもあったり。
う〜ん、我ながらいいこと言うと、自分でウットリ。こんど新興宗教でも始めようかな・・・。
*
「恵庭OL殺害事件 控訴審初公判」
非常に疑問点が多いこの事件、とうとう控訴審が始まった。
日本の警察の捜査の杜撰さ(とくに北海道警はいろいろある)と、裁判官の質の低さ(一審の判事は驚くくらいレベル低かった)が問題だ。そのうちこの件に関して書こうと思ってる。
[北海道新聞サイトより]
恵庭OL殺害 弁護側、一審破棄求める 控訴審初公判 2004/03/22 14:30
これから、宗教学ではなく文学、それも日本文学をやろうとしてる学生にヘブライ語の勉強を進める人は、はっきり言ってヘンです。
マイナーな言語をやってれば他人とスタートが同じだと言ってそれを勧めるのもヘンだと思う。
でも、「なんか変なところで完成してしまってる」というのは、可塑性をもっていないとならない時期に、固まった石膏のようになってる部分があるということかな? それだとなんとなく納得できるかも。あ、あくまで「かも」ですからねっ。「かも」はメイビー、パハップス・・・。
えーと、これから学問をやって、世界をもっと広く深く見てゆく人は、ものごとにたいしてできるだけ無垢な眼――生まれたばかりの、鼻が高くなる前のピノキオのような眼――を持って望むのがいいと思います。
ちなみに私は世界をすべて知ってしまったので、こうして堂々とお説教が言えるわけ・・・・・だといいですけどね〜。
ほんとうは、知に向き合うということは、未知のものに向き合うということなのです。だから自分は知っていると思っている人は、未知なものがあることを知らないでいるということでもあったり。
う〜ん、我ながらいいこと言うと、自分でウットリ。こんど新興宗教でも始めようかな・・・。
*
「恵庭OL殺害事件 控訴審初公判」
非常に疑問点が多いこの事件、とうとう控訴審が始まった。
日本の警察の捜査の杜撰さ(とくに北海道警はいろいろある)と、裁判官の質の低さ(一審の判事は驚くくらいレベル低かった)が問題だ。そのうちこの件に関して書こうと思ってる。
[北海道新聞サイトより]
恵庭OL殺害 弁護側、一審破棄求める 控訴審初公判 2004/03/22 14:30
ワケワカ
2004年3月20日世の中には、よく分かってないのにわけの分かったようなことを言う人間と、自分の分かってる限界を知っていて分かってないことへの省察を怠らない人間の、二種類のタイプがいる。
と、わけの分かったようなことを言ってますが、何か?(笑)
いやあ、後者のような人間になりたいです。
いずれここの日記サイトから、もっとWeblog的な「はてな日記」の方に移ろうかと思ってたけど、あそこはワケワカの人も多いみたいなので、ちょっと萎える。
ここの日記サイトは、なかにはワケワカの人も見かけるけど(お前もだって突っ込みは無しね)、概ね日常の身近なところで感じたことを率直に書いてる日記が多くて、ヘタな知識や能書きをタレられるよりは、読んでてずっと心地良い。
あれだね、わけの分かったようなことを言うのは、圧倒的に男の方が多いね。で、男は自分でワケワカなことを言ったり書いたりしておいて、女性がそれをやるとけっこう反感を持ったりする。
*
[ある心理学の本から孫引き]
と、わけの分かったようなことを言ってますが、何か?(笑)
いやあ、後者のような人間になりたいです。
いずれここの日記サイトから、もっとWeblog的な「はてな日記」の方に移ろうかと思ってたけど、あそこはワケワカの人も多いみたいなので、ちょっと萎える。
ここの日記サイトは、なかにはワケワカの人も見かけるけど(お前もだって突っ込みは無しね)、概ね日常の身近なところで感じたことを率直に書いてる日記が多くて、ヘタな知識や能書きをタレられるよりは、読んでてずっと心地良い。
あれだね、わけの分かったようなことを言うのは、圧倒的に男の方が多いね。で、男は自分でワケワカなことを言ったり書いたりしておいて、女性がそれをやるとけっこう反感を持ったりする。
*
[ある心理学の本から孫引き]
心はその向こう側なしには存在しない。そして、それはいつもひとりの「あなた」のなかに発見される。
――ユング
私自身よりもいっそう心ひかれるこの「他者」とはいったいだれであろう。私自身は自分の同一性に心から同意してるのに、私をふりまわすのはこの他者なのだから。
――ラカン
海亀つながり
2004年3月3日 日本で海亀といえば、なんといっても「浦島太郎」。異空間旅行、時間の伸縮、変身譚と、物語の面白さが詰まった不思議な物語です。
この物語の起源は『日本書紀』や『丹後国風土記』にあるらしいけど、実際の漁師の漂流譚ではないかという説もあるとのこと。例えば琉球諸島の海底にある古代遺跡が竜宮城に相当し、それが琉球諸島に伝わる「ニライカナイ(常世・神の国・浄土)」(by折口信夫)と関係があるのではないかとか。
確かに古代、モンゴロイドがアジア大陸からアメリカ大陸に渡ったころは、海底面が今より百数十m下がっていたので(それでベーリング海峡が陸橋になって渡れた)、当時の海岸にあった石の建築物が海底に残っていても不思議ではない。
ただ、神話や民話にある、こちらの世界と神々のいる世界という二世界物語は、そのころからあったはずなので、漂流譚や古代海底遺跡と結びつけるのもどうかと思う。
「琉球諸島では、浜辺を訪れる亀は神として大切にされている。」とのことだが、そうすると、神の国へのあこがれを抱く人間が、海亀に乗ればそこへ行けるかもしれないと考えるのも、ごく自然なことかもしれない。そしてこの世の人が行ってはならない神の国を訪れた者には、必ず犯してはならない禁止事項が言い渡される。見聞きしたものを話してはならない、後ろを振り返ってはならない、玉手箱をあけてはならないといったことだ。そして人間の好奇心のあまりその禁忌は当然破られ、償いを受けることになる。
本物の海亀スープというのは高級料理で、めったに食べることなどできない。でも沖縄には海亀料理というのがあるらしい。味をみる程度でいいから、どんなものかちょっとスープを飲んでみたい気がする。
この物語の起源は『日本書紀』や『丹後国風土記』にあるらしいけど、実際の漁師の漂流譚ではないかという説もあるとのこと。例えば琉球諸島の海底にある古代遺跡が竜宮城に相当し、それが琉球諸島に伝わる「ニライカナイ(常世・神の国・浄土)」(by折口信夫)と関係があるのではないかとか。
確かに古代、モンゴロイドがアジア大陸からアメリカ大陸に渡ったころは、海底面が今より百数十m下がっていたので(それでベーリング海峡が陸橋になって渡れた)、当時の海岸にあった石の建築物が海底に残っていても不思議ではない。
ただ、神話や民話にある、こちらの世界と神々のいる世界という二世界物語は、そのころからあったはずなので、漂流譚や古代海底遺跡と結びつけるのもどうかと思う。
「琉球諸島では、浜辺を訪れる亀は神として大切にされている。」とのことだが、そうすると、神の国へのあこがれを抱く人間が、海亀に乗ればそこへ行けるかもしれないと考えるのも、ごく自然なことかもしれない。そしてこの世の人が行ってはならない神の国を訪れた者には、必ず犯してはならない禁止事項が言い渡される。見聞きしたものを話してはならない、後ろを振り返ってはならない、玉手箱をあけてはならないといったことだ。そして人間の好奇心のあまりその禁忌は当然破られ、償いを受けることになる。
本物の海亀スープというのは高級料理で、めったに食べることなどできない。でも沖縄には海亀料理というのがあるらしい。味をみる程度でいいから、どんなものかちょっとスープを飲んでみたい気がする。
まがい海亀スープ
2004年3月2日やんなきゃならないことがあるので、この日記、少し書く量を減らそうと思う。数行日記。でも書き出したら止まらなくなるしなあ。
*
女 王:まがい海亀を見たことある?
アリス:それがどんなものかも知らないです。
女 王:まがい海亀スープの元になるやつだよ。
『不思議の国のアリス』に登場するまがい海亀(Mock Turtle:ニセ海亀)は、本物の海亀なのだけど、まがい海亀スープになる我が身を嘆いている。でもまがい海亀スープ(Mock Turtle soup)というのは、本物の海亀のスープではなく、牛骨を煮込んで作った廉価な海亀風のスープのことなんですね。なのでほんとうは、本物の海亀であるまがい海亀が、なにも悲しむことなどないのです。
って、すごく紛らわしい文章ですが。(笑)
で、まがい海亀スープの缶詰が以前販売されていたのだけど、例の狂牛病の問題のせいか(肉よりも牛骨などが危ない)、製造中止になったみたいです。
そうすると、まがい海亀の運命はどうなると思いますか?
答:そういう質問に答えようとするのは、時間の無駄でしょうね。
でもあえて答えると、まがい海亀スープというものが地上からなくなるかもしれないので、まがい海亀も同様に存在しなくなるかもしれません。よく分かりませんが、というか、どーでもいいことですが。
*
女 王:まがい海亀を見たことある?
アリス:それがどんなものかも知らないです。
女 王:まがい海亀スープの元になるやつだよ。
『不思議の国のアリス』に登場するまがい海亀(Mock Turtle:ニセ海亀)は、本物の海亀なのだけど、まがい海亀スープになる我が身を嘆いている。でもまがい海亀スープ(Mock Turtle soup)というのは、本物の海亀のスープではなく、牛骨を煮込んで作った廉価な海亀風のスープのことなんですね。なのでほんとうは、本物の海亀であるまがい海亀が、なにも悲しむことなどないのです。
って、すごく紛らわしい文章ですが。(笑)
で、まがい海亀スープの缶詰が以前販売されていたのだけど、例の狂牛病の問題のせいか(肉よりも牛骨などが危ない)、製造中止になったみたいです。
そうすると、まがい海亀の運命はどうなると思いますか?
答:そういう質問に答えようとするのは、時間の無駄でしょうね。
でもあえて答えると、まがい海亀スープというものが地上からなくなるかもしれないので、まがい海亀も同様に存在しなくなるかもしれません。よく分かりませんが、というか、どーでもいいことですが。
愚かな一部サッカーファンと賢いロッテファン(ジーコとバレンタイン)(2)
2004年2月29日「バレンタイン監督、復帰嘆願署名のファンを試合に招待」
8年ぶりに帰ってきた千葉ロッテ・マリーンズのバレンタイン監督。1995年、前年まで9年連続Bクラスだったロッテを2位に引き上げた貢献者だ。確かにあのシーズン、ロッテというチームは何かが変わったような印象を受けた。そしてその後の不可解なバレンタイン監督の解任。それにたいし「何故?」という疑問を、誰もがもったのではないだろうか。
広岡ゼネラルマネジャー v.s. バレンタイン監督というのは、<管理野球・精神主義・質より量の練習> v.s. <チーム内競争原理の導入・質の高い練習と休養を重視したコンディショニングつくり、選手の自主性とモチベーションの向上>、といった野球コンセプトの根本からの対立でもあったようだ。そして広岡による陰湿ないやがらせや、シーズンが終わってからの監督解任。でもけっきょくは翌年のチーム低迷で(当然だ)広岡も解任され、ロッテの混乱が続く。
(そのへんの事情が、↓このサイトで詳しく語られています。)
http://www.webmie.or.jp/~m-yama/col/columnvale.htm
野球の監督の力量は、テレビなどの野球解説を聞いてたら分かる。つまらない解説をする監督はたいていダメ。その典型が、ダイエーの監督になった田淵とか、元巨人の選手でオリックスの監督になった土井。土井なんかは、巨人びいきするだけの、ほんとうにつまらない解説をしていた。オリックスでも選手の人望はなく(巨人時代の自慢話ばかりしてたらしい)、イチローの才能も見抜けず、采配もダメで、けっきょく監督をクビ。広岡達朗は土井よりずっと鋭い解説をしてたけど、よく選手にケチをつけしてたところが共通しており、どちらも偉そうで鼻持ちならないイヤらしさを感じさせていた。まあ二人とも、もうどこからも二度と声をかけられることはないだろうけど。
落合の野球解説は面白かった。中日の監督になったらしいけど、けっこう成果を出しそうな気がする。チーム力よりも個人の能力重視の、サッカーのジャパンのようなチーム作りになるのかもしれない。新聞社のインタビューにあった次のコメントが落合らしい。
「いろんな所を歩いて見て回って、選手に『監督、見ててくれているんだな』と感じさせることは、しっかりやっていこうと思う。選手にとって何がつらいかというと、見てもらえない、相手にしてもらえない、邪魔者扱いされるということ。それだけはやっちゃいけない。」
落合が監督として始めた「1、2軍の枠を取り払ったキャンプ」というのは、かってバレンタイン監督がやったことと同じだ。(競争原理というのは、特定の誰かに既得権を持たせるようなことはせず、スタートのところで機会均等でフェアにやるということでもある。) そして現場はコーチに任せて、口出しはしないらしい。プロ野球は大学・高校のチームとは違うんだし、トップの役割というのはそういうものだ、と、こうやって外野から偉そうに言うのは簡単だけど、実際プロ野球界でそれを実行するというのは、それなりに大変だったのかもしれない。それともしかして過去に、トップが余計な口出しをして潰されてしまった選手をたくさん見てきたのかもしれない。(1)
(1) 以前「NHK-FM 日曜喫茶室」という番組に、元プロ野球コーチ(名前は失念)が出ていて、落合やイチローなどのすぐれた選手とそうでない選手の特徴的な違いを語っていた。それによると、すぐれた選手というのはバットやグローブなどの道具を非常に大事に手入れして、ロッカーなどもきれいにしておくらしい。それにたいし成績のパッとしない選手は、道具もロッカーも乱雑にしてるとのこと。
組織論から見ると、監督になったジーコやバレンタインや落合にしても共通しているのは、選手たちはプロフェッショナルなのだから、監督の仕事としては、いかに選手それぞれが能力を最大限発揮できる環境をつくりあげてゆくかということを最優先に考えているようだ。でもそれは、それぞれの選手の能力が何パーセントかアップしたら、チームの能力もそれの可算でアップするというのでもない。例えばもし各選手の能力が2割アップするとして、1+0.2=1.2 が10人集まって10の能力のチームが12になるのではなく、それ以上の15や30の能力のチームになる可能性を含んでいるのだ。自己組織化とか生成する組織というというのは、そういうものなのだから。(2) それは自然なことなのだけど、理屈では説明しずらいので、マジックのように写ってしまうことがある。多くの人が1995年のロッテのチームとベンチに見たのも、そしてファンがバレンタイン監督復帰嘆願書に署名したのも、そこのところなのだろう。
(2) ただし、選手自身が旧態依然とした意識に留まっていたりしては、うまくいかない可能性もある。(言われたことだけハイハイと言ってやるのは、ある意味、楽なのだから。) もちろんそのへんの意識改革も、監督の仕事ではあるのだけど。
組織を変える人間というのは、何がしかの<外部性>というものを持っているものだ。バレンタイン監督は文字どおり米国から来た人だし、落合にしてもプロ野球界の派閥や学閥といったにも属さない、いちばん外部に近い人だ。そしてそこがまた逆に、利点として生きてくる。(それには、内にあっては見えないことも外からは見える、といったことも含まれる。)
個人的には、今年の日本シリーズがドラゴンズ対マリーンズになるのを期待しています。
8年ぶりに帰ってきた千葉ロッテ・マリーンズのバレンタイン監督。1995年、前年まで9年連続Bクラスだったロッテを2位に引き上げた貢献者だ。確かにあのシーズン、ロッテというチームは何かが変わったような印象を受けた。そしてその後の不可解なバレンタイン監督の解任。それにたいし「何故?」という疑問を、誰もがもったのではないだろうか。
広岡ゼネラルマネジャー v.s. バレンタイン監督というのは、<管理野球・精神主義・質より量の練習> v.s. <チーム内競争原理の導入・質の高い練習と休養を重視したコンディショニングつくり、選手の自主性とモチベーションの向上>、といった野球コンセプトの根本からの対立でもあったようだ。そして広岡による陰湿ないやがらせや、シーズンが終わってからの監督解任。でもけっきょくは翌年のチーム低迷で(当然だ)広岡も解任され、ロッテの混乱が続く。
(そのへんの事情が、↓このサイトで詳しく語られています。)
http://www.webmie.or.jp/~m-yama/col/columnvale.htm
野球の監督の力量は、テレビなどの野球解説を聞いてたら分かる。つまらない解説をする監督はたいていダメ。その典型が、ダイエーの監督になった田淵とか、元巨人の選手でオリックスの監督になった土井。土井なんかは、巨人びいきするだけの、ほんとうにつまらない解説をしていた。オリックスでも選手の人望はなく(巨人時代の自慢話ばかりしてたらしい)、イチローの才能も見抜けず、采配もダメで、けっきょく監督をクビ。広岡達朗は土井よりずっと鋭い解説をしてたけど、よく選手にケチをつけしてたところが共通しており、どちらも偉そうで鼻持ちならないイヤらしさを感じさせていた。まあ二人とも、もうどこからも二度と声をかけられることはないだろうけど。
落合の野球解説は面白かった。中日の監督になったらしいけど、けっこう成果を出しそうな気がする。チーム力よりも個人の能力重視の、サッカーのジャパンのようなチーム作りになるのかもしれない。新聞社のインタビューにあった次のコメントが落合らしい。
「いろんな所を歩いて見て回って、選手に『監督、見ててくれているんだな』と感じさせることは、しっかりやっていこうと思う。選手にとって何がつらいかというと、見てもらえない、相手にしてもらえない、邪魔者扱いされるということ。それだけはやっちゃいけない。」
落合が監督として始めた「1、2軍の枠を取り払ったキャンプ」というのは、かってバレンタイン監督がやったことと同じだ。(競争原理というのは、特定の誰かに既得権を持たせるようなことはせず、スタートのところで機会均等でフェアにやるということでもある。) そして現場はコーチに任せて、口出しはしないらしい。プロ野球は大学・高校のチームとは違うんだし、トップの役割というのはそういうものだ、と、こうやって外野から偉そうに言うのは簡単だけど、実際プロ野球界でそれを実行するというのは、それなりに大変だったのかもしれない。それともしかして過去に、トップが余計な口出しをして潰されてしまった選手をたくさん見てきたのかもしれない。(1)
(1) 以前「NHK-FM 日曜喫茶室」という番組に、元プロ野球コーチ(名前は失念)が出ていて、落合やイチローなどのすぐれた選手とそうでない選手の特徴的な違いを語っていた。それによると、すぐれた選手というのはバットやグローブなどの道具を非常に大事に手入れして、ロッカーなどもきれいにしておくらしい。それにたいし成績のパッとしない選手は、道具もロッカーも乱雑にしてるとのこと。
組織論から見ると、監督になったジーコやバレンタインや落合にしても共通しているのは、選手たちはプロフェッショナルなのだから、監督の仕事としては、いかに選手それぞれが能力を最大限発揮できる環境をつくりあげてゆくかということを最優先に考えているようだ。でもそれは、それぞれの選手の能力が何パーセントかアップしたら、チームの能力もそれの可算でアップするというのでもない。例えばもし各選手の能力が2割アップするとして、1+0.2=1.2 が10人集まって10の能力のチームが12になるのではなく、それ以上の15や30の能力のチームになる可能性を含んでいるのだ。自己組織化とか生成する組織というというのは、そういうものなのだから。(2) それは自然なことなのだけど、理屈では説明しずらいので、マジックのように写ってしまうことがある。多くの人が1995年のロッテのチームとベンチに見たのも、そしてファンがバレンタイン監督復帰嘆願書に署名したのも、そこのところなのだろう。
(2) ただし、選手自身が旧態依然とした意識に留まっていたりしては、うまくいかない可能性もある。(言われたことだけハイハイと言ってやるのは、ある意味、楽なのだから。) もちろんそのへんの意識改革も、監督の仕事ではあるのだけど。
組織を変える人間というのは、何がしかの<外部性>というものを持っているものだ。バレンタイン監督は文字どおり米国から来た人だし、落合にしてもプロ野球界の派閥や学閥といったにも属さない、いちばん外部に近い人だ。そしてそこがまた逆に、利点として生きてくる。(それには、内にあっては見えないことも外からは見える、といったことも含まれる。)
個人的には、今年の日本シリーズがドラゴンズ対マリーンズになるのを期待しています。
愚かな一部サッカーファンと賢いロッテファン(ジーコとバレンタイン)(1)
2004年2月27日 時事ニュース「サッカーファンがジーコの解任求めてデモ」
今までの日本チームの監督の仕事は、攻めや守りのフォーメーション(型)をつくることだった。それは個人の能力のなさを組織力で補うということなのだろうけど、もうそのやり方では限界があることは見えている。
そもそもフォーメーション主体で試合をやるというのは、とにかく攻守の型を作らないと始まらないというレベルの低いチームが採用するか、あるいは格下相手に正攻法で押しまくることのできる強いチームが使う手なのだ。
強いチームは、相手のフォーメーションを見切れたらいくらでも対応できる。敵チームの型を崩すのが選手の仕事なのだし、身体能力の強いチームの選手はそれが楽に出来る。(前々回のフランス・ワールドカップでの日本チームの負けっぷりがそのいい例だ。あのチームの中では身体能力の高かったカズなどを外した岡田監督はタコ。あれはカズにたいしも失礼だったし。)
組織として型を持っていることは必要だろうが、中レベルのチームの戦術としては、それに加え何をやってくるか分からないというのが、相手チームにとって脅威となる。それには選手同士の有機的な連携プレーが必要になる。そこで個々の選手のいろいろな意味での能力が問題になってくるのは当然だ。要は、命令に忠実な兵隊さんのいるチームではなく、ひとりひとりが戦士のチームでなくてはならないということ。それはすでに企業社会でも言われてきたことでもあるけど。
つまり必要なのは選手が状況に応じて変幻自在にプレーできる能力を高めることで、それなくしては有機的な連携プレーはできない。それには身体能力はもちろん、意思決定・判断能力やコミュニケーション能力を高めるということでもあるが、そんなのは監督が教えてというレベルじゃない。小中学生のチームじゃないんだし、個々の選手が過去の経験の蓄積と現チームでの練習で培ってゆくしかない。つまり個人の選手それぞれに帰するところが大きいのだ。
但し、ボール扱いの身体能力や頑強な体格やセコいプレーへの適応力は、平均的に欧州や南米やアフリカの選手のほうがやはり上だ。子供の頃から外に出れば足元にサッカーボールがあるという環境は、日本にはないし。そういう意味では、はっきり言って日本チームにあまり過度な期待をかけない方がいいと思う。ただ、最低でも実際の能力に応じた成績は残してもらいたいとは思うけど。
オーマン戦のあとで中田英寿が、「もっと一人ひとりが声を出して欲しい。全然足りない」とコメントを残していたのが印象的だ。コミュニケーションという基本的な能力に問題があったら、連携プレーなんてできっこない。そのへんは経験を重ねたらある程度以心伝心でも通じ合うというレベルにもなるのだろうけど、チーム練習にあまり参加できない欧州組などもいるし、最初のうちはもっと声をかけ合う必要があるのだという中田の危機感の表れなのだと思う。
目標達成のために作られた組織というのは、組織それ自体を守ることに専念する組織と違って、変わる可能性が大きい。それは外からの強い力というより、内部に変わる要素が大いにあるのだ。やはり中田がキーパーソンだろう。予選はまだ始まったばかりだし、これから組織がどう変わってゆくかは分からない。
したがってジーコ監督の方針は間違ってなんかいないと思うし、解任デモをやるなんてのは、何を勘違いしてるのか知らないが、バカげてる。近視眼でしかものを見れないから、いまジーコが監督を辞めたらどうなるかなんて想像もできないのだろう。だいたい負けてもいない試合で、何で責任を取らなくちゃならないのだ。それにもし監督に何か責任があるというなら、その監督を招聘した協会の会長にも多少の責任はあることになる。
それにしても一部のヒステリックなサポーターって、どうしてああ気違いじみているんだろう。群れてナニ様モードの解任要求をするなどというのは、西部劇に出てくるリンチと感覚が変わらない。
それと、選手の多くがジーコ解任を望んでいるならともかく、そうでないなら監督解任要求などというのは選手にたいしても嫌がらせみたいなものだ。その影響がどこかでマイナス効果となって出てくることだってありえる。もし試合に負けたら、それは一部のバカなファンにも責任の一端があるかもしれないのだ。
今までの日本チームの監督の仕事は、攻めや守りのフォーメーション(型)をつくることだった。それは個人の能力のなさを組織力で補うということなのだろうけど、もうそのやり方では限界があることは見えている。
そもそもフォーメーション主体で試合をやるというのは、とにかく攻守の型を作らないと始まらないというレベルの低いチームが採用するか、あるいは格下相手に正攻法で押しまくることのできる強いチームが使う手なのだ。
強いチームは、相手のフォーメーションを見切れたらいくらでも対応できる。敵チームの型を崩すのが選手の仕事なのだし、身体能力の強いチームの選手はそれが楽に出来る。(前々回のフランス・ワールドカップでの日本チームの負けっぷりがそのいい例だ。あのチームの中では身体能力の高かったカズなどを外した岡田監督はタコ。あれはカズにたいしも失礼だったし。)
組織として型を持っていることは必要だろうが、中レベルのチームの戦術としては、それに加え何をやってくるか分からないというのが、相手チームにとって脅威となる。それには選手同士の有機的な連携プレーが必要になる。そこで個々の選手のいろいろな意味での能力が問題になってくるのは当然だ。要は、命令に忠実な兵隊さんのいるチームではなく、ひとりひとりが戦士のチームでなくてはならないということ。それはすでに企業社会でも言われてきたことでもあるけど。
つまり必要なのは選手が状況に応じて変幻自在にプレーできる能力を高めることで、それなくしては有機的な連携プレーはできない。それには身体能力はもちろん、意思決定・判断能力やコミュニケーション能力を高めるということでもあるが、そんなのは監督が教えてというレベルじゃない。小中学生のチームじゃないんだし、個々の選手が過去の経験の蓄積と現チームでの練習で培ってゆくしかない。つまり個人の選手それぞれに帰するところが大きいのだ。
但し、ボール扱いの身体能力や頑強な体格やセコいプレーへの適応力は、平均的に欧州や南米やアフリカの選手のほうがやはり上だ。子供の頃から外に出れば足元にサッカーボールがあるという環境は、日本にはないし。そういう意味では、はっきり言って日本チームにあまり過度な期待をかけない方がいいと思う。ただ、最低でも実際の能力に応じた成績は残してもらいたいとは思うけど。
オーマン戦のあとで中田英寿が、「もっと一人ひとりが声を出して欲しい。全然足りない」とコメントを残していたのが印象的だ。コミュニケーションという基本的な能力に問題があったら、連携プレーなんてできっこない。そのへんは経験を重ねたらある程度以心伝心でも通じ合うというレベルにもなるのだろうけど、チーム練習にあまり参加できない欧州組などもいるし、最初のうちはもっと声をかけ合う必要があるのだという中田の危機感の表れなのだと思う。
目標達成のために作られた組織というのは、組織それ自体を守ることに専念する組織と違って、変わる可能性が大きい。それは外からの強い力というより、内部に変わる要素が大いにあるのだ。やはり中田がキーパーソンだろう。予選はまだ始まったばかりだし、これから組織がどう変わってゆくかは分からない。
したがってジーコ監督の方針は間違ってなんかいないと思うし、解任デモをやるなんてのは、何を勘違いしてるのか知らないが、バカげてる。近視眼でしかものを見れないから、いまジーコが監督を辞めたらどうなるかなんて想像もできないのだろう。だいたい負けてもいない試合で、何で責任を取らなくちゃならないのだ。それにもし監督に何か責任があるというなら、その監督を招聘した協会の会長にも多少の責任はあることになる。
それにしても一部のヒステリックなサポーターって、どうしてああ気違いじみているんだろう。群れてナニ様モードの解任要求をするなどというのは、西部劇に出てくるリンチと感覚が変わらない。
それと、選手の多くがジーコ解任を望んでいるならともかく、そうでないなら監督解任要求などというのは選手にたいしても嫌がらせみたいなものだ。その影響がどこかでマイナス効果となって出てくることだってありえる。もし試合に負けたら、それは一部のバカなファンにも責任の一端があるかもしれないのだ。
トールキン『妖精物語の国へ』
2004年2月26日 読書 トールキンの『妖精物語の国へ』(ちくま文庫)この本のなかでトールキンは、妖精物語(フェアリー・テイル)にたいする世間一般の誤解にたいし異議を唱え、物語形式(ジャンル)としての妖精物語の確立を訴える。前者の世間の誤解については、例えば妖精というと小さいというイメージが想い起こされるが、概して人間のほうが小さいということ、また妖精は超自然的存在のように見られるが実は自然の側にいて、人間が自然の埒外にいるのだということなどが指摘される。さらに後者のジャンルについては、「何でないか」ということで定義される。意図的に子供向けに(大人の勝手で子供像を捏造して)書かれた話ではなく、旅をすることはあっても旅物語ではないし、また夢物語や動物寓話でもないといったことなどである。
ファンタジーは基本的には、第一世界(現実世界)にたいし第二世界を誘惑(魔法)によって<準創造(subcreation)>するものであるとされる。そしてトールキンにとってそれは文学に他ならず、創造された物語世界への導きとしてとくに形容詞の働きを重視する。(例えば「緑の太陽」という言葉が喚起させるものなど。) つまり妖精物語は、文字で書かれた文学固有の表現ジャンルとされるのだ。したがって演劇という手段によるファンタジー表現の困難さも指摘される。(映画については書かれていない。)
このオックスフォードの言語学・英文学者の物語を、(時代は違うが)同じ大学の数学(論理学)教師ルイス・キャロルの『アリス』のそれと比較すると、それぞれの学問領域という背景が影響しているようでおもしろい。ふたりの物語は対極にあるといってもいいのだ。(トールキンは『アリス』の物語をファンタジーとは見ていない。) 例えばトールキンの物語には「願い」があって、「アリス」にはそれがない。トールキンにあってその願いは、読者のものでもあり、また主人公たちのものでもあり、それらは<幸福な結末への慰み(ハッピー・エンディング)>へと結ばれてゆく。時間はその大団円に向かって怒涛のように流れ、その渦の中で日常的な倦怠の時間感覚を超越する。
一方の『アリス』では、ストーリーは夢(悪夢)から覚めて終わる。「論理」の世界に時間はない。さらに神も妖精もいない世界だ。登場人物たちには、固有名詞で表される「他にない・かけがいのなさ」といったものはなく、代わりに「白ウサギ」といった<種>の名前、つまり代入可能な変数や記号で呼ばれる。
とはいっても、「物語」であるということは、いやおうなしに時間の世界に入り込むことでもある。しかし『アリス』の物語は、その時間を受け入れることも拒絶し、時間の順序を転倒させたりする。そうしたあらゆる努力と方策によって、ルイス・キャロルのノンセンスは細部に渡って意味を拒絶し通し、そもそもこの世界には意味の根拠性などないのだということを示そうとしているかのようだ。
妖精というのは聖霊のことでもあり、そしてキリスト教が広まる以前にヨーロッパにいた神々やスピリットでもある。神話の世界では有形無形のそうした者たちが、さまざまな活躍をしていた。神話も妖精物語と同じく、準創造であるとトールキンは言う。妖精物語というのは彼にとって、かって生き生きとしていた人間と自然との関わりを取り戻し、世界に意味と希望を与えるという神話の役割を現代において果たそうとするものなのだろう。
そうした点においても、常識的な意味を揺るがすルイス・キャロルのノンセンス文法と、形容詞を駆使して常識的な意味を超えた新しい意味を生み出そうとするトールキンのファンタジー文法との違いが表れているのではないだろうか。あるいは、この世界が実は隙間だらけであり、そこを覗かせてくれるか、それとも実は隙間には妖精たちが住んでいて、けっきょく世界は意味で充満されるということを教えてくれるのかの違いといえるかもしれない。
ファンタジーは基本的には、第一世界(現実世界)にたいし第二世界を誘惑(魔法)によって<準創造(subcreation)>するものであるとされる。そしてトールキンにとってそれは文学に他ならず、創造された物語世界への導きとしてとくに形容詞の働きを重視する。(例えば「緑の太陽」という言葉が喚起させるものなど。) つまり妖精物語は、文字で書かれた文学固有の表現ジャンルとされるのだ。したがって演劇という手段によるファンタジー表現の困難さも指摘される。(映画については書かれていない。)
このオックスフォードの言語学・英文学者の物語を、(時代は違うが)同じ大学の数学(論理学)教師ルイス・キャロルの『アリス』のそれと比較すると、それぞれの学問領域という背景が影響しているようでおもしろい。ふたりの物語は対極にあるといってもいいのだ。(トールキンは『アリス』の物語をファンタジーとは見ていない。) 例えばトールキンの物語には「願い」があって、「アリス」にはそれがない。トールキンにあってその願いは、読者のものでもあり、また主人公たちのものでもあり、それらは<幸福な結末への慰み(ハッピー・エンディング)>へと結ばれてゆく。時間はその大団円に向かって怒涛のように流れ、その渦の中で日常的な倦怠の時間感覚を超越する。
あのような物語(グリム童話の「白槙(びゃくしん)の木」のこと)は異次元の<時>への扉を開く。その扉を通ると、ほんの一瞬だがわたしたちはこの現実世界の時間の外、おそらく<時>そのものの外に立っているのだ。
一方の『アリス』では、ストーリーは夢(悪夢)から覚めて終わる。「論理」の世界に時間はない。さらに神も妖精もいない世界だ。登場人物たちには、固有名詞で表される「他にない・かけがいのなさ」といったものはなく、代わりに「白ウサギ」といった<種>の名前、つまり代入可能な変数や記号で呼ばれる。
とはいっても、「物語」であるということは、いやおうなしに時間の世界に入り込むことでもある。しかし『アリス』の物語は、その時間を受け入れることも拒絶し、時間の順序を転倒させたりする。そうしたあらゆる努力と方策によって、ルイス・キャロルのノンセンスは細部に渡って意味を拒絶し通し、そもそもこの世界には意味の根拠性などないのだということを示そうとしているかのようだ。
妖精というのは聖霊のことでもあり、そしてキリスト教が広まる以前にヨーロッパにいた神々やスピリットでもある。神話の世界では有形無形のそうした者たちが、さまざまな活躍をしていた。神話も妖精物語と同じく、準創造であるとトールキンは言う。妖精物語というのは彼にとって、かって生き生きとしていた人間と自然との関わりを取り戻し、世界に意味と希望を与えるという神話の役割を現代において果たそうとするものなのだろう。
そうした点においても、常識的な意味を揺るがすルイス・キャロルのノンセンス文法と、形容詞を駆使して常識的な意味を超えた新しい意味を生み出そうとするトールキンのファンタジー文法との違いが表れているのではないだろうか。あるいは、この世界が実は隙間だらけであり、そこを覗かせてくれるか、それとも実は隙間には妖精たちが住んでいて、けっきょく世界は意味で充満されるということを教えてくれるのかの違いといえるかもしれない。
いじめMEMO(2)
2004年2月23日 率直な文章を書けるというのは、天性に負うところも大きいように思う。もう有名なのかもしれないけど、『小学生日記』の hanae*ちゃん。
http://www.spoon01.com/column/index.html
その11月のところに、実際に体験した「いじめ」のことが書かれている。
http://www.spoon01.com/column/diary_11.html
いじめに関するいろいろなことが、その記述に凝縮されているように思う。また、いじめにあっている子と仲良くして、自らも被害を受けそうになったり、いじめの現場に居合わせて戸惑う作者の気持ちの描写などが、(こう言ってはなんだけど)とても上手だ。靴を隠されてもいじめにあっていることを否認し、何事もなかったかのように笑って見せるいじめられっ子の様子。学校の教師が言った「自分がいじめられていると思ったら、自分から話しかけたりしてみましょう」という、的外れな言葉。それにたいし疑問を投げかけ、<○○ちゃんは、こんなことされて、いつもひとりでがまんしてたのかな。でも、だめだよ、それじゃ。>というのは、そのとおりだと思う。ほんとうは強く「ノン」を言う必要があるのだけど、それがなかなかできないんだろうなあ。
それと、いじめられてる子と仲良くして作者自身もハブられそうになったのをきっかけに、<最近、もう「グループでべったり」っていうのをやめにした。何をするのもいつもいっしょ、って感じだったけど、時には自分で好きにするほうがラク、って気づいた。>というのも、なかなかできない発想だと思う。「グループ」というのは、もちろん仲良しで一緒という楽しさと安心感は得られるという面はあるけれど、実はもう一面でメンバーに同一行動・同一視を強いて自由を束縛し、かつ排他的な性格をもたらすことになり、それがいじめへの要因のひとつにもなるのではないかという気がしていた。グループというのは、その内で絶えず椅子取りゲームの緊張感をはらんでいて、その解消やガス抜きのため、外部の孤立した者をターゲットにするという機制だ。
それにしてもこの作者は、もっと小さいころ米国に住んでいたことがあるせいなのか、強いですね。コマーシャル撮影のモデルとかもやってるみたいだけど、大人があまりちょっかい出すとつぶしてしまうのではとちょっと心配になったり。
*
小学校の頃、好きな女の子につらく当たっていたことがあった。ガキのパターン。東京から来た転校生で、かわいいかったし、勉強も良くできた。何ヵ月かして、またどこかへ転校して行った。いやな思い出になってると思う。ほんとうにごめんなさい。
*
(独り言)「ストーン・サークル」というのは、石つながりの(グループではなく)外に開かれたサークルという意味もあったりします。まあ、早く書けって感じですが。
http://www.spoon01.com/column/index.html
その11月のところに、実際に体験した「いじめ」のことが書かれている。
http://www.spoon01.com/column/diary_11.html
いじめに関するいろいろなことが、その記述に凝縮されているように思う。また、いじめにあっている子と仲良くして、自らも被害を受けそうになったり、いじめの現場に居合わせて戸惑う作者の気持ちの描写などが、(こう言ってはなんだけど)とても上手だ。靴を隠されてもいじめにあっていることを否認し、何事もなかったかのように笑って見せるいじめられっ子の様子。学校の教師が言った「自分がいじめられていると思ったら、自分から話しかけたりしてみましょう」という、的外れな言葉。それにたいし疑問を投げかけ、<○○ちゃんは、こんなことされて、いつもひとりでがまんしてたのかな。でも、だめだよ、それじゃ。>というのは、そのとおりだと思う。ほんとうは強く「ノン」を言う必要があるのだけど、それがなかなかできないんだろうなあ。
それと、いじめられてる子と仲良くして作者自身もハブられそうになったのをきっかけに、<最近、もう「グループでべったり」っていうのをやめにした。何をするのもいつもいっしょ、って感じだったけど、時には自分で好きにするほうがラク、って気づいた。>というのも、なかなかできない発想だと思う。「グループ」というのは、もちろん仲良しで一緒という楽しさと安心感は得られるという面はあるけれど、実はもう一面でメンバーに同一行動・同一視を強いて自由を束縛し、かつ排他的な性格をもたらすことになり、それがいじめへの要因のひとつにもなるのではないかという気がしていた。グループというのは、その内で絶えず椅子取りゲームの緊張感をはらんでいて、その解消やガス抜きのため、外部の孤立した者をターゲットにするという機制だ。
それにしてもこの作者は、もっと小さいころ米国に住んでいたことがあるせいなのか、強いですね。コマーシャル撮影のモデルとかもやってるみたいだけど、大人があまりちょっかい出すとつぶしてしまうのではとちょっと心配になったり。
*
小学校の頃、好きな女の子につらく当たっていたことがあった。ガキのパターン。東京から来た転校生で、かわいいかったし、勉強も良くできた。何ヵ月かして、またどこかへ転校して行った。いやな思い出になってると思う。ほんとうにごめんなさい。
*
(独り言)「ストーン・サークル」というのは、石つながりの(グループではなく)外に開かれたサークルという意味もあったりします。まあ、早く書けって感じですが。
いじめMEMO
2004年2月21日いじめを引き起こす原因に、ねたみがあるという指摘がある。
「いじめと学校社会 − 人間学的考察」菅野盾樹
「多くのいじめの事例にねたみの形跡がある。この事実は従来の研究でそれほど強調されてこなかった。むしろねたみへの言及がいじめをめぐる言説から周到に除去されてきたとさえいえるかもしれない。」
『 PSYCHE(心理・精神医学)』(これで良いのか?「病める日本」の心理学)又吉正治
「他人にそのような感情(いじめる感情のこと)を向けるとき、何が原因か?ということを考えますと「嫉妬」であると思います。嫉妬というのは、甘えたくても甘えられない状態にある者が甘えることができる者を見たときに生じる感情、と定義します。
いじめの構図の根底にあるのは、それまでの家族関係における嫉妬の感情が抑圧されていることを事例で確認することができます」
これらの見解は、他人に自分にないもの――卓れている点、特技、(親などに)甘えることのできた環境など――をみいだしたとき、ねたみの感情が湧き起こり、それがいじめにつながるというものだ。
一方、いじめの原因を個人心理ではなく、社会集団が不可避に持つ排除の原理から説明しようとするものもある。例えば永井俊哉サイトの講義録など。
「いじめの本質がスケープゴートであることが分かる。スケープゴートとは、周縁における両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である。同級生は、《自分たちとは異質であるにもかかわらず、自分たちと同じクラスに存在する》両義性ゆえに、太郎君(引用者注:喩え話に登場するいじめられる人物名。生贄の羊)を消そうとするのだ。」
しかし、いじめは「社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではない」と言い切ることはできないと思う。またその解決に「個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。」というのは、現実には難しいだろう。小中学校の学級で、生徒個人が組織(学級)から自立というのはかなり無理な話だ。(ただし、学級という制度をなくしてしまえば可能だけど。)
作田啓一『生の欲動』による、ラカン−ジジェクなども援用して独自の精神分析的考察から、いじめが「倒錯」(とくにサディズム)によるもので、「享楽」(苦痛を伴った快楽)として行われるという説がとても参考になる。
いじめの動機については、ねたみなど個人心理が欠かせないが、それだけでは「個人的いやがらせ」にとどまるかもしれない。それが組織・集団全体におよんで定常的な「いじめ」となるには、やはり集団の力学が働いているのは確かだろう。
学級では(とくに女の子の場合)協調的行動をしがちだ。つまり二人〜数人のグループを作る。だから個人の心理がそのまま集団の現象へ移行するというより、個人や小グループの段階で、テリトリー・コンシャスというか、守るべきものを持っているという認識(思い込み・錯覚)と、そこから生じる過剰な防衛機制が、もっと大きな学級集団レベルへ移行するというのもあるのではないかと思ったりする。
グループ内や学級内に絶えず椅子取りゲームのような神経症的雰囲気が充満していると、防衛機制、例えばそのひとつである「投影」(自己の持つ都合悪いことを他人に転嫁すること)などが働くということもあるのではないだろうか。また、いじめる者といじめられる者とあいだで交代が起きるというのも、そうした雰囲気が背景にあるのではないかと思う。
そしてそういう雰囲気が出来上がっているところに、ねたみでいじめの対象が決められ作動するという仕組みかなと。
ほんらい、いじめにたいする心理的対応の対象は、いじめられている者ではなく、いじめている者になるはずだ。いじめられている者は確かに心理的苦痛を蒙っているので、カウンセリングなどの必要があるかもしれないが、でもそれもおかしい話だ。なによりいじめをなくすことが、いじめられている者への最大の心の治癒になるのだし、それにはいじめている側の心理的問題の解決の方が優先されるはずだ。
ただしその場合、いじめているクラスの大多数というより、キー・パーソンが対象となるのだろうし、それもカウンセリングというより、どういう学級運営をしてゆくかという方が重要度は高いように思う。
そうするといじめの問題は、(とくにいじめている者の)個人心理や親の心理や家族環境、そしてクラスという社会的なレベル(それには教師の関わり方や学校の対応なども含まれる)まで、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることになる。
では、いじめの解決にはどうしたらいいのだろうか。
キーワードとしては、「開く」「自由」「人格」といったことだと思う。
(この続きは明後日あたりに)
「いじめと学校社会 − 人間学的考察」菅野盾樹
「多くのいじめの事例にねたみの形跡がある。この事実は従来の研究でそれほど強調されてこなかった。むしろねたみへの言及がいじめをめぐる言説から周到に除去されてきたとさえいえるかもしれない。」
『 PSYCHE(心理・精神医学)』(これで良いのか?「病める日本」の心理学)又吉正治
「他人にそのような感情(いじめる感情のこと)を向けるとき、何が原因か?ということを考えますと「嫉妬」であると思います。嫉妬というのは、甘えたくても甘えられない状態にある者が甘えることができる者を見たときに生じる感情、と定義します。
いじめの構図の根底にあるのは、それまでの家族関係における嫉妬の感情が抑圧されていることを事例で確認することができます」
これらの見解は、他人に自分にないもの――卓れている点、特技、(親などに)甘えることのできた環境など――をみいだしたとき、ねたみの感情が湧き起こり、それがいじめにつながるというものだ。
一方、いじめの原因を個人心理ではなく、社会集団が不可避に持つ排除の原理から説明しようとするものもある。例えば永井俊哉サイトの講義録など。
「いじめの本質がスケープゴートであることが分かる。スケープゴートとは、周縁における両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である。同級生は、《自分たちとは異質であるにもかかわらず、自分たちと同じクラスに存在する》両義性ゆえに、太郎君(引用者注:喩え話に登場するいじめられる人物名。生贄の羊)を消そうとするのだ。」
しかし、いじめは「社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではない」と言い切ることはできないと思う。またその解決に「個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。」というのは、現実には難しいだろう。小中学校の学級で、生徒個人が組織(学級)から自立というのはかなり無理な話だ。(ただし、学級という制度をなくしてしまえば可能だけど。)
作田啓一『生の欲動』による、ラカン−ジジェクなども援用して独自の精神分析的考察から、いじめが「倒錯」(とくにサディズム)によるもので、「享楽」(苦痛を伴った快楽)として行われるという説がとても参考になる。
いじめの動機については、ねたみなど個人心理が欠かせないが、それだけでは「個人的いやがらせ」にとどまるかもしれない。それが組織・集団全体におよんで定常的な「いじめ」となるには、やはり集団の力学が働いているのは確かだろう。
学級では(とくに女の子の場合)協調的行動をしがちだ。つまり二人〜数人のグループを作る。だから個人の心理がそのまま集団の現象へ移行するというより、個人や小グループの段階で、テリトリー・コンシャスというか、守るべきものを持っているという認識(思い込み・錯覚)と、そこから生じる過剰な防衛機制が、もっと大きな学級集団レベルへ移行するというのもあるのではないかと思ったりする。
グループ内や学級内に絶えず椅子取りゲームのような神経症的雰囲気が充満していると、防衛機制、例えばそのひとつである「投影」(自己の持つ都合悪いことを他人に転嫁すること)などが働くということもあるのではないだろうか。また、いじめる者といじめられる者とあいだで交代が起きるというのも、そうした雰囲気が背景にあるのではないかと思う。
そしてそういう雰囲気が出来上がっているところに、ねたみでいじめの対象が決められ作動するという仕組みかなと。
ほんらい、いじめにたいする心理的対応の対象は、いじめられている者ではなく、いじめている者になるはずだ。いじめられている者は確かに心理的苦痛を蒙っているので、カウンセリングなどの必要があるかもしれないが、でもそれもおかしい話だ。なによりいじめをなくすことが、いじめられている者への最大の心の治癒になるのだし、それにはいじめている側の心理的問題の解決の方が優先されるはずだ。
ただしその場合、いじめているクラスの大多数というより、キー・パーソンが対象となるのだろうし、それもカウンセリングというより、どういう学級運営をしてゆくかという方が重要度は高いように思う。
そうするといじめの問題は、(とくにいじめている者の)個人心理や親の心理や家族環境、そしてクラスという社会的なレベル(それには教師の関わり方や学校の対応なども含まれる)まで、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることになる。
では、いじめの解決にはどうしたらいいのだろうか。
キーワードとしては、「開く」「自由」「人格」といったことだと思う。
(この続きは明後日あたりに)
今日でなくてもいい日記
2004年2月19日目の前にナビスコの「チップス・アホイ(Chips Ahoy!)」(チョコレート・チップがまぶしてあるクッキー)があるんだけど、そのネーミングは "Ship(s) ahoy!"(おーい, そこの船!)をもじってるんですね。
(タイトルは忘れたけど)以前見た映画に、夜と霧のロンドン港のシーンで、登場人物が停泊中の船に小舟で近づいて行って、"Ship ahoy!" と呼びかけるのがあった。それでクッキーの名前の意味が分かったのでした。
・・・と思ったけど、もしかして以前の「チップス・アホイ」の箱に、ネーミングの由来が書いてあったかもしれないと思った。どっちだったろう? どちらかが記憶の改変・編集になる。
*
昨日、ハリウッドの子供物は好きじゃないと書いたけど、ステーヴン・キング原作の「スタンドバイミー」(監督ロブ・ライナー)なんかは面白かった。主演のリバー・フェニックスも良かった。(もう死んでしまったけど。) 男の子四人が、噂に聞いた死体を見に(探しに)二泊三日の旅をするというストーリーです。
アメリカ映画はロードムービーが面白い。もちろんそうでない映画にも面白いのがあるけど。ウッディ・アレンなんかあまりニューヨークから出ないし。
ちなみに、というか余計なお世話というか、ロードムービーというのは、旅のプロセスを描く映画のことです。フランシス・F・コッポラの映画でいうと、「地獄の黙示録」は戦争映画でもあるけど、河を遡る一種のロードムービーです。「ランブル・フィッシュ」や「ワン・フロム・ザ・ハート」は、非ロードムービー。どちらも良い映画。基本的にミュージカルは好きじゃないけど、「ワン・フロム・ザ・ハート」はとても面白い映画だった。何故かヒットしないで、大赤字になったらしいけど。
このところ映画をぜんぜん観てない。(ため息)
散漫な文章だ……。(ため息)
(タイトルは忘れたけど)以前見た映画に、夜と霧のロンドン港のシーンで、登場人物が停泊中の船に小舟で近づいて行って、"Ship ahoy!" と呼びかけるのがあった。それでクッキーの名前の意味が分かったのでした。
・・・と思ったけど、もしかして以前の「チップス・アホイ」の箱に、ネーミングの由来が書いてあったかもしれないと思った。どっちだったろう? どちらかが記憶の改変・編集になる。
*
昨日、ハリウッドの子供物は好きじゃないと書いたけど、ステーヴン・キング原作の「スタンドバイミー」(監督ロブ・ライナー)なんかは面白かった。主演のリバー・フェニックスも良かった。(もう死んでしまったけど。) 男の子四人が、噂に聞いた死体を見に(探しに)二泊三日の旅をするというストーリーです。
アメリカ映画はロードムービーが面白い。もちろんそうでない映画にも面白いのがあるけど。ウッディ・アレンなんかあまりニューヨークから出ないし。
ちなみに、というか余計なお世話というか、ロードムービーというのは、旅のプロセスを描く映画のことです。フランシス・F・コッポラの映画でいうと、「地獄の黙示録」は戦争映画でもあるけど、河を遡る一種のロードムービーです。「ランブル・フィッシュ」や「ワン・フロム・ザ・ハート」は、非ロードムービー。どちらも良い映画。基本的にミュージカルは好きじゃないけど、「ワン・フロム・ザ・ハート」はとても面白い映画だった。何故かヒットしないで、大赤字になったらしいけど。
このところ映画をぜんぜん観てない。(ため息)
散漫な文章だ……。(ため息)
映画のなかの男の子
2004年2月18日小栗康平監督の『埋もれ木』という作品では、主人公の女子高校生とそのクラスメイト役を全国公募してるようです。(オーディションは札幌など各都市で)
応募資格は書いてなかった。映画の舞台は三重県の鈴鹿とのこと。
詳しくは小栗康平サイトをcheck it out!
http://www.oguri.info/
今までの小栗作品はたしか原作ものだったが、今度のはオリジナル脚本らしい。
*
監督デビュー作の『泥の河』(原作:宮本輝)はモノクロ作品で、男のガキん子(たち)が主人公だった。そのジャンルの映画はほかに、『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ)や『アマルコルド』(F・フェリーニ)などがある。そういう映画は、観てて分かるんですね、かってガキん子だったから。ストーリー展開に意外性はあっても、登場人物たちの気持ちにはあまり意外性を持たない。「うんうん」という感じで納得して・懐かしみをもって観ることになってしまう。その点、女の子が主人公の映画というのは、よく分からないところがあって、そこがまたおもしろい。
一般に子供が主人公の映画はおもしろい。いや、「オーメン」みたいな、子供なのに・・・という意外性をウリにするようなのは好きじゃないけど。それと、なかには、主人公はべつに子供でなくてもいいじゃん、という映画もあるけど。
基本的にハリウッドの子供物は好きじゃない。お涙頂戴だったり、マルチの宣伝やったりするクソガキが出てきたりするから。悪例としては偽善のマルチ啓蒙映画「ペイ・フォワード」あたり。
米国のガキん子は伝統的に、ハックルベリー・フィンなど自立傾向が強い。でもその自立というは、子供にネズミ講を語らせるというのなんかとは全然違う。だいたい善なる行いのベースには、何より<他者>への<愛>がなくてはならないのだ。(<他者>ってたんに他人のことじゃないし、<愛>も自己愛の鏡のようなものでもない。レヴィナス参照) たんなる親切による善行とは違うのだ。それはネズミ算で増幅するものでもない。自分のやろうとしていることが善意に基づいているからといって、それが善なる行為であるという保証は何もない。もしふつうの人間が見返りを期待しないでジャガーの新車を人にくれてやるようなことをするとしたら、その登場人物の自己変革物語だけで一、二時間くらいは必要になるだろう。
中沢新一の「カイエ・ソバージュ」(の1冊目だったかな?)の贈与論のところに、志賀直哉の「小僧の神様」の話が出てくる。お金が足りなくて手に取った寿司を食べられなかった丁稚小僧に、ある人物が正体を隠して、食べられるように便宜を図るというものだ。小僧は、神様が自分に施してくれたものと思い込んでいる。しかし当の人物は、善意で行なったことにたいし、居心地の悪さを憶えてしまうのだ。
見返りのない贈与というのは、それくらい重いものなのだ。ノー天気に善意をやって心が晴れ晴れ、「みんなに広げよう善意の輪!」というわけには行かないのだ。日本人はそのへんのデリカシーを持ってるはずなのに、安っぽい舶来マルチの善意話なんかに騙されちゃダメボ。
実際にマルチ商法なんかやってる連中の脳内では、目的は金儲けだけでなく、地球や身体に優しい商品を広めるとか、みんなで利益を得て幸せになるといった、(嘘っぽい)善意を広げる活動にも変換されているのだ。(もちろん彼らは儲かるって話もそれなりにするけど。) つまりあの映画に洗脳されたら、すぐマルチに転用が利くという仕掛けなのだ。
ふつう困ってる人を見たら助けたいというのは、わりと誰でも持ってるものだろうし、手助けしたとしても見返りもあまり期待しないものだ。チャリティじたいはべつに偽善でも何でもない。そして何かの縁や条件があればそうするかもしれないし、そうしないかもしれない。で、それでいいじゃない。それを何でネズミ算を基準に、善意を3回とか回数を決められなくちゃならないんだ? みんなが幸せになるため? 3回の善意の施しがみんなの幸せにつながるといった幻想(飛躍)をふりまくことこそが、そうした啓蒙主義詐偽映画の真髄なんだな。
で、映画の最後で主人公の白人のガキは、ヒスパニックのガキに殺されるらしい。ハリウッドは好きだね、そういう可哀想な悲劇の主人公に仕立て上げるセコい手口。それはまた、ヒスパニック−カソリック v.s. 白人−モルモン教&マルチという構図のつもりか。それにネズミ算式に増える善意の輪なんてのは、いくら絵空事とはいえ、カソリックなどの教会のチャリティとぶつかるだろう。贈与は、人→人よりは、人→教会(神)→人のほうがすっきり収まるのだ。
まあ、その映画は観てないんだけどさ。プレヴューやネタバレの解説読んでそう思った。ていうか、観るかよ、ふん! でも、その映画はもしかして、マルチな脳ミソのガキなんか殺されて当然、という教訓話だったのかな? とか、まあ冗談だけど。というか、大人の企みや論理を子供に語らせる(騙らせる)、つまり子供を傀儡として使うというシナリオじたいが、非常にいやらしい。(人の振り見て我が振り直せだけど。)
フォークナーの短編「納屋は燃える」の主人公の男の子なんかすごい。どうしようもないロクデナシの親を見限って、ひとり旅立つのだ。そういう孤独に耐えられるのが男の子なのだ。いや、マザコンっ気のある日本やイタリアというより、米国のね。
とは言っても、もうそういうタイプは昔の話みたいだけど。今や米国の男の子も、クリントンやブッシュJr.みたいにベトナムの戦場行きをセコく逃れ、格好だけ強がって見せる軟派の時代になったのかもしれない。
次の大統領は、ベトナム従軍経験のある民主党のジョン・ケリーが最有力なのかな。
応募資格は書いてなかった。映画の舞台は三重県の鈴鹿とのこと。
詳しくは小栗康平サイトをcheck it out!
http://www.oguri.info/
今までの小栗作品はたしか原作ものだったが、今度のはオリジナル脚本らしい。
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監督デビュー作の『泥の河』(原作:宮本輝)はモノクロ作品で、男のガキん子(たち)が主人公だった。そのジャンルの映画はほかに、『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ)や『アマルコルド』(F・フェリーニ)などがある。そういう映画は、観てて分かるんですね、かってガキん子だったから。ストーリー展開に意外性はあっても、登場人物たちの気持ちにはあまり意外性を持たない。「うんうん」という感じで納得して・懐かしみをもって観ることになってしまう。その点、女の子が主人公の映画というのは、よく分からないところがあって、そこがまたおもしろい。
一般に子供が主人公の映画はおもしろい。いや、「オーメン」みたいな、子供なのに・・・という意外性をウリにするようなのは好きじゃないけど。それと、なかには、主人公はべつに子供でなくてもいいじゃん、という映画もあるけど。
基本的にハリウッドの子供物は好きじゃない。お涙頂戴だったり、マルチの宣伝やったりするクソガキが出てきたりするから。悪例としては偽善のマルチ啓蒙映画「ペイ・フォワード」あたり。
米国のガキん子は伝統的に、ハックルベリー・フィンなど自立傾向が強い。でもその自立というは、子供にネズミ講を語らせるというのなんかとは全然違う。だいたい善なる行いのベースには、何より<他者>への<愛>がなくてはならないのだ。(<他者>ってたんに他人のことじゃないし、<愛>も自己愛の鏡のようなものでもない。レヴィナス参照) たんなる親切による善行とは違うのだ。それはネズミ算で増幅するものでもない。自分のやろうとしていることが善意に基づいているからといって、それが善なる行為であるという保証は何もない。もしふつうの人間が見返りを期待しないでジャガーの新車を人にくれてやるようなことをするとしたら、その登場人物の自己変革物語だけで一、二時間くらいは必要になるだろう。
中沢新一の「カイエ・ソバージュ」(の1冊目だったかな?)の贈与論のところに、志賀直哉の「小僧の神様」の話が出てくる。お金が足りなくて手に取った寿司を食べられなかった丁稚小僧に、ある人物が正体を隠して、食べられるように便宜を図るというものだ。小僧は、神様が自分に施してくれたものと思い込んでいる。しかし当の人物は、善意で行なったことにたいし、居心地の悪さを憶えてしまうのだ。
見返りのない贈与というのは、それくらい重いものなのだ。ノー天気に善意をやって心が晴れ晴れ、「みんなに広げよう善意の輪!」というわけには行かないのだ。日本人はそのへんのデリカシーを持ってるはずなのに、安っぽい舶来マルチの善意話なんかに騙されちゃダメボ。
実際にマルチ商法なんかやってる連中の脳内では、目的は金儲けだけでなく、地球や身体に優しい商品を広めるとか、みんなで利益を得て幸せになるといった、(嘘っぽい)善意を広げる活動にも変換されているのだ。(もちろん彼らは儲かるって話もそれなりにするけど。) つまりあの映画に洗脳されたら、すぐマルチに転用が利くという仕掛けなのだ。
ふつう困ってる人を見たら助けたいというのは、わりと誰でも持ってるものだろうし、手助けしたとしても見返りもあまり期待しないものだ。チャリティじたいはべつに偽善でも何でもない。そして何かの縁や条件があればそうするかもしれないし、そうしないかもしれない。で、それでいいじゃない。それを何でネズミ算を基準に、善意を3回とか回数を決められなくちゃならないんだ? みんなが幸せになるため? 3回の善意の施しがみんなの幸せにつながるといった幻想(飛躍)をふりまくことこそが、そうした啓蒙主義詐偽映画の真髄なんだな。
で、映画の最後で主人公の白人のガキは、ヒスパニックのガキに殺されるらしい。ハリウッドは好きだね、そういう可哀想な悲劇の主人公に仕立て上げるセコい手口。それはまた、ヒスパニック−カソリック v.s. 白人−モルモン教&マルチという構図のつもりか。それにネズミ算式に増える善意の輪なんてのは、いくら絵空事とはいえ、カソリックなどの教会のチャリティとぶつかるだろう。贈与は、人→人よりは、人→教会(神)→人のほうがすっきり収まるのだ。
まあ、その映画は観てないんだけどさ。プレヴューやネタバレの解説読んでそう思った。ていうか、観るかよ、ふん! でも、その映画はもしかして、マルチな脳ミソのガキなんか殺されて当然、という教訓話だったのかな? とか、まあ冗談だけど。というか、大人の企みや論理を子供に語らせる(騙らせる)、つまり子供を傀儡として使うというシナリオじたいが、非常にいやらしい。(人の振り見て我が振り直せだけど。)
フォークナーの短編「納屋は燃える」の主人公の男の子なんかすごい。どうしようもないロクデナシの親を見限って、ひとり旅立つのだ。そういう孤独に耐えられるのが男の子なのだ。いや、マザコンっ気のある日本やイタリアというより、米国のね。
とは言っても、もうそういうタイプは昔の話みたいだけど。今や米国の男の子も、クリントンやブッシュJr.みたいにベトナムの戦場行きをセコく逃れ、格好だけ強がって見せる軟派の時代になったのかもしれない。
次の大統領は、ベトナム従軍経験のある民主党のジョン・ケリーが最有力なのかな。
園芸療法MEMO
2004年2月17日老人・痴呆老人・子供から老人までの障害者・入院患者などに活力を与え治療に役立てる、園芸療法・園芸セラピーというものがあるらしい。
日本園芸療法研究会
http://www.bekkoame.ne.jp/~takasuna/
園芸療法の効果はアメリカなどでは早くから認められていて、園芸療法士の資格もいろいろあるようだ。
だが日本ではまだ国家資格としては認められておらず、協会や団体の認定資格のみ。
園芸療法は、作業療法の一つとしては保険の対象ともして認められているけど、社会的な認知はまだまだらしい。
いま病院では院内感染の問題があり、花の水や土壌が細菌の培地になるとか、また花粉アレルギーの問題もあったりで、花の持ち込みを禁止にする病院もあるとか。但し、
もっとも、病室に持ち込んだ花や土で、どの程度
患者が危険にさらされるか、よく分かっていない。
見舞いの花の問題より、病院職員がきちんと院内感染
予防策をとることが重要、という指摘もある。
(YOMIURI ONLINE)
とのこと。
倉敷の大原美術館を創設した大原孫三郎は、倉敷中央病院という、温室で有名な病院も設計・設立している。
http://www.kchnet.or.jp/sanpo1.asp
庭のある病院はそこそこあるかもしれないが、院内に植物の多い病院は少ないように思う。建物もつまらない近代建築が多いし。
同じことは学校についても言える。
本屋で「書物の王国」シリーズ(国書刊行会)の『(6) 鉱物』を手に取って中をパラパラと見ていたら、なんだか鉱物の話が出てこなくておかしい。よく見たら、隣にあった『(5) 植物』のほうを取っていたのだ。同じことが別の書店でも続けて起きた。もしかして認知とアクセスの心身機能に問題が生じてきたか、それとも『書物の王国(5) 植物』を買えってことか。
日本園芸療法研究会
http://www.bekkoame.ne.jp/~takasuna/
園芸療法の効果はアメリカなどでは早くから認められていて、園芸療法士の資格もいろいろあるようだ。
だが日本ではまだ国家資格としては認められておらず、協会や団体の認定資格のみ。
園芸療法は、作業療法の一つとしては保険の対象ともして認められているけど、社会的な認知はまだまだらしい。
いま病院では院内感染の問題があり、花の水や土壌が細菌の培地になるとか、また花粉アレルギーの問題もあったりで、花の持ち込みを禁止にする病院もあるとか。但し、
もっとも、病室に持ち込んだ花や土で、どの程度
患者が危険にさらされるか、よく分かっていない。
見舞いの花の問題より、病院職員がきちんと院内感染
予防策をとることが重要、という指摘もある。
(YOMIURI ONLINE)
とのこと。
倉敷の大原美術館を創設した大原孫三郎は、倉敷中央病院という、温室で有名な病院も設計・設立している。
http://www.kchnet.or.jp/sanpo1.asp
庭のある病院はそこそこあるかもしれないが、院内に植物の多い病院は少ないように思う。建物もつまらない近代建築が多いし。
同じことは学校についても言える。
本屋で「書物の王国」シリーズ(国書刊行会)の『(6) 鉱物』を手に取って中をパラパラと見ていたら、なんだか鉱物の話が出てこなくておかしい。よく見たら、隣にあった『(5) 植物』のほうを取っていたのだ。同じことが別の書店でも続けて起きた。もしかして認知とアクセスの心身機能に問題が生じてきたか、それとも『書物の王国(5) 植物』を買えってことか。
イラクを巡るチンピラの抗争
2004年2月11日 昔々あるところに、帝国のチンピラ番長ブッシーちゃんと副番長トニーちゃんがいました。そして少し離れたところに、サダムちゃんという、何かとブッシーちゃんに敵対しているチンピラがいました。昔は帝国と仲が良かったのだけど、調子に乗ってシマを拡大しようとして、ブッシーのお父ちゃんたちから一度ひどくボコられたことがあります。
ブッシーちゃんの後ろには、ネオコンというあやしいボンボン連中がついていて、「生意気なサダムは金づるを持ってるし、あそこのシマを乗っ取ろうよ」と、さかんに頭の悪いブッシーちゃんを焚きつけます。
そうしたこともあってチンピラ番長ブッシーちゃんは、トニーちゃんや他のチンピラ仲間を誘って、サダムちゃんに因縁をつけ、ボコってシマを手に入れようと決心しました。
でも仲間は集まるどころか、反対する声の方が支配的でした。特にサダムちゃんとこっそり仲良しのシラクちゃんなんかは、猛烈に反撥しました。仲間に加わったのは、いつも強い者の顔色を窺ってばかりいるような、プライドのないチンピラばかりでした。
それでもブッシーちゃんとトニーちゃんの二人は、サダムちゃんにイチャモンをつけ、とうとうケンカを吹っかけてしまいます。そして両者のガタイは全然違うので、サダムちゃんはすぐにボコボコにされ、シマを取られてしまいました。
さてブッシーちゃんたちはそうして乗っ取ったシマを、今度は仕切って行かなければなりません。言ってみればそのシマを支配する総督になったのだから、人心を掌握して、きちんと運営して行かなければならないのです。でもそのシマは、ケンカによって破壊されたり、タガが外れて混乱状態にあり、さらにはサダムちゃんの手下などが隠れてあっちこっちで悪さをしているのだから、そう簡単には事が運びません。それで自分たちだけで仕切るのは大変と、番長は他のチンピラにも仲間に加わるように要請します。「でなきゃ、分け前にあずかれないぞ」というわけです。さらには、ケンカにかかった費用もカンパしろ、と言ったりします。それで分け前のおこぼれ欲しさと番長への忠誠を示すため、何人かのチンピラが集まってきました。そこには尻尾を振って従ったパシリ役のチンピラ、純ちゃんの姿もありました。とさ。
*
そもそもイラク戦争は、利権獲得やイラクに親米政権を立てるために米英が開戦の口実をデッチ上げ、国連での合意も得られず、国際法も無視して行われたものだ。米英のイラクへの開戦には国際法学者がこぞって反対したが、それは彼らのやっている学問や仕事を台無しにするような無法行為だからである。(米国が国連で武力行使の同意を得られなかったを、国連が機能しないので役割を見直しすべしとスリ変えていたメディアもあったけど。)
現在はイラクの統治が米英だけでは(抵抗が大きく、またコストがかかることもあって)うまく進みそうもないので、国連主導でという流れになってきているが、戦争目的の遂行の本質は変わっていない。そこへ出動するということは、いくら人道支援というお題目を唱えたとしても、占領軍になるということだ。帝国軍のパシリをやるなど、特定の国々の戦争目的遂行のために出動するのは、国際貢献などとは言わない。
フランスがイラクへの武力行使に頑強に反対したのは、米国のやり方があまりに理不尽なことだけでなく、もちろん石油権益を侵害されることにたいする当然の反発もあっただろう。フランスはそれなりにご都合主義で現実打算的ではある。
だがもし欧州連合(EU)がない時代だったら、フランスも別な対応をしていたかもしれない。「二度と欧州を戦場にしない」という理念から出発したEUは、たんに市場統合などの経済共同体だけでなく、「民主主義、法の支配、人権尊重や国家間の平和的協調」という倫理・理念の共有を諸国間の統合の核としている。そしてそれは死刑廃止や戦争犯罪の告発・裁判というところにも象徴的に表れている。
理念は法というシステムにおさまって、制御と執行力を持つようになる。法は、一面では暴力の後追い承認という役割もあるが、もう一面で暴力に枠をはめるという機能も持ちあわせる。理念というのは突出したらあぶないのだ。
最初から理念を持ったチンピラ集団がナチスだったし、革命の理念がゴロツキの方便になって大量粛清をやったのがソ連だった。そして理念に突出した宗教がイスラム教原理主義(アル・カイダ)やキリスト教原理主義(ブッシュJr.)で、そこでは煽りの常套手段である独善的な善悪二元論がまかりとおる。
*
ほんらい自衛隊は日本の国民の生命財産を守るためにある。それに加え国際貢献(PKO/PKF)も役割とするなら、自衛隊(またはPKO/PKF 国連平和維持部隊)の隊員に、国際秩序(法)を守るために、もしかして死ぬことになるかもしれないということを納得してもらわなければならない。またそのことでの広い合意も必要だ。
だが国際貢献や人道支援というのは名目だけで、実際は利権がらみの戦争の分け前をもらうために出動するときは、国益という名のもとで、金のために死んでもらうことになるのだ。はたしてそれでいいのかどうか、そのへんの合意ができているのかどうかという議論があまりなされていない。派遣される隊員も、かなりの特別手当が出るからいいのか、その出費ために税金をたくさん使っていいのか、ということも含め。
*
旭川で編成された兵員500人(予備100人)の部隊というと、戦争中、ガダルカナルで玉砕した一木支隊を思い出してしまった。ほんとうはミッドウェイへの上陸部隊だったのが、機動部隊の空母が四隻とも撃沈され作戦中止となって、ガ島に転用されたものだ。
太平洋戦争の初期、日本軍は快進撃を続けたので、これはいけそうだと軍隊に志願する者が多かったとか。でも結局、たくさん死んでいった。
何のために熱帯の密林の中で死ななければならなかったのかということは、後世に伝えて行くべきことなのだろう。例えば大岡昇平によって戦記として書かれたように。
「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遭うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の身に跳ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとするものにとっては聞こえる声で、語り続けているのである。」(大岡昇平『レイテ戦記』―― エピローグ)
ブッシーちゃんの後ろには、ネオコンというあやしいボンボン連中がついていて、「生意気なサダムは金づるを持ってるし、あそこのシマを乗っ取ろうよ」と、さかんに頭の悪いブッシーちゃんを焚きつけます。
そうしたこともあってチンピラ番長ブッシーちゃんは、トニーちゃんや他のチンピラ仲間を誘って、サダムちゃんに因縁をつけ、ボコってシマを手に入れようと決心しました。
でも仲間は集まるどころか、反対する声の方が支配的でした。特にサダムちゃんとこっそり仲良しのシラクちゃんなんかは、猛烈に反撥しました。仲間に加わったのは、いつも強い者の顔色を窺ってばかりいるような、プライドのないチンピラばかりでした。
それでもブッシーちゃんとトニーちゃんの二人は、サダムちゃんにイチャモンをつけ、とうとうケンカを吹っかけてしまいます。そして両者のガタイは全然違うので、サダムちゃんはすぐにボコボコにされ、シマを取られてしまいました。
さてブッシーちゃんたちはそうして乗っ取ったシマを、今度は仕切って行かなければなりません。言ってみればそのシマを支配する総督になったのだから、人心を掌握して、きちんと運営して行かなければならないのです。でもそのシマは、ケンカによって破壊されたり、タガが外れて混乱状態にあり、さらにはサダムちゃんの手下などが隠れてあっちこっちで悪さをしているのだから、そう簡単には事が運びません。それで自分たちだけで仕切るのは大変と、番長は他のチンピラにも仲間に加わるように要請します。「でなきゃ、分け前にあずかれないぞ」というわけです。さらには、ケンカにかかった費用もカンパしろ、と言ったりします。それで分け前のおこぼれ欲しさと番長への忠誠を示すため、何人かのチンピラが集まってきました。そこには尻尾を振って従ったパシリ役のチンピラ、純ちゃんの姿もありました。とさ。
*
そもそもイラク戦争は、利権獲得やイラクに親米政権を立てるために米英が開戦の口実をデッチ上げ、国連での合意も得られず、国際法も無視して行われたものだ。米英のイラクへの開戦には国際法学者がこぞって反対したが、それは彼らのやっている学問や仕事を台無しにするような無法行為だからである。(米国が国連で武力行使の同意を得られなかったを、国連が機能しないので役割を見直しすべしとスリ変えていたメディアもあったけど。)
現在はイラクの統治が米英だけでは(抵抗が大きく、またコストがかかることもあって)うまく進みそうもないので、国連主導でという流れになってきているが、戦争目的の遂行の本質は変わっていない。そこへ出動するということは、いくら人道支援というお題目を唱えたとしても、占領軍になるということだ。帝国軍のパシリをやるなど、特定の国々の戦争目的遂行のために出動するのは、国際貢献などとは言わない。
フランスがイラクへの武力行使に頑強に反対したのは、米国のやり方があまりに理不尽なことだけでなく、もちろん石油権益を侵害されることにたいする当然の反発もあっただろう。フランスはそれなりにご都合主義で現実打算的ではある。
だがもし欧州連合(EU)がない時代だったら、フランスも別な対応をしていたかもしれない。「二度と欧州を戦場にしない」という理念から出発したEUは、たんに市場統合などの経済共同体だけでなく、「民主主義、法の支配、人権尊重や国家間の平和的協調」という倫理・理念の共有を諸国間の統合の核としている。そしてそれは死刑廃止や戦争犯罪の告発・裁判というところにも象徴的に表れている。
理念は法というシステムにおさまって、制御と執行力を持つようになる。法は、一面では暴力の後追い承認という役割もあるが、もう一面で暴力に枠をはめるという機能も持ちあわせる。理念というのは突出したらあぶないのだ。
最初から理念を持ったチンピラ集団がナチスだったし、革命の理念がゴロツキの方便になって大量粛清をやったのがソ連だった。そして理念に突出した宗教がイスラム教原理主義(アル・カイダ)やキリスト教原理主義(ブッシュJr.)で、そこでは煽りの常套手段である独善的な善悪二元論がまかりとおる。
*
ほんらい自衛隊は日本の国民の生命財産を守るためにある。それに加え国際貢献(PKO/PKF)も役割とするなら、自衛隊(またはPKO/PKF 国連平和維持部隊)の隊員に、国際秩序(法)を守るために、もしかして死ぬことになるかもしれないということを納得してもらわなければならない。またそのことでの広い合意も必要だ。
だが国際貢献や人道支援というのは名目だけで、実際は利権がらみの戦争の分け前をもらうために出動するときは、国益という名のもとで、金のために死んでもらうことになるのだ。はたしてそれでいいのかどうか、そのへんの合意ができているのかどうかという議論があまりなされていない。派遣される隊員も、かなりの特別手当が出るからいいのか、その出費ために税金をたくさん使っていいのか、ということも含め。
*
旭川で編成された兵員500人(予備100人)の部隊というと、戦争中、ガダルカナルで玉砕した一木支隊を思い出してしまった。ほんとうはミッドウェイへの上陸部隊だったのが、機動部隊の空母が四隻とも撃沈され作戦中止となって、ガ島に転用されたものだ。
太平洋戦争の初期、日本軍は快進撃を続けたので、これはいけそうだと軍隊に志願する者が多かったとか。でも結局、たくさん死んでいった。
何のために熱帯の密林の中で死ななければならなかったのかということは、後世に伝えて行くべきことなのだろう。例えば大岡昇平によって戦記として書かれたように。
「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遭うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の身に跳ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとするものにとっては聞こえる声で、語り続けているのである。」(大岡昇平『レイテ戦記』―― エピローグ)
本の記憶
2004年2月10日北大病院近くの古本屋弘N堂のジジイ、ちょっとセコい。
本を見る眼はないし。
もう息子と変わった方がいいんじゃないか。
*
小学生のころの読書
小三のとき、誕生会でクラスの女の子から贈られた、ジュール・ベルヌ『十五少年漂流記』にびっくり。活字がびっしりの本との、初めての出会い。夢中になって読んだ。
高学年のとき、家に毎月「少年少女世界文学全集」が送られてきた。
『小公子』とか『グリム童話』とか、そういうの。
学校の図書室のSFシリーズを全部読んだ。
友だちの持ってた松本清張の推理小説を借りて読んで、大人の世界を垣間見た気がした。
しかし、↑小学生の文章みたいだ。(苦笑)
ヴァルター・ベンヤミンでも見習えって感じ。
で、ベンヤミンの「本を読む子供」というエセーから一部引用。
「学級文庫から本を一冊もらう。低学年のクラスでは配給があるのだ。・・・ようやく自分の本を手に入れた。一週間のあいだ、風に舞うような文章の動きに、すっかり身を委ねていた。その動きは自分を、やさしく密やかに、ひしめきあって次から次へと、雪片のように包み込んでくれた。限りない信頼の念を抱いて、そのなかへ歩み入った。本の静けさ、それは先へ先へと誘うのだった!
・・・
子供には、主人公の冒険が、活字の渦巻きのなかにまだ読み取れる。ちょうど、人物の姿や何かのメッセージが、雪片の舞うなかに読み取れるように。子供はもろもろの出来事と同じ空気を呼吸し、そしてすべての人物の息が、子供に吹きかかってくる。子供は大人よりもはるかに親しげに、登場人物のなかにまぎれこんでいる。出来事に、そして交わされる言葉に、子供は言いようもなく心を打たれており、そして立ち上がるときは、読んだことが雪のように、体中に降り積もっている。」
『ベンヤミン・コレクション(3) 記憶への旅』(「一方通行路」―引き伸ばし写真―)より
ベンヤミンは翻訳で読むしかないのだけど、文章がとてもいい。たんに文章が上手というだけではない。(見えるものであれ見えないものであれ)事物とらえ方から違う。それにしても子供の頃の記憶や感覚を、よく留めているものだと思う。
引用した文章が「引き伸ばし写真」という表題のグループに納められているのも、なかなかに意味深長だ。まるで記憶がスナップ写真(もちろんセピアかモノクロ!)となって、部屋の壁にピン止めされているよう。そして一枚の写真に目を留め、近づいてよく見てみる。そうすると、その当時の感情や感覚がいっしょに浮かび上がってくる。ただの写真ではないのだ。マルチメディアというよりマルチ・センスのメディア(媒体)。過ぎ去った時間や出来事と今とを結ぶメディア(霊媒)。
あるいは、鏡でもある。そこには、他者としての子供の自分が映っている。
映画の技法で、写真にクローズアップして、そこから動画のシーンが始まるというのがあったような気がする。
逆に、映画が終わって、ラストのシーンが写真(静止画像)になってピン留めされるというのも、どこかで見たような気が。
記憶を呼び起こす/収納するメディアとしての写真。
*
そっかー、ミッションスクールの卒業式は「蛍の光」や「仰げば尊し」じゃなく、賛美歌なんだ。
そういえば幼稚園のときミッション系だった。「主は来ませり〜♪」とか、意味が分からないまま歌ってた記憶がある。意味がわからないので、「シュッワッキ マ〜セ〜リ〜〜♪」という感じ。
記憶を呼び起こす/収納するメディアとしての音楽(?)
本を見る眼はないし。
もう息子と変わった方がいいんじゃないか。
*
小学生のころの読書
小三のとき、誕生会でクラスの女の子から贈られた、ジュール・ベルヌ『十五少年漂流記』にびっくり。活字がびっしりの本との、初めての出会い。夢中になって読んだ。
高学年のとき、家に毎月「少年少女世界文学全集」が送られてきた。
『小公子』とか『グリム童話』とか、そういうの。
学校の図書室のSFシリーズを全部読んだ。
友だちの持ってた松本清張の推理小説を借りて読んで、大人の世界を垣間見た気がした。
しかし、↑小学生の文章みたいだ。(苦笑)
ヴァルター・ベンヤミンでも見習えって感じ。
で、ベンヤミンの「本を読む子供」というエセーから一部引用。
「学級文庫から本を一冊もらう。低学年のクラスでは配給があるのだ。・・・ようやく自分の本を手に入れた。一週間のあいだ、風に舞うような文章の動きに、すっかり身を委ねていた。その動きは自分を、やさしく密やかに、ひしめきあって次から次へと、雪片のように包み込んでくれた。限りない信頼の念を抱いて、そのなかへ歩み入った。本の静けさ、それは先へ先へと誘うのだった!
・・・
子供には、主人公の冒険が、活字の渦巻きのなかにまだ読み取れる。ちょうど、人物の姿や何かのメッセージが、雪片の舞うなかに読み取れるように。子供はもろもろの出来事と同じ空気を呼吸し、そしてすべての人物の息が、子供に吹きかかってくる。子供は大人よりもはるかに親しげに、登場人物のなかにまぎれこんでいる。出来事に、そして交わされる言葉に、子供は言いようもなく心を打たれており、そして立ち上がるときは、読んだことが雪のように、体中に降り積もっている。」
『ベンヤミン・コレクション(3) 記憶への旅』(「一方通行路」―引き伸ばし写真―)より
ベンヤミンは翻訳で読むしかないのだけど、文章がとてもいい。たんに文章が上手というだけではない。(見えるものであれ見えないものであれ)事物とらえ方から違う。それにしても子供の頃の記憶や感覚を、よく留めているものだと思う。
引用した文章が「引き伸ばし写真」という表題のグループに納められているのも、なかなかに意味深長だ。まるで記憶がスナップ写真(もちろんセピアかモノクロ!)となって、部屋の壁にピン止めされているよう。そして一枚の写真に目を留め、近づいてよく見てみる。そうすると、その当時の感情や感覚がいっしょに浮かび上がってくる。ただの写真ではないのだ。マルチメディアというよりマルチ・センスのメディア(媒体)。過ぎ去った時間や出来事と今とを結ぶメディア(霊媒)。
あるいは、鏡でもある。そこには、他者としての子供の自分が映っている。
映画の技法で、写真にクローズアップして、そこから動画のシーンが始まるというのがあったような気がする。
逆に、映画が終わって、ラストのシーンが写真(静止画像)になってピン留めされるというのも、どこかで見たような気が。
記憶を呼び起こす/収納するメディアとしての写真。
*
そっかー、ミッションスクールの卒業式は「蛍の光」や「仰げば尊し」じゃなく、賛美歌なんだ。
そういえば幼稚園のときミッション系だった。「主は来ませり〜♪」とか、意味が分からないまま歌ってた記憶がある。意味がわからないので、「シュッワッキ マ〜セ〜リ〜〜♪」という感じ。
記憶を呼び起こす/収納するメディアとしての音楽(?)
蔦と蔓
2004年2月6日 この日記、隔日日記の様相。どうせ日付に関係ないことばかり書いてるので、書かなかった日はあとで埋めてもいいのだけど、そこまでするのもなんだかなぁ と思ったり。
*
前に精神分析医の斎藤環を引用して、ボーダーラインの自己の中心が空虚ということを書いたけど、実は誰でも多少は中心の空白を抱えているのだと思う。ふつうそう感じないで、自己というものが中心に確固としてあると信じているのだけれど、そう思っているだけなのかもしれない。そう思ってていることが重要なのだが、それは何か取っ掛かりがあるからだ。ひとつには役割というのが大きく働いている。役割は一般には、どこかに帰属していることによって得られる。もちろんどこにも所属しないで役割を担う場合もあるけど、たいていは会社などの組織や(特に商売をやっている)家などの場合が多い。そうして、役割をとおして何らかのネットワーク(網の目)にからまっているから、宙吊りにならないで済んでいるだけなのだろう。そのネットワークは、蔦(つた)や蔓(つる)草に喩えられるかもしれない。自らも、乳幼児期の親から始まり、周囲の人間に蔓を伸ばしてつかまり、また周りからも蔓が伸びてきて受け止めてくれる。ふつうそうした蔦や蔓のイメージも空気と同じで、とくに意識されることはないのだろう。しかし感覚としては、中心は何かで充満されていることになるのだと思う。
子供のころは依存のために蔓を伸ばすことが多いが、大きくなると次第に人を支えるためにも蔓を使うようにもなる。また子供でも、友だちとの関係やママゴトや動物の世話などを通して、それを学ぶことがある。だが育った過程でその蔓の絡み合いに失敗すると、のちのちに障害となって表れることがあるということなのだろう。だから人格障害の人たちが抱える中心の空虚感というのも、また見捨てられないことに執着するのも、そうした蔓のネットワークの希薄さにあるのかもしれない。それが絶えず前景化して意識されてしまうので、必死に外に向かって蔓を伸ばそうとするのだ。そしやって周囲から迷惑がられることになる。基本的に依存志向なので、対象は人でもモノ(アニメや主義主張などでも)でも、あるいはアルコールでも何でもいいのだ。
役割を担うということは、他から伸びてくる蔓に巻かれてもいいということでもあったりする。必死になって誰にでもいいから蔓を伸ばそうとしてる人には、それができないということなのだろう。そういう意味では、診断や治療ももちろん大事かもしれないけど、社会で役割を作っていく仕組みやソーシャルワークなどもかなり重要になってくると思う。
というわけで自己の中心に関しては、誰しも強固な地盤があって、そこに立脚しているというわけではないのだ。
ただ、中心に蔦や蔓が張り巡らされているとしても、それが絡まってがんじがらめになるというのもまた問題だ。硬直化して、生の感覚が失われてくるからだ。実際に、役割に収まってるだけの、ロボットのような人間だっている。それで人は昔から、「穴をあける」ということをやってきたのではないだろうか。例えば「祭」がそうだし、遊びなどもそうだ。蔓は自分や他者や社会などからだけでなく、自然からも伸びてきているのではないだろうか。
ということで、そのうちそのへんのところを、文化人類学や宗教論(*)や物語論に接続しようと思ってるのだけど・・・どうなるやら。
* 例えば、梅原賢一郎『カミの現象学 ― 身体から見た日本文化論』
(角川叢書)
実際に見聞した日本各地の祭りや神楽、宗教的な儀礼や行法
から、子どもの遊びといった日常の行為まで、具体例をあげ、
ながら「自分と自分以外のものとの間の回路」としての「穴」
をキーワードに、身体にいわば埋蔵された日本文化を解明する。
*
ところでいきなりですが、ADDやADHDと境界性人格障害はぜんぜん別物でしょう。
うちの甥っ子にも、障害名が付くのかどうか分からないけど、ほかの子たちとちょっと違う子がいて、うちの母(祖母−孫にあたる)なんかは最初かなり戸惑ったみたいです。だけど「そういう子なんだ」と思って対応するようになったら、別になんということはなくなったとか。そうすると、それに合わせてその子もまたちょっと変わって。
もって生まれたものはしゃーないですしね。
それと「頼る」というのは、ごく普通のことだと思います。蔓が延びるというのはいろいろな意味があると思うし、けっこう双方向だったり。
*
まあ、やるべきことをさっさとやらない人間が、こうやって偉そうなこと書いてられないのだけど・・・。
あ、カフェインが切れそう、ぐはぁ。
*
前に精神分析医の斎藤環を引用して、ボーダーラインの自己の中心が空虚ということを書いたけど、実は誰でも多少は中心の空白を抱えているのだと思う。ふつうそう感じないで、自己というものが中心に確固としてあると信じているのだけれど、そう思っているだけなのかもしれない。そう思ってていることが重要なのだが、それは何か取っ掛かりがあるからだ。ひとつには役割というのが大きく働いている。役割は一般には、どこかに帰属していることによって得られる。もちろんどこにも所属しないで役割を担う場合もあるけど、たいていは会社などの組織や(特に商売をやっている)家などの場合が多い。そうして、役割をとおして何らかのネットワーク(網の目)にからまっているから、宙吊りにならないで済んでいるだけなのだろう。そのネットワークは、蔦(つた)や蔓(つる)草に喩えられるかもしれない。自らも、乳幼児期の親から始まり、周囲の人間に蔓を伸ばしてつかまり、また周りからも蔓が伸びてきて受け止めてくれる。ふつうそうした蔦や蔓のイメージも空気と同じで、とくに意識されることはないのだろう。しかし感覚としては、中心は何かで充満されていることになるのだと思う。
子供のころは依存のために蔓を伸ばすことが多いが、大きくなると次第に人を支えるためにも蔓を使うようにもなる。また子供でも、友だちとの関係やママゴトや動物の世話などを通して、それを学ぶことがある。だが育った過程でその蔓の絡み合いに失敗すると、のちのちに障害となって表れることがあるということなのだろう。だから人格障害の人たちが抱える中心の空虚感というのも、また見捨てられないことに執着するのも、そうした蔓のネットワークの希薄さにあるのかもしれない。それが絶えず前景化して意識されてしまうので、必死に外に向かって蔓を伸ばそうとするのだ。そしやって周囲から迷惑がられることになる。基本的に依存志向なので、対象は人でもモノ(アニメや主義主張などでも)でも、あるいはアルコールでも何でもいいのだ。
役割を担うということは、他から伸びてくる蔓に巻かれてもいいということでもあったりする。必死になって誰にでもいいから蔓を伸ばそうとしてる人には、それができないということなのだろう。そういう意味では、診断や治療ももちろん大事かもしれないけど、社会で役割を作っていく仕組みやソーシャルワークなどもかなり重要になってくると思う。
というわけで自己の中心に関しては、誰しも強固な地盤があって、そこに立脚しているというわけではないのだ。
ただ、中心に蔦や蔓が張り巡らされているとしても、それが絡まってがんじがらめになるというのもまた問題だ。硬直化して、生の感覚が失われてくるからだ。実際に、役割に収まってるだけの、ロボットのような人間だっている。それで人は昔から、「穴をあける」ということをやってきたのではないだろうか。例えば「祭」がそうだし、遊びなどもそうだ。蔓は自分や他者や社会などからだけでなく、自然からも伸びてきているのではないだろうか。
ということで、そのうちそのへんのところを、文化人類学や宗教論(*)や物語論に接続しようと思ってるのだけど・・・どうなるやら。
* 例えば、梅原賢一郎『カミの現象学 ― 身体から見た日本文化論』
(角川叢書)
実際に見聞した日本各地の祭りや神楽、宗教的な儀礼や行法
から、子どもの遊びといった日常の行為まで、具体例をあげ、
ながら「自分と自分以外のものとの間の回路」としての「穴」
をキーワードに、身体にいわば埋蔵された日本文化を解明する。
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ところでいきなりですが、ADDやADHDと境界性人格障害はぜんぜん別物でしょう。
うちの甥っ子にも、障害名が付くのかどうか分からないけど、ほかの子たちとちょっと違う子がいて、うちの母(祖母−孫にあたる)なんかは最初かなり戸惑ったみたいです。だけど「そういう子なんだ」と思って対応するようになったら、別になんということはなくなったとか。そうすると、それに合わせてその子もまたちょっと変わって。
もって生まれたものはしゃーないですしね。
それと「頼る」というのは、ごく普通のことだと思います。蔓が延びるというのはいろいろな意味があると思うし、けっこう双方向だったり。
*
まあ、やるべきことをさっさとやらない人間が、こうやって偉そうなこと書いてられないのだけど・・・。
あ、カフェインが切れそう、ぐはぁ。