波と渦と盆踊り

2004年8月16日
メモ
・バカがひくという夏風邪にかかって、調子がわるかった。
・田舎者と関西人と大学のセンセイは、デザインというものにお金を払うという考えを持っていないらしいことがわかった。
  
盆踊りと身体動作
先週末、大通公園の広場でやっていた盆踊りを見物した。こちらの盆踊りは、通りを練り歩くのではなく、「北海盆歌」にあわせて櫓(やぐら)の周りをぐるぐる回る。前に見たときは踊りに注目していたが、今回は櫓のいちばん上で太鼓を叩いている人たちに興味をひかれた。四、五人が交代で叩いていたのだが、大人のなかにひとり中学生くらいに見える女の子がいてなかなかにカッコ良かった。
一連の太鼓を打つ動きのなかに、木枠のふちをカンカンと叩いてからバチを頭の上にかかげ、それからドドンと振り下ろす箇所がある。大人や若い男性は慣れているせいか、そこのところをあまりバチを高く上げずに連続した動きのなかでサッとやってしまう。でもその女の子は、まるで剣道の上段の構えのように高くバチを振りかざす。それがほんの一瞬静止したように見える。そしてそれから一気に太鼓の中央へ打ち下ろすのだ。単に盆歌の拍子取りだけではなく、太鼓を叩くことじたいにも見せ場があるという感じだ。もしかして本人にはそういう意識があまりなく、基本の「型」に忠実に従っているだけなのかもしれないが、とにかく動作が美しかったので見とれていた。
盆踊りは盆に帰ってくる死者を迎える踊りとされているが、こちらの盆踊りの振りは、波を象っているのではないかと思っている。たとえば両手を開きながら体を引く動作は引き波のようだし、両手を湾曲させながら高くかざす動きは、波そのものを表しているように見える。そして櫓の周囲を回る動きはまるで渦だ。死者たちは常世の国から波に乗ってやってくるのではないだろうか。(まるでサーファーみたいな言い方だけど。)
踊りを見ていると、手をかざす動作を高い位置でやっていない人が多かった。太鼓にしても踊りにしても、手を高く上げる動作は疲れるような印象を受ける。でも、手や肩をそのまま位置エネルギーの高いところにもち上げるというわけではなく、回転力を利用するのだから、そんなに力は要らないはずなのだ。なにせ波なのだから。(と、自分では踊らないのに、能書きだけ言ってみたり。)
盆が終わると、こちらは空にも風にも秋の気配が濃くなってくる。
『テオ・アンゲロプロスシナリオ集成』池澤夏樹/字幕(愛育社)
「旅芸人の記録」「シテール島への船出」「蜂の旅人」「霧の中の風景」「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」などの作品のシナリオが読めます。

テオ・アンゲロプロスの映画には、ここではないどこかへ行こうとする人々、そしてけっきょくは行くことを阻まれて立ちすくむ人々が登場する。背景には、第二次大戦後のギリシャの軍事政権による圧制が影を落としている。

アテネよりテッサロニキに行ってみたい。

否定―メモ

2004年7月23日
■フロイド『自我論集』(ちくま文庫)にあった論文「否定」
精神分析において被分析者が「それは〜ではありません」というとき、分析者は「それはまさに〜である」と読む。
それはまた、論理判断の否定(〜ではない;not)とも共通する。
無意識に否定はない。
などなど。もう一、二回読み直す必要がありそう。

否定は否定を生みやすい。

       *
 
最近、昼夜逆転。眠い……。

Webデザイン

2004年7月21日
仕事の話が来たので、地下鉄とバスを乗り継いで、山のほうにある大学の研究室に行ってきた。
実は地元からの仕事は、知り合いの会社のしかやったことがない。いや、話だけというのは何度かあったけど、流れてしまうか、こっちから流してしまってた。
それでその知り合いの会社以外の仕事はぜんぶ東京で、メールや電話・Fax、宅配便だけでやりとりしていた。そうやってずっとひきこもりだったので、人と会うのがちょっとしんどかった。ほんとうは地元でもメールだけでやりとりしたかったのだけど(おい!)、実際に会ってみるのもわるくない。企業からの仕事と違って、大学の研究者からの仕事は金銭的にはあまり期待はできないけど、まあ、いろんな中から選んでくれたのだし、自分で言うのもなんだけど、研究テーマに関する知識もあるので適任だと思うので、がんばろ。(正確には、いいアウトプットが出せたら結果適任、出せなかったら結果責任。)

       *

そーか、学校はもう夏休みなのかあ。
うっ、日付が変わってしまった。 (Reviced 7/18 21:50)

いじめというのは社会的現象としては、集団の中で異質な者を抽出し排斥することによって、集団の秩序を維持するということでもあったり。そこで「異質」というのは、勉強がとくにできる/できない、動きが、身体的ハンデがあるなど、普通とちょっと違うところがあるということです。それは何か弱さでもあって、そのどこに目をつけられるかは、実際の事情によって違ってきます。
いじめられる側が持つその弱さというのは、実はいじめる側の弱さでもあると指摘してる精神分析医もいます。育った過程での母親の愛情の欠落とか、甘えられなかったこととか。だから学校の先生に甘えられる生徒に、嫉妬を抱いていじめる生徒も出てくるのかも。いじめていれば自分の弱さを意識しないで済むし。
それといじめは1対多数になっていても、いじめの中心はあくまで一人なので、基本は多者関係ではなく二者関係とのこと。
また、いじめは誰かを犠牲者にする代償として秩序をつくる働きもするので、教師の中にはそれを利用して、教室内のいじめを放置したり、無意識に/それとなく意識的に いじめを推奨してしまうといったこともあるようです。
ふつうはいじめられる者がカウンセリングを受けることになるのだけど、ほんとうはいじめの中心人物(と家族)こそが問題を抱えていて、同様かそれ以上にカウンセリングが必要になるという指摘もされています。
母性・父性・野性・聖性・文化 妄想メモ
子どもには、母性、父性、野性、聖性の四つの〜性と、文化が必要だと思う。これら五つは、子どもが何かを得ることができる/与えられる「場」として想定している。たとえば「母性」は愛情とやすらぎが得られる場である。また「野性」というのもべつに粗暴とか野蛮という意味ではなく、身体と(広い意味での)自然とが交わる場として考えている。インキュベーター(incubator:孵卵器/保育器。ビジネス用語では起業家を育てる仕組みや施設のこと)のような意味合いのものとして想定している。そこで子どもが、必要となる栄養や滋養が得られる場ということだ。(ただし、必ずしもおいしいものとは限らない。なかにはレモンのように酸っぱいものもある。)
母性と父性と文化というのは何も目新しいものではないし、ピックアップできるキーワードもほかにあると思う。たとえば「知性」というものも含められるかもしれない。ただ、あまり多いと当方の脳ミソの短期記憶バッファーからオーバーフローしそうなので、やめておくことにする。
たぶんバランスの良さそうな人というのは、それらの栄養のバランスがいいということなのではないかと思う。ただし、それらを過不足なくパーフェクトに得られる人間などはいない。それぞれ栄養の量や質も異なり、生れついたものも合わせて、その人の個性となって表れるのだと思う。

これら五つは、相互に関連しあっていることが多い。
父性は別に父親というわけではなく、「父」のことなのだが、それは社会の規範として子どもに何かを働きかけるものであったりする。母性が子どもを抱きとめる手だとしたら、父性は子どもの肩を抱いて、間違った方向に進まないように導いたり支えたりする手ともいえる。だからその担い手はべつに実際の父親でなくてもよく、母親だったり、祖父母だったり、あるいは近所のおじさん・おばさんやお兄さん・お姉さんだったりもする。学校の先生もそうだ。それらの登場人物は同時に母性的でもあったりするので、父性と母性とが対立的な関係にあるというわけではない。
文化は、ときには父性として現われることもある。たとえば教育というのは、父性と文化が重なる領域にあると思われる。文化は高度消費文化というかたちで、子どもたちの行動原理にも浸透する。したがって子どもが消費文化に振り回されるあやうさもある。また文化が貧弱だったり偏っていたりすると、子どもが享受できるものも同様に貧弱で偏ってしまう。
野性は子どもの生きるエネルギーに関係していて、それとのかかわりは必須なものだ。子どもは外の自然などのなかで遊ぶとき、野生の子となる。そして自然を通して野性を吸収できる。もっとも、雨の日もあるので、べつに家の中で一人遊びしていてもいいし、「物語」を読んで間接的に野生に触れることもできる。思うに「秘密基地」というのは、土地開発から取り残された山や林や河川敷といった場所に子どもたちが見いだした、近代的風景の外部にある野生(現実界)なのかもしれない。
未開社会やかっての日本の社会では、子どもは一日中ほかの子たちと外の自然のなかで遊び回り、日が暮れてきたら家に帰ってご飯を食べて寝る、という生活をやっていて、そうして少し大きくなったら、リミナリティを経るなりして、大人の世界へと移されて行った。日本の社会では遊んでばかりいたわけではなく、将来に備えて寺子屋で読み書きそろばんを習っていた。でも子どもは、将来大人や国民になる途上の「小さな大人」でも「小国民」でもなく、子どもであることじたい価値のあるものとされていた。
ところで、エディプスってべつに母子密着の話じゃないと思うけど、母と子の癒着に切断を入れるのは、父親の介入だけでなく、外で遊ぶのが楽しいからというのもあったりして。つまり「父」ではなく「野生」による切断とか。(w)

一般に野性と文化は対立関係にあるが、相互に重なり合う部分もある。たとえば「食」に関しては、野性と文化の両方がかかわってくる。食べるということは、自分の身体に自然界のモノを取り入れることなので、野性に関係してくる。そして料理されたものを作法に則って食べるわけだから、当然文化とも関係している。
聖性は母性と同じく、子ども自ら獲得できるものではない。かっては母性からも父性からも独立して付与されていたものだ。
関連して、「GYROS」という雑誌の2号で、子どもに関する特集をやっている。そこで聖性についても取り上げられている。
「GYROS」#2 ― 特集 子どもの反乱
http://www.bensey.co.jp/gyros/
比較民俗学者の諏訪春雄氏単独編集による雑誌。同じく民俗学の大塚英志氏が始めた『新現実』とは雰囲気がだいぶ異なる。(現在は #3「国文学は自己変革ができるのか」が出てます。)
編集後記で諏訪氏は、この特集のコンセプトとして次のようなコメントを記す。
――――――――――――――――――――――
本稿に掲載された多様な論考を読み解いていくための最も重要な鍵は、子どもを大人の未成熟な存在とかんがえるか、子どもを大人とは異なる独自の存在とかんがえるか、である。子どもを大人になりきれない不完全な存在とかんがえる考え方を助成してきた大きな原因は、近代の児童心理学にある。児童心理学は発達心理学の一分野であり、その根本には、未成熟から成熟へむけての発達という考え方がある。この考え方じたいがまちがっているわけではないが、子どもが大人と切りはなされた独自の存在であるという視点をわすれさせてしまったことに問題がある。
民俗社会では、子どもは成人とは異なる特殊な存在とみられ、その扱いには細心の注意がはらわれてきた。この伝統的な子ども観にひとまずたちもどって、そのうえで近代の子ども観の有効性を検証していくこと、それが、本特集のねらいである。(諏訪春雄)
――――――――――――――――――――――

これは同誌にあった、菅野盾樹氏の「いじめ――教育の試金石」の主張にも通底している。菅野氏は学校での「いじめ」に関して、<学校>というのが企業や病院などと同じゲゼルシャフトであり、典型的な機能集団として<運営>されているところにも問題の根があるのではないかみる。
――――――――――――――――――――――
もちろん問題は<運営>の社会的現実形態にある。いじめの問題に関するあらゆる議論を、学校は機能集団ではあるが「単なる」機能集団ではないことの確認から始めるべきではなかろうか。子供たちが学び育つ場としての学校――誤解を恐れずにいえば、それはある意味で教会や寺院に似ている――を近代社会の表徴を帯びた「運営」その他の観念の系列にまるごとゆだねてはいけない。<もうひとつの学校>のビジョンを下地のように内包することのない学校観を温存する限り、いじめに関するあらゆる言説は空語に過ぎない。(菅野盾樹)
――――――――――――――――――――――

その<もうひとつの学校>というビジョンについては具体的に説明されていないが、「ある意味で教会や寺院に似ている」ということは、おそらく<聖性>にかかわっているのではないかと推測する。
かっての民俗社会で子どもが、「神の子または神と人との中間の存在であった」(諏訪春雄)のは、子どもが神の依代であったのと、成人する前に死んでしまう子どもが多かったからとされる。そうして子どもに聖性が付与されるわけだが、今の「脱魔術化」された近代社会でそれを主張するのは難しいかもしれない。では、どういう文脈を考えればいいだろうか。
 
あるロシアの建築家が「子どもというのは異教徒のようなものだ。とんでもないものを崇拝していたりする」と言っていた。それは子どもへの畏敬の念を込めた言葉なのだが、今までの教育や学校というのは、その異教徒を単に啓蒙して改宗させるということだけを目的にしていたように思える。
NHKの「ようこそ先輩」という、各分野の著名人を母校の小学校に招いて、特別授業をやってもらうという番組がある。なかでも見ていておもしろいと思うのは、教えたり考えさせたりする授業ではなく、こどもの才能を巧みに引き出す授業だ。そういうのを見ていると、こどもは編集する能力に非常に卓れていることが分かる。とくにデザイン系と俳句や短歌などがいい。俳句や短歌は創作でもあるけど、素材をもとにした編集でもあるので、リズムにのせてつくりやすいのだ。また、デザインにはセンスやオリジナリティが必要だが、編集の入ってるものは上手につくる。詩は創作能力の有無にかかわるので、世界の見方がそもそも隠喩的な小学校の低学年ならともかく、高学年になるといまいちだ。べつに詩ではなくてもいいものを、詩らしいものにして書いてしまう。オリジナルなものの創作は、誰にでもできるものではないのだ。コミケに出すマンガにしても、オリジナルではなく既存のマンガやキャラクターの編集が多いのも、そういうことなのだ。
オリジナルの創作はしんどいけれど、編集による創作なら誰でもできて、誰でも遊べる。とりたててデータベース参照などと言わずとも、それこそポストモダンに特徴的なやり方だ。

思春期に入るあたりで子どもは変わる。それまで世界とはどちらかというと受身でかかわってきたのが、編集という手を使えるようになって、小さくとも世界をつくれるようになるのだ。それは異教徒としての子どもから、編集・創作者としての子どもへの変貌でもある。その他者性と才能のどちらにもたいしても、大人はもっと注目してもよいのではないだろうか。

ところで、民俗社会では子どもが特別な存在で、その扱いには細心の注意がはらわれてきた、というのはどういうことだろうか? おそらくそれは今風にいえば、子どもが傷つきやすい(vulnerable)存在であることに留意することだと思う。(これはなにも子どもにかぎったことではないのかもしれないけど。) そのためには、なるべく否定をしないことが肝要ではないかと思う。「否定」はのちのちかなりネガティブに効いてくるからだ。

また本号には、「ムカつき、キレる子どもを救う『食育』のススメ」(吉本直子)という、子どもと「食」にかんするレポートもある。いま「食育」は官民あげてのキーワードになっているが、ここでは食事や睡眠や排泄などのおよぼす子どもへ影響について語られている。
そのなかに、中学受験の塾講師に「点数がぐんぐん伸びていく子の共通点」について訊ねたときの返答があり、とても興味深かった。
――――――――――――――――――――――
ベテラン講師はしばらく考えてこう答えた。
「そうですね……どうしてそうなのか理由はわからないんですけど、食べるのに意欲的な子が伸びますねえ。いえ、単に食べる量が多いということではなくて、とにかく食にたいして貪欲で好奇心が旺盛っていうか、何でも食べてみよう、という意欲のある子どもは、まず間違いなく伸びていくんです。反対に、食が細くて食べず嫌いをするような子はちょっと……」
――――――――――――――――――――――

そして吉本氏は「食べることに意欲的ということは、生きることに貪欲ということだ。」と結ぶ。やはり食と野性は関連しているようだ。

妄想メモ

2004年7月10日
妄想アイデア
子どもには、母性、父性、野性、聖性の四つの〜性と、そして文化が必要だと思う。
詳しくは後日。

妄想メモ ピン留め
人間の人格・性格・気質などをかたちづくっている因子や諸条件を拾い上げていったら、あたり前の話だけど、数え切れないくらいある。家族構成、家族の性格や考え方、遺伝子、親の職業や収入、住居環境、病気や障害の有無、性別、知能、言語能力、地域環境、風土や自然環境、友だち、学校の先生、時代環境、所属文化、テクノロジー、身の回りに起きる様々な出来事、……という風に。
それらのなかでも親との関係、とくに母親(いない場合はそれに代わる人物)との関係は、人間形成に大きく影響するとされる。(ただし、カンペキにいい親などはいないけど。)

そうした無数の要素によって人間がつくられたものであるという認識からは、(A1)どんなことであれ、人の考え方や行為にはそれなりの理由があるということ、(A2)人に責任のすべてを負わせることはできない、という考え方が導かれると思われる。(寛容というのは、これに関係しているような気がする。)
ところがそれは、(B)人間は自分自身の行為に全責任を持たなければならない、という考え方と齟齬をきたすことになる。
その両方を選ぶと、座りの良くないアンビバレンツな状態に置かれてしまう。それで測定しづらい前者の(A)群はネグられて、(B)の責任だけ問われることが多くなる。でもあり方としては、裁判のケースのように倫理や責任が問われ、加えて情状酌量も勘案されるというのが望ましいかもしれない。そうして落としどころが探されるというのが。
たとえば嘘をつく頻度が並み外れて多いような人は、そこに至るまでにそれなりの事情(個人史)があるとも考えられる。とはいっても、嘘をつかれる側にとっては、そんな事情はどうでもいいことかもしれない。さらには、嘘などよりもっと直接の被害を受けるケースでは、加害者の個人的履歴や事情などは視野に入ることなどないかもしれない。
そういう「事情」は、加害者と被害者という関係や対立する二者の関係では、あまり考慮されることがない。ふつう二者間での対立やそれによる被害の拡大を食い止めるには、利害の対立軸や枠組みの外にいて、メタなレベルからものを見ることができ、双方の事情が分かる第三者があいだに入ることが必要になる。(*1)
1. 子どもが父親から叱られるとき、子どもがあまり傷心しないようにかばう母親の役割もそれに近い。ただし子どもと母親が結託して父vs母子連合の対立になったり、父母vs子どもというのはまずい。後者の場合、祖父母などが介入できたらいいのだけど。

第三者や調停者(*2)が外部にいない場合は、けっこう困難さを伴うけど、自己の内につくるしかない。調停者の役割は、その人間を今現在成り立たせている諸条件を拾い出し、もう一方に提示して理解の手助けをすること、そして二者関係がのっぴきならない状態になっているときは、あいだに楔を入れたり、水をかけたり(w)、あるいは土俵を形成している円を消し去って、勝負というゲームじたいを無効にしてしまう、といったことにあるのではないだろうか。ちょっと大袈裟な書き方をしたけど、これは、難儀な人(*3)の対応や、例の長崎の事件(*4)にも関係してる。
2. 『風の谷のナウシカ』に、「調停者」にして「裁定者」である巨神兵(オーマ)が登場する。強力な破壊力をもった巨神兵と違い、ナウシカは非力だったが、争いの調停者として奔走した。
3. 他者を振り回す、自己愛・自己中から彼岸に住むパラノな人までいろいろ。
(ちなみに私はちょっと分裂が入ってるかも。キャラがマチマチだったり。w)
4. 加害者の女の子は、いろいろ事情があって被害者の子との二者だけの世界に入ってしまい、そこで「否定」されて最後の砦(自分の居所)を失ってしまったという印象を受ける。


(あくまで妄想メモです)

カモとカモメ

2004年7月4日 趣味
最近、人間さんとの付き合いが希薄になったせいか、動物さんネタが多い。w  ということで今日も。
自転車で市内中心部を流れる川まで行った。カモメが川原の石の上で羽根を休めていたので、しばらく眺めていた。内陸の都市にカモメが何羽か住み着くようになったのはここ最近のことで、卸売り市場から出るゴミ(残飯)狙いで集まったらしい。カモメはカラスと違って、飛んでる姿が美しい。体の色も白と黒で対照的だけど、雑食性で何でも食うところは似てる。カモメは小さな鳥も食べるのだ。だからカモメが増えて、生態系に影響を及ぼすことを心配してる人もいる。
で、川でカモメや飛び回るセキレイを見ていたら、カモの親子がゾロゾロと川下の淵の方からやってきた。八匹いる子ガモは親よりもひと回り小さいけど、羽根はもうウブ毛ではなく、親とそっくりの色になっていた。その親子連れが、カモメのいるほうに近づいて行ったので、大丈夫なのだろうかと少し驚いた。カモメは、海辺にいる小さい海鳥を捕食対象にしてるくらいだから、カモの子も危ないんじゃないかと。
でも何ごともなく、カモの親子はカモメの近くを通り過ぎて行った。子ガモが雛鳥だったら、たぶん襲われていたと思うけど、親ガモは子ガモの成長度合いから大丈夫だろうと見切っていたのだろうか。それとも、カモは内陸の川や池や湖を生活空間にしてる水鳥なので、海鳥のカモメのことをよく知らないのかな。白鳥の仲間くらいに思ってて。
よく分からないけど、孵化して間もないカモの雛鳥にとっては、カラスも怖いけど、水陸両用のカモメはもっと恐ろしいんじゃないかという気がする。
でもそのカモメも、大鷲に捕まって食われることがあったりするようだ。冬、エサの少なくなった時期の知床の話ですけど。

北海道奥地探検

2004年7月1日
私んとこもアクセス5000突破。わーい、おめでとー。& ありがとうございます。

そういえば、6年くらい前だったか、ネットでサイト(ホームページ)を始めたころ、一日のアクセス数が1つだけという日がけっこうありました。(遠い目)

       *

 今日、北大の生協書店に行ったついでに、北大博物館を見てきた。(見学料無料) 大学での研究テーマの博物館でもあるけど、ここの大学に関する博物館でもあったりする。
 大学史の展示コーナーの大きなパネルに、札幌農学校時代にクラーク博士が学生12名を連れて北海道探検をしたときの記録が載っていた。ふつう展示のパネルってあまりおもしろくないのが多いのだけど、簡単なイラストも描いてあり、ストーリーもおもしろかった。当時、鉄道はもちろん、道路網も発達していないので、丸木舟で川を遡(さかのぼ)って北海道の奥地まで入って行くのだ。そして途中のエピソードがいろいろ。測量をやっていた人間が川に落ちてしまい、案内人(アイヌかな?)が川に飛び込んで助けたとか、大雨が続いて一週間身動きできなかったとか(こっちでそんなこと経験したことはないけど、昔はあったのかな?)、アンモナイトの大きな化石を発見したとか。また、奥地は無人というわけではなく、途中集落があったり、屯田兵の家の軒先でテントをはったりしてる。そしてなにより、熊がよく登場する。(きっと昔は熊だらけだったのだろう。) 熊がテントを破ろうとしたとか、崖っぷちの道をへばりつくように進んでいたら、先の方に熊が現われて、しばらく動けないでいたとか。(イラスト付き) そのほか、川で鱒(マス)を捕って食べたとか、短い説明文のなかにいろいろな出来事があって、最後は、無事大学に戻ったら、みんなが正門のところで出迎えてくれたという場面で終り。
 この話を映画やドラマにしたら、きっとおもしろいだろうなぁと思った。

 ところで、むかし北海道はほとんどが原生林か湿地で、開拓者たちは森を切り拓(ひら)いて農地にして住み始めるのだけど、そうするとそれまでいなかったスズメとカラスが、どこからともなくやってきたそうです。家スズメとカラスは、やはり人間の営みと結びついてるんですね。
ってどうよ?
野良猫やカモにエサをやる人と、なんか違う。動物が好きという感じがしないのだ。

カラスもハシボソとハシブトでは違う。ハシボソよりひとまわり体の大きいハシブトガラスは、けっこう猛禽類に近い。体の小さい鳩を襲って食べるとがあるし、巣立ったばかりでまだ素早く飛べないスズメの幼鳥も襲われる。また、道庁の池にいたカモの子が、カラスに襲われて全滅したこともある。それに私の買ったばかりのパンまで盗んだりするし。まあ、個人的恨み(w)はどうでもいいけど。
カラスもいちおう野鳥なので、他の野鳥と同様に、勝手に捕獲したり殺したりすることは禁止されている。でも、ゴミを散らかしたり、他の鳥の幼鳥を襲って食べたりといった不愉快感は、多くの人間が暗黙のうちに共有しているものと思ってる。だから、あえて害を加えたりはしないけれど、援助したりもしないという関係が望ましいのだ。

カラスにエサをやる人間って、おそらく動物が好きなわけではなく、エサをやっている自分が好きなのだ。カモと違ってふつうエサをもらえない哀れなカラスに自分自身を投影してるか、最低な自分でも偉そうにできる相手を見つけているようにしか見えない。
今日、公園の池で見かけた年配の貧相な男女がそんな感じだった。ベンチで本を読もうと思ったら、池の向こう側でカラスにエサをやり始めたので、嫌な気がして帰ることにした。
ある大きな公園では、カラスにエサをやる人間とそれを阻止しようとする公園管理人とで、イタチごっこが繰り返されている。(中島公園)


ところで、早朝、カラスと一緒にゴミを漁ってる猫を見かけたことがあったけど、それってどうよ? 猫としてのプライドはないんか? ほんとうはカラスにとって猫ほど恐ろしいものはないはずだし、ふつう猫との距離が1〜2mくらいだったら、たぶんカラスは逃げ切れない。でも年老いた動きの緩慢そうな猫だったので、賢いカラスのほうで危険はないと見切ったのかもしれない。それとも猫とカラスは、ゴミの袋破りと中味を引っ張り出す共生関係だったのかな。
猫にはもっとがんばってほしいです。 まあ、人に・・・じゃない、猫にがんばれと言う前におまえががんばれって感じですけど、はい。

ADOLESCENCE

2004年6月27日
(前)思春期の少年少女がらみで起きた暴力事件に関する米国での調査研究論文のダイジェストとアブストラクトの翻訳。あくまで米国の事例です。
(別のほうのwebLogの内容を転載)

■ HealthDay (June 24, 2004)
http://www.healthday.com/view.cfm?id=519324
医療・健康関連のニュース配信サイトで、一般向けに関連情報をダイジェストして提供している。


少女たちは男の子と違ったケンカをする
十代前の少女たちの暴力は仕返しが主要因――調査により判明


フィラデルフィア子ども病院の調査研究によると、十代前(preteen)の少女たちの間でのほうが同年齢の男の子たちよりも、以前に起きた争いが暴力行為の火に油を注いでいることが多い。

調査対象は、人間関係から生じた暴力(*)によるケガの治療のため、病院の緊急医療部門に来ることになった 8〜14歳の子ども190人。
 * (訳注) 強盗傷害や性暴力などの事件ではなく、個人的な人間関係から生じる暴力沙汰が想定されている。

男女ともケンカの理由は、「からかわれた」「バカにされた(**)」というのが最も一般的である。また少年同士の事件とは対照的に、少女のあいだでの衝突は、しばしば以前に起きたケンカの再発であることが多い。
 **(訳注) 侮蔑、軽視、見下し

少年たちとくらべて、少女間での暴力沙汰は家で起きやすく、その場合家族が止めに入ることが多い。

調査によると、少女が一人以上巻き込まれている事件では武器が使われる傾向があり、その際少女たちは少年たちよりも武器――棒や石などのような鈍器――によって傷つけられがちであることがわかった。

調査対象190人のうち 5人が、ピストルなどの銃による負傷を受けている。

この調査は、"Arch Pediatr Adolesc Med." 6月号に掲載されている。

「子どもを巻き込んだ個人間の暴力事件についてはさらに調査することが残っているけど、この研究は親や介護者に情報を提供するものです」と、筆頭発表者で緊急医療の医師 Dr. Cynthia J. Mollen は、予め用意された声明の中で述べる。

「例えば『バカにすること』が暴力を引き起こす原因として顕著に見られるので、子どもと親は、相手からの侮辱に非暴力的な態度で対応するテクニックを学ぶことによって、きっと得られるものがあるに違いありません。

加えて、少女たちは暴力の原因となる仕返しを受けやすいので、医療担当者は傷ついた少女たちを、安全性への懸念からも仕返ししたい気持ちからも遠ざけて保護することができるでしょう。

暴力行為におけるジェンダー差の理解は、この年令グループの子どもたちに対する、学校ベースやコミュニティでの調停プログラムのデザインにきっと役立つにちがいありません。」と彼女はいう。

 
■ ARCHIVES OF PEDIATRICS AND ADOLESCENT MEDICINE
http://archpedi.ama-assn.org/cgi/content/abstract/158/6/545
小児思春期医療分野の専門家たちによる(論文発表前の)評価用 peer-review のネット・アーカイブ。


思春期の少女と少年の、対人関係に由来する暴力事件の特徴

背景:これまでの多岐にわたる研究によって、少女たちが人間関係から生じる暴力に結びついているということが明らかにされてきた。しかしながら、少女がらみの暴力事件に関するこれといった見解は、ほとんど知られていなかった。

目的:前思春期や思春期での人間関係に由来する暴力事件の特徴を述べるとともに、少女がらみの事件と少年だけが関与する事件との有意差を判定することを目的とする。

調査計画:8〜14歳、クロス・セクショナル分析。(以下略)

結果:190の患者を調査対象とした。58件(31%) が少女、74件(39%)が少女を巻き込んだ事件、156件(82%)が平日に発生、127件(82%)がケンカと分類され、140件(74%)が顔見知り、93件(49%)が学校で起きている。少女がらみの事件は、少年だけによる事件よりも、家で起きる傾向がある(relative risk [RR], 1.6; 95% confidence interval [CI], 1.0-2.5)。 少年少女とも、「バカにされた」と「からかわれた」を争いのいちばんの理由として述べている。少女がらみの事件では、概して「以前の争いの再発」に関係していることが多く (RR, 6.4; 95% CI, 1.9-21.5)、大人の介入によって終らせられる傾向があり(RR, 1.7; 95% CI, 1.1-2.6)、(言葉だけでなく)物理的に争いを止めさせようとする家族がいる(RR, 3.7; 95% CI, 1.5-9.1)。

結論:前期思春期や早期思春期の少女を巻き込む暴力事件は、以前に起きた出来事の継起になりがちで、また家庭を巻き込んだり家族の仲裁を招くことが多い。暴力により傷ついた少女たちにたいして医療専門家は、安全性の懸念からも仕返しをたくらんだりする意図からも遠ざけて保護する必要がある。そして今後二度と事件が起きないように、家族も積極的に関わってゆくことが要請される。

       *

暴力沙汰に銃まで登場する米国でのケースが、文化の異なる日本にそのまま当てはまるとは思えないけど、調査で指摘されている「バカにされた」というのが衝突の原因になってるということと、少女の場合は以前のトラブルが事件の再発につながっているという点に注目。

6月23日な日記

2004年6月23日
あれ、M氏さんの日記が消えてる。面白かったのに・・・残念。でも大学受験があるようなので、勉強に専念したほうがいいのかも。いずれ機会があればまた復帰キボンヌ・・・って、見てないんかもしれないけど。

       *

今日も平和というか、怠惰というか、何もないというか、そんな日。おわり。

今日のつまらん日記

2004年6月20日
天気が良かったので、近くの公園に行き、池のそばのベンチに座ってしばし読書。20x40mくらいの楕円の池にはカモ(マガン?)が3羽。
しばらくして(人間の)親子連れがやってきて、遊んでいるうちに小さい男の子がサッカーボールを池に落としてしまった。父親は木の枝で取ろうとするが、残念ながら岸から離れてしまったボールに届かない。子どもが、「カモに取ってもらえば?」とか言ってる。w
確かにカモはよく人間からエサ(パン)をもらってるので、ていうか、少し前にも他の人からエサをもらってたし、こういうときこそ人間に恩返ししても良さそうなものだけど、鶴じゃないから無理か。
実際カモは知らんぷりでした。まあ、得体の知れない奇妙なものに近づきたくないという気持ちは分かるし、それに人間から何かを期待されるなんて夢にも思ってないことも分かるけど。
(ちなみに、哺乳類なら場合によってはボールを岸に届けてくれるかもしれないと思ってます・・・説明は省略しますけど。)

で、風のせいか、ボールは真ん中にある小さな島の近くまで流されてしまい、そのうち親子もあきらめたのか、どこかへ行ってしまった。それから本を読んでいて、ふと見ると、ボールが岸の近くまで移動してた。それでそこまで行って、木の枝でボールを池の中央の方まで押し戻し・・・うそ、それじゃ意地悪すぎ。そうじゃなく、木の枝で引き寄せて、池から掬い上げたのでした。そしてボールを木の枝と一緒にベンチの上に置いて戻ろうとしたら、ちょうど親子が戻ってくるところで、「どうもありがとうございました」と声をかけられた。
人から感謝されたのはたぶん今年になって初めてのことなので(その逆のことはあったような気がしないでもないけど)、こうやって書いてみました・・・んでもなく、いや、子どもが「カモに取ってもらえば?」と言ったのがおもしろかった。

それにしてもカラスのうるさい公園だ。

物語と二重螺旋

2004年6月16日
街路樹として植えられているニセアカシアが白い花をいっぱいに咲かせ、甘い香りがあたりに漂っている・・・、と書こうと思っていたのだけど、今日チャリで走り回ったら、花は色褪せてるか散ってるかしていて、ちっとも匂いがしなかった。
こんにちは。こちらは梅雨もなく、いまが一年でいちばんいい季節です。

さて、12日の日記に、小さい子供はそのままファンタジーやホラーの世界に生きてるので、そういうのは必要としない、というようなことを書いたけど、考えてみれば、というか考えてみるまでもなく、子どももファンタジーや童話などの「おとぎ話」が好きだ。
ということで少し訂正。

子どもから大人まで物語が好きだ。物語(歴史)抜きには自己を定位できないのかもしれない。ただしよく言われるように、物語には語りえぬものがついてまわる。思うに、それが世界の中心・自己の中心にある未踏の空白部分なのではないだろうか。ひと(あるいは物語の主人公)はそこに向かって、螺旋を描いて疾走を続ける。そしてもしかしてついには中心に到達できることがあるかもしれない。でもそこは王国でも約束の地でもなく、とどまることのできないひとつの転回点なのだ。そこで裏返って新たに生まれ変わるための。そして翻って、こんどは外へと向かって螺旋を描きながら疾走を始める。物語、あるいは生きてゆくというのは、その永続的な反復なのではないだろうか。その疾走はまた、後背部に渦流(カルマン渦)を生じさせる。そうして運動が残した大きな螺旋(渦)と小さな渦の軌跡によって、物語やその他の作品や制作物がかたちづくられ、またそれが生きている痕跡にもなるのではないかと思う。

―――
古代ケルトの二重螺旋(double spiral)文様
http://123celtic-irish-jewelry.com/mall/celticart/Symb07.gif

カルマン渦(→:風・流体の流れ, @:渦, ■:物体・人)
   → →
―→■ @ @ →
―→■@ @  →
   → →
iCFD 計算流体力学研究所 (Two-Dimensional Karman Vortex)
http://www3.icfd.co.jp/examples/karman/kr2.htm
川の流れにある障害物の後方にできる小さい渦や、高い山に風があって後方にできる乱気流などもカルマン渦。
――

中心(あるいは外)に向かう運動は、自己の意志や希求だけによってなされるわけではない。じっさいは、物語の設定やシステムや他者とのかかわりなどによって、どういう展開になるかはわからない。例えばカフカの小説では、中心点で(おぞましい)変身をしたところから突如物語が始ったり、囚われの状態から外に出口を求めてゆく途中で倒れたり、あるいは中心に向かおうとしてもなかなか到達できなかったりする。中心部は、迷路になっていたり、なにか強い磁場が働いていることもあるのだ。

       *

まあ、隠喩とイメージの遊びのようなものです。

オオカミ少年

2004年6月12日
何か騒ぎ立てたけど結局何でもなかった、というパターンでは、だいぶ以前の富士山が噴火するっていう気象学者(?)の話とか、ノストラダムスの大予言で人類が滅亡するというのがあったような気が。

 
で、まあ、自分でもそんなオオカミ少年やったりとか、そんなつまらない話。
「犬に3歳児並み言語理解力、飼い主との“会話”裏付け」
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20040611i403.htm

前に3歳のころ近所のガキん子仲間と線路に石を並べてて見つかって・・・という話を書いたことがあるけど、これもその頃の話で、でも記憶にはないのだけど、近所にいた野良犬と仲が良かったという話を母親から聞いたことがある。家にもよく連れてきたらしく、その犬と一緒に写っている写真を見ると、小さい私よりも小さい小型犬だった。でもあまり犬に頬ずりしたりするのでよくノミが移り、親は困ったものだと思ったらしい。それで父はその犬を、動物を安楽死させる施設に連れて行ったとのことだった。(そのことはだいぶ大きくなってから母から聞いた。酷い話だ。) それで近所からその犬の姿が見えなくなったので、3歳児の私は「ワンワンいない」と泣きべそをかいていたとか。嗚呼何と可哀想な話でせう。

で、もし犬に3歳児並み言語理解力があるなら、3歳児とはちょうどいい組み合わせなのかもしれないと思ったのだ。
小さい子どもは物事の区分や自他の境界があいまいだ。世界は三次元のデカルト座標ではできていない。世界は生きているもので満ち溢れている。なにせ、動くものはたいてい生きていると思っている。また人形やぬいぐるみなど、生き物のかたちをしたものも生きている。風にざわめく木々も、空の雲も生きている。
おそらく画家のゴッホは、その感覚をずっと持ち続けていた。糸杉も星も畑の麦も絵のなかではゆらめいて生きている。ゴッホには区別や差別といった感覚がない。おそらく幼児の動物などにたいする感覚も、それとおなじと思う。
だが子どもは小学校の中あたりから、隠喩の世界から次第に事実カテゴリーの世界に移行する。それとともに生き生きとした感覚も失われてゆくが、それは成長のプロセスでもあり、また学校教育など通した身体の社会化とも平行している。知識に価値があるとされるので、とくに男子はシッタカ君への道を歩み始める。また自我の発達と自他の分離によって、対象との関係の再編をせまられることになり、とくに女子は友だちとの関係づくりにエネルギーを費やすことになる。
NHKの「ようこそ先輩」などを見ていると、小学生も高学年になると平均して書いてる詩がおもしろくなくなる。それでも短歌や俳句となると、急に才能を発揮したりするのでおもしろい。
ファンタジーやホラーというのは、疎遠となってしまった世界との生の関係を取り戻すためにつくられたものだ。小さい子供は、まんまファンタジーやホラーの世界に生きてるので、そういうのは必要としない。風にざわめく木々はなにかを語りかけているし、犬とジャレているとき子どもは犬になる。
トールキン『妖精物語の国へ』参照。
 (左のmyテーマ[読書カテゴリー]に感想文あります。)


まあ私の計画性のなさはまるで子ども並みですが…

世界の端っこ

2004年6月10日
山松ゆうきち
http://www.chukai.ne.jp/~gallery/room-yamamatsu.htm

山松ゆうきちの描くマンガは、「大きな物語」を志向しがちな少年・男性向けマンガの対極にある。
登場人物たちは、世界の中心で愛や希望や連帯を叫ぶのではなく、世界の端っこで生活や生存を賭けて何かを叫ぶ。例えば競輪の車券を握り締めながら「まくれー!」とか。
私は山松ゆうきちのマンガを読んで、世の中には個人の意志ではどうにもならないものがあることを知り、人生に希望を持つことをあきらめました。 うそ。

うそをついてはいけませんね。
ところで神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、「誰も自分の思ったとおりの人生を歩む者はいない」ということを言っています。これも別に人生には希望がないということではなく、人生にはいろんな縁や関係や要素がかかわってくるので、そうそう思い通りには行かないものだということです。他のところで、自分の内で燃えさかる炎に忠実であることを勧めていますが、つまりそういうことです。

ちなみに、どーでもいいことですが、私は尻に火がついて燃えさかりそうです。 まあ、自分で火をつけたようなものですけど。
しばらくネットから離れる予定です。

きょうの駄日記

2004年6月9日
■ 6月6日の補足
「いじめは、社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではない。」という人もいます。ただ、いじめの起きないない職場や学級もあるので、すべて社会現象として理解することはできないと思う。機能的組織が孕んでしまう問題と、その中で個人の持っている心理的偏りが出てしまうのと、両方あるといえる。

素だけでやってる人というのは、たぶん天然100%な人のことだ。また、平然と裏表を使い分けられる類の人間も、特にたくさんいるわけではない。多くの人は素のほかに、状況に応じて対応を変えながらやっていて、上記ふたつの間に分布している。

<集団のメンバー構成>
自然度大

|■ 天然に素
|■■■ 自然に素
|■■■■■■■■■■■■ 素+裏表使い分け(どうにも転ぶ)
|■■■ 自然に裏表使い分け
|■ 病的に裏表使い分け

裏表度大

会社などでも、よく働く人間が20%、働かない人間が20%、どっちにも転ぶ人間が60% という構成になっているとされる(パレートの法則)。中間の60%がどちらにつくかによって、業績のいい会社かそうでないかに分かれるので、いかに中間層のモチベーションを上げるかが問題とされる。
ちなみに役所というところは、(もちろんすべてではないけど)中間層が働かないほうにつくケースが多いので、「役人はさっぱり仕事してへんやないか」と言われることにもなったりするようです。(役所や企業などでは、正しいことを主張していじめられることもあったり。)
尚、働く人働かない人は必ずしも固定というわけではないです。知り合いに、「よく働く営業マンばかり集めて新しい営業部隊を作ったら、こんど働かないやつが出てきたんだから」とこぼしてた人がいた。

いじめは、ふつうは天然か自然に素の人がターゲットにされることが多いけど、裏表の使い分けが酷くて嫌われてる者がいじめられるケースもありそう。いずれにしても、人数の多い中間層がいじめる側について、いじめという構図ができあがるのだと思う。

人間関係はいろいろとたいへんです。
できるだけ人間関係を作らないほうがいいです・・・って、うそうそ! それじゃ面白くないし、生きていくのも大変です。人間関係は、いつの間にかできてしまってることが多いけど、自ら選んで作っていくことも大事かもしれません。言い方がエラそうですけど。ていうか、言ってることとやってることがカンペキに矛盾してますが。 ちなみに私はリアルでの人間関係がかなり希薄になってきました。(笑…うしかない)
いじめっ子のその後について (Reviced:6月7日19:00)
2ちゃんに、いじめっ子がその後どうなったかというスレがあった。読んだら、概ねいい人生は送れてないようだった。
いじめを熱心にやる人間には、人格的な問題のほかに、裏表のある二面性や功利性が特徴的に見られると思う。

(以下は単なる大雑把な私見です。)
ふつう人はたいてい、相手によって対応の仕方が変わる二面性や多面性を多少は持っている。また、自分の利益になることを追い求める習性も当然持っている。けれどもいじめっ子は、ふつう以上の裏表二面性と功利性に生きている。なんせ、いじめる行為を正当化するためと、公式にはいじめをやっていないと否認(つまりウソ)しなければならないので、顔をはっきりと使い分けることになるのだ。またいじめは、自分に都合のよい状況を作り出したり、快楽を得たりということにも結びついている。要するに、人を踏み台にして功利的な生き方をしていることになる。したがって、モラルや正義感も自らの内に持てないので、適正な自尊心も持ち得ないことになる。
「からかい」は「いじめ」とはちがう。ちなみに私はどちらかというと、からかいや突っ込みをやるタイプです。いえ、自分に都合のいい解釈をしてるわけじゃありませんよー。それに逆にからかわれることもあったり。「いじめ」と「からかい」との違いは、集団による排除、継続性、二面性、対称性、共感能力の有無などによる。それと、いじめは精神病理も入ってるので、笑いの質も違うのです。
そうした二面的な素と偽りの使い分けと功利性は、おそらく親子関係に由来している。親の倫理観はそのまま子どもに受け継がれるだろうし、親の愛情の欠如は子どもに何らかのネガティブな反応を生じさせる。またもし親が功利的な生き方に価値を見いだしていたら、子どももそれが価値だと思ったりする。
ただし、親と子どもが全く気質性格が異なってたり、兄弟でも全くちがったりすることはある。それはふつう誰もが、親子の二者関係だけでは生きていないということによる。
学校に限らず世の中でも、わりと素だけな人がいじめの対象になったりするように思う。素と偽りの二面性を生きる者にとっては、素だけで生きていられる者は妬ましいのではないだろうか。自分に欠けるもの――育ちの過程でのストレスのなさや、人から気遣ってもらって生きていることや、成績のよさ――などが妬みの対象にされるということです。
ただし大人の社会では、裏表のある人間は学校以上に嫌われる。もちろん上司にゴマをすったり、出世しようとして裏表を使い分ける人も少なくない。だけど、仕事の実力や能力も伴ってなければならないので、計算した立ち回りだけではやってゆけないのだ。
ただし実際は、表とは離れたところにお局様みたいのが棲息していたり、悪貨が良貨を駆逐するようないじめがあったりすることもある。でもそんな組織は腐ってるのだから、あまりストレスになるようなら、そしてもしできるなら、他に移ったほうがいいかもしれません。それができるためにも、何かのスペシャリストになっておくことが重要なのです。
それと、裏表の使い分けやゴマすりというのは、仕事ができないことの隠蔽でもあったりします。
従って、学校では裏表の使い分けや功利的な生き方で巧妙にやってこれた人間も、大学に入ったり社会に出たら・・・、たぶん、あまり良くない〜悲惨 までの分布のどこかに落ち着くことになるのではないかと思う。
素と偽りの二面性とかセコい功利性というのは、その人間を形づくっている骨格みたいなものなので、そう簡単には変われない。たぶんほとんどの人が一生そのままです。
でもふつうに素でやっていける人は、人間的に成長できるし、良い意味でも変われるんですよ。

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