叙事詩と小説
2004年2月4日 Web日記というジャンルと、「叙事詩・悲劇」(例えば『オイディプス王』『イリアス』『マクベス』など)や「小説」(あるいは「私小説」)との関係について。
まずは、キャリル・エマーソン「外言と内言――バフチン、ヴィゴツキー、そして言語の内化」(『ミハイル・バフチンの時空』せりか書房 に収録)からの引用。
小説と叙事詩との区別は、・・・多様な知覚された時間の質の――バフチン流に言えば複数の「時空間(クロノトポス)」の――あいだの関係なのである。叙事的語りは「絶対過去」に起こり、小説の時間は真に新奇(ノヴェル)であると述べるとき、バフチンは実は存在論的弁別を行っているのである。・・・時間を知らない世界について語るとき、われわれは必ず「叙事詩」しているのだという。
一方、時間を十全に体験する世界について語るとき、われわれは必ず「小説」しているのである。小説は叙事詩的全体性から疎外されている。しかしながら、バフチン的概念構成が結果するものは、孤独ではなく自由である。特徴的なことに、小説の登場人物は、所与の物語のなかで役割以上のものである自由を体験する。対照的に、叙事詩の英雄(ヒーロー)−主人公は主題(プロット)から切り離せず、その人生を生きる道はひとつしかない。
(中略)
一方、小説の主人公は、中世の舞台の道化に似ている。その役割は一時的なものであり、仮面は自己ではない。・・・この人間の複数の役割を考えから追い払っても、まだ残るものがある。あの余剰、自己と社会的規範との不一致、あの違った衣服に着替える能力、それが自由なのである。
小説家は故郷のない主人公、つまり発展する自由がある主人公を選ぶ。小説は作者にも発展する自由、言わば作者が自分の作品の平面で自分自身のイメージと戯れる自由を与える。
(キャリル・エマーソン「外言と内言」)
上のところの「叙事詩・悲劇」や「小説」を、「Web日記」と置き替えて読んでみるのもおもしろい。日記にも、その二つの傾向が見られるような気がする。あるいはWeb日記を私小説という日本独特のジャンルとみなしたとき、それはどちらに近いのか? ちなみに私小説では、自己は否定と肯定のあいだを揺れ動く。いずれにしてもWeb日記の場合、主人公は作者自身である。つまり自己言及のパラドックスもついてまわる。
叙事詩や悲劇では、主人公は作品のテーマを宿命として背負わされ、その輪郭をなぞるようにして歩きまわる。そして主人公が倒れて物語が閉じられたとき、その軌跡によって運命が姿を浮かび上がらせる。運命というのは因果関係の極だ。因果関係は時間を省略でき、時間を超えて主人公を宿命に結びつける。それが「時間を知らない世界」ということなのだ。
(ただしそれは、叙事詩や悲劇が小説に比べて劣るとかそういうことではない。詩や俳句・短歌が主語を消して書かれるように、自己やさらには人間を超える何ものか――自然の超越性や運命といったもの――を表現する形式ということです。)
過去にトラウマ(宿命)を背負った自己物語というのが、その叙事詩や悲劇に似ている。物語の閉じられて完結するかたちが同じなのだ。それは一般に精神分析やカウンセリングによってもたらされるものだが、ただしそこでは叙事詩や悲劇よりももっと単純な、トラウマ起源の直線的因果関係がベースになっている。もし叙事詩や悲劇であるなら(と言っては弊害があるかもしれないが)、当事者にとっては苦痛を伴っていても、一方でカタルシスをもたらすかもしれない。でも単純で決定論的な因果関係を反復させてしまうだけのストーリーでは、主人公も苦痛に苛まれるだけで、悲劇のヒーロー/ヒロインとなることはできないのだ。
たぶん叙事詩や悲劇形式も必要なのだと思う。けれどもその「固定された筋や役割」だけに縛られるのではなく、さらに可能性や自由を得るには「小説性の力」に頼るということも必要なのだろう。それはそう簡単なことではないかもしれないけれど、とにかく書き続けることだとは思います。(個人的には俳句や短歌もお勧めですけど。)
*
(リンクポリシーの通りこちらからは都合でリンクさせて戴きませんが・・・)ブックマークありがとうございます。
まずは、キャリル・エマーソン「外言と内言――バフチン、ヴィゴツキー、そして言語の内化」(『ミハイル・バフチンの時空』せりか書房 に収録)からの引用。
小説と叙事詩との区別は、・・・多様な知覚された時間の質の――バフチン流に言えば複数の「時空間(クロノトポス)」の――あいだの関係なのである。叙事的語りは「絶対過去」に起こり、小説の時間は真に新奇(ノヴェル)であると述べるとき、バフチンは実は存在論的弁別を行っているのである。・・・時間を知らない世界について語るとき、われわれは必ず「叙事詩」しているのだという。
一方、時間を十全に体験する世界について語るとき、われわれは必ず「小説」しているのである。小説は叙事詩的全体性から疎外されている。しかしながら、バフチン的概念構成が結果するものは、孤独ではなく自由である。特徴的なことに、小説の登場人物は、所与の物語のなかで役割以上のものである自由を体験する。対照的に、叙事詩の英雄(ヒーロー)−主人公は主題(プロット)から切り離せず、その人生を生きる道はひとつしかない。
(中略)
一方、小説の主人公は、中世の舞台の道化に似ている。その役割は一時的なものであり、仮面は自己ではない。・・・この人間の複数の役割を考えから追い払っても、まだ残るものがある。あの余剰、自己と社会的規範との不一致、あの違った衣服に着替える能力、それが自由なのである。
小説家は故郷のない主人公、つまり発展する自由がある主人公を選ぶ。小説は作者にも発展する自由、言わば作者が自分の作品の平面で自分自身のイメージと戯れる自由を与える。
(キャリル・エマーソン「外言と内言」)
上のところの「叙事詩・悲劇」や「小説」を、「Web日記」と置き替えて読んでみるのもおもしろい。日記にも、その二つの傾向が見られるような気がする。あるいはWeb日記を私小説という日本独特のジャンルとみなしたとき、それはどちらに近いのか? ちなみに私小説では、自己は否定と肯定のあいだを揺れ動く。いずれにしてもWeb日記の場合、主人公は作者自身である。つまり自己言及のパラドックスもついてまわる。
叙事詩や悲劇では、主人公は作品のテーマを宿命として背負わされ、その輪郭をなぞるようにして歩きまわる。そして主人公が倒れて物語が閉じられたとき、その軌跡によって運命が姿を浮かび上がらせる。運命というのは因果関係の極だ。因果関係は時間を省略でき、時間を超えて主人公を宿命に結びつける。それが「時間を知らない世界」ということなのだ。
(ただしそれは、叙事詩や悲劇が小説に比べて劣るとかそういうことではない。詩や俳句・短歌が主語を消して書かれるように、自己やさらには人間を超える何ものか――自然の超越性や運命といったもの――を表現する形式ということです。)
過去にトラウマ(宿命)を背負った自己物語というのが、その叙事詩や悲劇に似ている。物語の閉じられて完結するかたちが同じなのだ。それは一般に精神分析やカウンセリングによってもたらされるものだが、ただしそこでは叙事詩や悲劇よりももっと単純な、トラウマ起源の直線的因果関係がベースになっている。もし叙事詩や悲劇であるなら(と言っては弊害があるかもしれないが)、当事者にとっては苦痛を伴っていても、一方でカタルシスをもたらすかもしれない。でも単純で決定論的な因果関係を反復させてしまうだけのストーリーでは、主人公も苦痛に苛まれるだけで、悲劇のヒーロー/ヒロインとなることはできないのだ。
たぶん叙事詩や悲劇形式も必要なのだと思う。けれどもその「固定された筋や役割」だけに縛られるのではなく、さらに可能性や自由を得るには「小説性の力」に頼るということも必要なのだろう。それはそう簡単なことではないかもしれないけれど、とにかく書き続けることだとは思います。(個人的には俳句や短歌もお勧めですけど。)
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少女論メモ
2004年1月26日デフォルメには部分の強調というもある。
オタクが好む「萌えキャラ」のフェチ的身体ライン。幼い顔に大きな胸とお尻、細い腰と太ももというコントラスト。
それと対照的なのが、例えば『マリア様がみてる』の登場人物たちの、ペンをスッと走らせて描けるような身体ライン。
http://www.gokigenyou.com/
身体的には髪型や顔つき以外に、あまり差異は見られない。
女の子向けの小説がベースで、登場人物それぞれの個性と絆という関係性、そして身体性より精神性に重きが置かれている。
幼児期と子供時代、男女の体型はあまり変わらない。
思春期になると、男子は手足が長くなり、体格も多少がっしりするが、概ね相似形に近い。
それにたいして、女子は大きく変わり始める。
その変身の行き先はもちろん大人の女の世界である。
言いかえると、見られる身体・見比べられる身体へと変わってゆくということでもある。
美のヒエラルキーの世界。
以前、ボディコン(ボディコンシャス)というのが流行ったことがあったが、そういうファッション・スタイルは別としても、女性の身体コンシャスの度合いはたぶん男の想像を越えていると思われる。
男子でも身体にたいするコンプレックスを持っている者は少なくないと思うけど、女の子の場合は、まったく気にするようなものではないのに、「私、足が太い」とか「私、下半身デブだ」とか、信じられないこと言ったり。
ただし、男子と同じように、美的価値よりも能力やその他で勝負すると考える女子も、いっそう増えてはきていると思われる。
美のヒエラルキーの世界というのは、なにも男社会が作りあげただけではなく、全国チェーンのエステサロンがビジネスとしてコンテストを開催しているように(それを男が興味津々で見ているというのもなんだけど。w)、社会全体がそっちの方向に向いてしまっているということ。
ぜんぜんフェミじゃないし、田嶋陽子なんて顔も言ってることもムゴいと思ってるけど、彼女のように薄っぺらな二元論で男性中心の社会や価値観を批判したって(そこでは女性も敵味方に分けられている)始まらない。
少女たちのなかに、そうした美的価値が支配する大人の女の世界を拒否する者がいても無理はないと思われる。
それは、いつまでも少女でいたいという気持ちや、「ボーイズ・ラブ」という女の子の不思議な発想や、拒食症(この経路はいくつかあると思うけど)というかたちで現れたりする。
それぞれは、永遠の少女性へのあこがれ、男の子の精神的(愛情)世界へのあこがれ、そして男の子の身体へのあこがれの表現なのではないだろうか。
もしかして後者ふたつは、男の子というより、性別を越えたところを追究しているのかもしれない。
美的価値が相対化されるというのは、民話などにも見られる。
「灰かぶり(シンデレラ)」の物語りも、灰まみれのみすぼらしい少女が実は美しかったりします、という話だ。
そしてそれを男女逆にひっくり返したのが『美女と野獣』だ。
既存の価値を変えるには、その価値を相対化しながら新しい価値を作ってゆくしかない。
つまり既存の価値観に基づくものではない物語を創作するといったことで。
オタクが好む「萌えキャラ」のフェチ的身体ライン。幼い顔に大きな胸とお尻、細い腰と太ももというコントラスト。
それと対照的なのが、例えば『マリア様がみてる』の登場人物たちの、ペンをスッと走らせて描けるような身体ライン。
http://www.gokigenyou.com/
身体的には髪型や顔つき以外に、あまり差異は見られない。
女の子向けの小説がベースで、登場人物それぞれの個性と絆という関係性、そして身体性より精神性に重きが置かれている。
幼児期と子供時代、男女の体型はあまり変わらない。
思春期になると、男子は手足が長くなり、体格も多少がっしりするが、概ね相似形に近い。
それにたいして、女子は大きく変わり始める。
その変身の行き先はもちろん大人の女の世界である。
言いかえると、見られる身体・見比べられる身体へと変わってゆくということでもある。
美のヒエラルキーの世界。
以前、ボディコン(ボディコンシャス)というのが流行ったことがあったが、そういうファッション・スタイルは別としても、女性の身体コンシャスの度合いはたぶん男の想像を越えていると思われる。
男子でも身体にたいするコンプレックスを持っている者は少なくないと思うけど、女の子の場合は、まったく気にするようなものではないのに、「私、足が太い」とか「私、下半身デブだ」とか、信じられないこと言ったり。
ただし、男子と同じように、美的価値よりも能力やその他で勝負すると考える女子も、いっそう増えてはきていると思われる。
美のヒエラルキーの世界というのは、なにも男社会が作りあげただけではなく、全国チェーンのエステサロンがビジネスとしてコンテストを開催しているように(それを男が興味津々で見ているというのもなんだけど。w)、社会全体がそっちの方向に向いてしまっているということ。
ぜんぜんフェミじゃないし、田嶋陽子なんて顔も言ってることもムゴいと思ってるけど、彼女のように薄っぺらな二元論で男性中心の社会や価値観を批判したって(そこでは女性も敵味方に分けられている)始まらない。
少女たちのなかに、そうした美的価値が支配する大人の女の世界を拒否する者がいても無理はないと思われる。
それは、いつまでも少女でいたいという気持ちや、「ボーイズ・ラブ」という女の子の不思議な発想や、拒食症(この経路はいくつかあると思うけど)というかたちで現れたりする。
それぞれは、永遠の少女性へのあこがれ、男の子の精神的(愛情)世界へのあこがれ、そして男の子の身体へのあこがれの表現なのではないだろうか。
もしかして後者ふたつは、男の子というより、性別を越えたところを追究しているのかもしれない。
美的価値が相対化されるというのは、民話などにも見られる。
「灰かぶり(シンデレラ)」の物語りも、灰まみれのみすぼらしい少女が実は美しかったりします、という話だ。
そしてそれを男女逆にひっくり返したのが『美女と野獣』だ。
既存の価値を変えるには、その価値を相対化しながら新しい価値を作ってゆくしかない。
つまり既存の価値観に基づくものではない物語を創作するといったことで。
母親=ブラックホールと言ってた人もいたり
2004年1月25日(思いつき程度の脈絡のない断片です。)
人間、車のハンドルにあるような「遊び」ないとダメだというのはよく言われることだけど、母親が真面目すぎて余裕や遊びがないというのは、子供にとってはあまりありがたくないことだと思う。(不真面目な親というのもまた困りものかもしれないけど。)
その真面目というのが、往々にして視野狭窄や自己の価値観への固執に結びついてしまう。さらに家庭内で夫婦の関係が冷え切っていたり、嫁姑の諍いがあったりしてストレスがかかっていると、さらに余裕がなくなってしまう。
例えば母親が子供に、「こんなにあなたのこと心配してるのに、お母さんを困らせるようなことしないで」というとき、まだ反抗期のきてない子供や真面目な子供は、「お母さんを困らせるようなことしてごめんなさい」と申し訳ない気持ちになる。そうして母親の世界に取り込まれてゆく。
その母子関係に介入するのが、ふつう父親や、ときには祖父母だったりする。
何が言いたいかというと、母親が自分の世界に子供を取り込んではまずい、母親がストレスを感じないような家庭環境が望ましいというだけのつまらん話です。
余談:
遊び心があってお茶目な母親もいいけど、もし子供を疑似餌(ネタやジョーク)で釣ったら、口をパクパクさせてる子供をそのまま放置しておかないほうがいいですね。すぐ「冗談だよー」といって川にリリースするのが、釣り人のマナーだと思います。
ジョーク → 子供ビクーリ → すぐネタばらし → な〜んだ
の呼吸です。
と、まあ、曜日や日付には関係ない話ですが、それが何か?(笑)
人間、車のハンドルにあるような「遊び」ないとダメだというのはよく言われることだけど、母親が真面目すぎて余裕や遊びがないというのは、子供にとってはあまりありがたくないことだと思う。(不真面目な親というのもまた困りものかもしれないけど。)
その真面目というのが、往々にして視野狭窄や自己の価値観への固執に結びついてしまう。さらに家庭内で夫婦の関係が冷え切っていたり、嫁姑の諍いがあったりしてストレスがかかっていると、さらに余裕がなくなってしまう。
例えば母親が子供に、「こんなにあなたのこと心配してるのに、お母さんを困らせるようなことしないで」というとき、まだ反抗期のきてない子供や真面目な子供は、「お母さんを困らせるようなことしてごめんなさい」と申し訳ない気持ちになる。そうして母親の世界に取り込まれてゆく。
その母子関係に介入するのが、ふつう父親や、ときには祖父母だったりする。
何が言いたいかというと、母親が自分の世界に子供を取り込んではまずい、母親がストレスを感じないような家庭環境が望ましいというだけのつまらん話です。
余談:
遊び心があってお茶目な母親もいいけど、もし子供を疑似餌(ネタやジョーク)で釣ったら、口をパクパクさせてる子供をそのまま放置しておかないほうがいいですね。すぐ「冗談だよー」といって川にリリースするのが、釣り人のマナーだと思います。
ジョーク → 子供ビクーリ → すぐネタばらし → な〜んだ
の呼吸です。
と、まあ、曜日や日付には関係ない話ですが、それが何か?(笑)
土曜の日記を日曜に書く
2004年1月24日何もなし。PCにも向かわず、ネットにもアクセスせす。
テレビが壊れて見れないので、もっぱらFMラジオを聞いている。土曜の夜はNHK-FMでドラマをやっている。海外物とか、最近しばらくは日本の作品が続いている。毎週聞いているわけではないが、何故か女の子が主人公になった話が多いような気がする。
昨夜のドラマは、両親が離婚した小学3年の女の子の話だった。主人公は心を閉ざしていて、転校先の学校でもクラスメートに打ち解けない。彼女はもっぱら心の中にいる「お姉さん」と話をしている。母親は昼も夜も働いているので、食事の支度や掃除などをやらされている。父親とはときどき会っている。
と、そんな設定です。そしてクラスの男の子に押し倒されてランドセルが壊れたのをきっかけに、話が展開し始める。クラスメートとも話をするようになり、また、母親に夜の仕事をやめるように頼む。母親も反省して納得する。父親も以前に増して気を遣ってくれる。そうしたこともあって、していつのまにか「お姉さん」が姿を消す。主人公は、「お姉さん」というのは彼女自身だったことに気がつく。・・・といったストーリーです。
このドラマは舞台が九州の町らしく、土地の言葉(博多弁か長崎弁。両者の区別がつかないというのもなんだけど。汗)で話されていた。会話によく登場していた「〜と?」という語感が良かった。
以前チャリで大通り公園を通ってるとき、修学旅行で来ていたらしい女子高生たちのひとりが友人に、「この芝生、入ったらいけんと?」と聞いていた。生(なま)で九州の言葉を聞くことはめったにないので、とても新鮮な感じがした。
ちなみに、「〜っちゃ」というのは小倉弁です。昔小倉(現北九州市)はコワい町だったらしく、小倉弁にあまりいいイメージを持っていない人もいたり。
テレビが壊れて見れないので、もっぱらFMラジオを聞いている。土曜の夜はNHK-FMでドラマをやっている。海外物とか、最近しばらくは日本の作品が続いている。毎週聞いているわけではないが、何故か女の子が主人公になった話が多いような気がする。
昨夜のドラマは、両親が離婚した小学3年の女の子の話だった。主人公は心を閉ざしていて、転校先の学校でもクラスメートに打ち解けない。彼女はもっぱら心の中にいる「お姉さん」と話をしている。母親は昼も夜も働いているので、食事の支度や掃除などをやらされている。父親とはときどき会っている。
と、そんな設定です。そしてクラスの男の子に押し倒されてランドセルが壊れたのをきっかけに、話が展開し始める。クラスメートとも話をするようになり、また、母親に夜の仕事をやめるように頼む。母親も反省して納得する。父親も以前に増して気を遣ってくれる。そうしたこともあって、していつのまにか「お姉さん」が姿を消す。主人公は、「お姉さん」というのは彼女自身だったことに気がつく。・・・といったストーリーです。
このドラマは舞台が九州の町らしく、土地の言葉(博多弁か長崎弁。両者の区別がつかないというのもなんだけど。汗)で話されていた。会話によく登場していた「〜と?」という語感が良かった。
以前チャリで大通り公園を通ってるとき、修学旅行で来ていたらしい女子高生たちのひとりが友人に、「この芝生、入ったらいけんと?」と聞いていた。生(なま)で九州の言葉を聞くことはめったにないので、とても新鮮な感じがした。
ちなみに、「〜っちゃ」というのは小倉弁です。昔小倉(現北九州市)はコワい町だったらしく、小倉弁にあまりいいイメージを持っていない人もいたり。
中村雄二郎+川手鷹彦『心の傷を担う子どもたち ― 次代への治療教育と藝術論』誠信書房
川手:西洋の詩人が戯曲を書くときというのは、正に「リズムありき」で、決められたリズムに言葉をのせてゆくという大変やっかいで地道な作業を、実は彼らはしているのです。
中村:それはね、詩人が何かを感ずるときからリズムがあり、表現するときにリズムがあるのは当り前です。それこそが、生きているということでしょう。
斎藤学『インナーマザーは支配する ― 侵入する「お母さん」は危ない』新曜社
眠い・・・
川手:西洋の詩人が戯曲を書くときというのは、正に「リズムありき」で、決められたリズムに言葉をのせてゆくという大変やっかいで地道な作業を、実は彼らはしているのです。
中村:それはね、詩人が何かを感ずるときからリズムがあり、表現するときにリズムがあるのは当り前です。それこそが、生きているということでしょう。
斎藤学『インナーマザーは支配する ― 侵入する「お母さん」は危ない』新曜社
眠い・・・
縄文から近世アイヌまで
2004年1月21日自分の住んでいる土地の歴史について、あまりよく分かっていない。歴史は、先祖が本州(北陸加賀)から渡ってきた明治時代から始まっていたのだ。
で、ほんとうは以下のようになってるらしい。
北海道 本州
――――――――――――――――
先土器
↓ 縄文
縄文 ↓
↓ 弥生
続縄文 古墳
↓ オホーツク文化
擦紋
↓
アイヌ文化(12世紀)
↓
・・・・
ストーンサークルは縄文後期(約3,500年前)、手宮の洞窟壁画は続縄文(3〜6世紀)のものとされている。そして縄文から近世アイヌ文化に至るまで、連続している。つまり、縄文人もアイヌも同じということです。(ただしオホーツク文化は別系統)
そのへんは思い違いをしていた。というのは、アイヌの歌人違星北斗が古代遺跡について書いた「疑ふべきはフゴッペの遺跡」に、「古代先住民は非アイヌ」とあったからです。彼がそう考えたのは、アイヌとは別の民族がいたというコロポックル伝説の存在が、大きく影響していたのかもしれない。それに加え、アイヌと「先住民」それぞれの石への親しみの度合いや、偶像・具象物製作にたいする禁忌などの違いなどから、両者は別系統と結論されたものだ。それで、古代先住民がいて、アイヌとの争いに敗れてどこかに消え去っていったのだとばかり思ってた。
明治時代にその辺に関して論争があったようだけど、今は形質人類学などの研究もあり、異なる民族ではなく、連続してるということになってるらしい。
つまり、ストーンサークルを造成したのも、洞窟壁画を描いたのも、アイヌの祖先=縄文人であるということ。言い方を変えると、古代遺跡を残した人たちの末裔が、アイヌのひとたちであるということです。
ストーンサークルは人間の生死観に関わっているし、洞窟壁画はシャーマニズム関連なので、文化的にはアイヌとはちょっと異なる。最近はアイヌにもシャーマンがいたというという話も出てきたようだけど、文化というのは変わるものだということかな。
*
えーと、昨日の卵に関する話、わたしゃ責任は持てません。(^ ^;) もし 卵の食べ過ぎ→高コレステロール が原因で病院のお世話になることがあったとしても、訴えたり呪ったりしないでねっ。
三拍子と回転と舞踏を巡るFragments
2004年1月18日昨日の日記に「体内基本リズムが三拍子」って書いたけど、物事をあまりパパッとやれないのは、もしかしてそのせいかもしれない。つまり、ワルツ(三拍子)なので、回転するのにエネルギーを使ってしまい、そのせいで前へ進めないというわけです。
うーん、我ながらなかなかに良い言いわけ文句だ。(ほれぼれ)
だいたい三拍子というのは、ワルツからしてそうだけど、実用にはならない遊びのリズムで、バリバリ仕事をやる人間の持つリズムじゃないですね。労働の歌に三拍子なんかないし。
回転は数字の3と密接な関係がある。昔、CDになる以前のLPレコードの時代、その回転数は1分間に 33-1/3回転か 45回転で、どちらも3の倍数になっている。
回転するものは好きです。つむじ風とか風車とか、それにくるくる回る子とか(何?)。でも、回転ドアや台風や竜巻はあまり好きじゃないけど。
くるくる回るといえば、トルコのスーフィズム(イスラム神秘主義)・メヴレヴィー教団の旋回舞踏(セマー)がそう。
http://www.crystalinks.com/whirlingdervishes.jpg
舞踏はシャーマニズムに起源があるといわれている。シャーマンが日常的動作とは異なる、踊りという身体技法を通して、非日常的な意識を得るのだ。そして旋回運動などがトランス状態への入口になる。スーフィズムの旋舞も、中央アジアのシャーマニズムに由来があるとされている。(スーフィズムや旋回舞踏はきちんとした体系を持った宗教や儀礼で、べつにあやしいものではありません。)
三拍子の曲
ワルツ、サラバンド、スケルツォ、ポロネーズ、メヌエット
で、くるくる回る子も登場するシナリオ、進んでません。他にやることも出来て、いつになるかも分からなくなりました。出来上がったらまたお知らせします。
今日の日記
2004年1月16日・・・
しばらくネットに繋げられませんでした。(さっきメールを開けたら400通あった。でもほとんどスパム。) それと、物語の展開もまだ未完成です。今週の月曜にアップするとか書いたのに・・・恥かし〜。
物語の方は、第一話(転校の話)でほとんどの主要登場人物が出てくるので、キャラがきちんと決まってないとなりません。その辺の調整とか、あと、単なる脇役の予定だった子のキャラを新たに際立たせることになったりして、いろいろ考えてました。ちなみに、その子は同人をやってる設定です。女子中学生に同人は欠かせないですねっ。 って、そうなのかな。
そうやって主人公を食いそうなキャラがいろいろ登場するのですが、別に主人公の物語というわけでもないので、いいのです。月曜までには第一話をアップの予定ですが、こんな調子だといつになったら話が完結するのでしょう。
というわけで、言い訳ばかりの人生を邁進中です。
しばらくネットに繋げられませんでした。(さっきメールを開けたら400通あった。でもほとんどスパム。) それと、物語の展開もまだ未完成です。今週の月曜にアップするとか書いたのに・・・恥かし〜。
物語の方は、第一話(転校の話)でほとんどの主要登場人物が出てくるので、キャラがきちんと決まってないとなりません。その辺の調整とか、あと、単なる脇役の予定だった子のキャラを新たに際立たせることになったりして、いろいろ考えてました。ちなみに、その子は同人をやってる設定です。女子中学生に同人は欠かせないですねっ。 って、そうなのかな。
そうやって主人公を食いそうなキャラがいろいろ登場するのですが、別に主人公の物語というわけでもないので、いいのです。月曜までには第一話をアップの予定ですが、こんな調子だといつになったら話が完結するのでしょう。
というわけで、言い訳ばかりの人生を邁進中です。
食人植物な人間
2004年1月9日・・・・
この日記には、日々の出来事が綴られるということはあまりないかもしれない。なんせ出来事がほとんどないんだもんね。とくに冬はアカンし。だいたい日記の作者からして、リアルの世界に生きているというより、物語や過去の世界に生きてる感じがします、……まるで他人事のように言ってますけど。いってみれば、植物的。いえ、けっして植物人間ではないけど、記憶を持つ植物、あるいは夢想植物みたいなものかな。でももしかして、食虫植物というか、人(とくに女性)を食う植物だったり。おい。
*
シナリオに誤字脱字、名前間違い色々あり。修正しなくては。
この日記には、日々の出来事が綴られるということはあまりないかもしれない。なんせ出来事がほとんどないんだもんね。とくに冬はアカンし。だいたい日記の作者からして、リアルの世界に生きているというより、物語や過去の世界に生きてる感じがします、……まるで他人事のように言ってますけど。いってみれば、植物的。いえ、けっして植物人間ではないけど、記憶を持つ植物、あるいは夢想植物みたいなものかな。でももしかして、食虫植物というか、人(とくに女性)を食う植物だったり。おい。
*
シナリオに誤字脱字、名前間違い色々あり。修正しなくては。
小樽市立稲穂小学校
2004年1月8日・・・
経済的事情で、灯油をケチってストーブつけてるので、ちょっと寒い。
冬の室内って、本州より北海道の方が暖かいんですね。北海道の人間は、外が寒いのは耐えられるけど、部屋の寒いのには我慢できない。本州のホテルとかで「部屋が寒い」って苦情を言うのは、北海道の客がいちばん多いらしいです・・・って、実際そういう苦情を言ったことがあったり。
*
物語の舞台は小樽です。小樽は子供の頃にちょっとだけ住んでたことがありました。
札幌の幼稚園(年長組)の途中の夏頃(かな?)、家が小樽に引っ越しました。小樽では、じきに小学校に上がるからか、家が貧乏だったせいか、幼稚園に通わせてもらえなかった。そして住んでたところも、住宅地とちょっと離れていたので、近所に子供がいなかった。それでよく一人で外をうろちょろして遊んでました。(*) 街のデパートに、大きな鉄道ミニチュアを見に行ったり。
そんなとき、近所で子供ハケーン! ちょっと年上っぽい女の子で、近くの病院にその子のお父さんが入院していたのです。仲良くなって、お父さんの病室にも一緒に行ったりしました。でも、近所に住んでる子ではなかったせいか、じきに姿を見かけなくなってしまった。父親が退院したのかもしれない。
それから冬になり、そして春がきて、待ちわびた小学校入学。でも一ヵ月くらいして、家が旭川に引っ越して転校することになった。
旭川でも一度転校してるけど、4年生くらいのときの社会科かなんかの授業で、先生に「小樽はどんな町ですか?」と聞かれたことがある。それで、個人的な印象と、母親がときどき言ってた言葉を思い出し、得意満面に「子供の少ない町です!」と答えた。(**) そのときの先生のガッカリした表情を見て、「あ、外した」と自分でも感じた。もちろん期待されていた答えは、港があって坂の多い町、ということです。それでも友だちには、「ほんとに子供が少ないんだから」と言い訳していた。
そうして子供の頃は、そんないい訳ばかりする悪い子でした。そして大人になっても、言い訳ばかりする悪い大人になりました。皆さんはそんな悪い人にならないようにしてくださいね。 え、そんなのはお前だけだ? ううっー、失礼しましたっ!
でも、不当なことには、言いたいことを主張した方がいいと思うけど。
* 向かいの大きな写真館に男の子がいて、外で遊んだ記憶は
ないけど、そこの家というより館の中に入ったことがある。
** いまにして思えば、小樽育ちの母の言ってた「町」というのは、
町名の意味なのだ。小樽は札幌や旭川みたいに街がグリッドに
なってないので、地域を町の名で言い表すから。
そんなわけで、小樽時代の話は、物語のプロローグにも少し反映されています。ちなみに、幼児虐待とかはありませんでしたけど。
*
ブックマーク、ありがとうございます。
経済的事情で、灯油をケチってストーブつけてるので、ちょっと寒い。
冬の室内って、本州より北海道の方が暖かいんですね。北海道の人間は、外が寒いのは耐えられるけど、部屋の寒いのには我慢できない。本州のホテルとかで「部屋が寒い」って苦情を言うのは、北海道の客がいちばん多いらしいです・・・って、実際そういう苦情を言ったことがあったり。
*
物語の舞台は小樽です。小樽は子供の頃にちょっとだけ住んでたことがありました。
札幌の幼稚園(年長組)の途中の夏頃(かな?)、家が小樽に引っ越しました。小樽では、じきに小学校に上がるからか、家が貧乏だったせいか、幼稚園に通わせてもらえなかった。そして住んでたところも、住宅地とちょっと離れていたので、近所に子供がいなかった。それでよく一人で外をうろちょろして遊んでました。(*) 街のデパートに、大きな鉄道ミニチュアを見に行ったり。
そんなとき、近所で子供ハケーン! ちょっと年上っぽい女の子で、近くの病院にその子のお父さんが入院していたのです。仲良くなって、お父さんの病室にも一緒に行ったりしました。でも、近所に住んでる子ではなかったせいか、じきに姿を見かけなくなってしまった。父親が退院したのかもしれない。
それから冬になり、そして春がきて、待ちわびた小学校入学。でも一ヵ月くらいして、家が旭川に引っ越して転校することになった。
旭川でも一度転校してるけど、4年生くらいのときの社会科かなんかの授業で、先生に「小樽はどんな町ですか?」と聞かれたことがある。それで、個人的な印象と、母親がときどき言ってた言葉を思い出し、得意満面に「子供の少ない町です!」と答えた。(**) そのときの先生のガッカリした表情を見て、「あ、外した」と自分でも感じた。もちろん期待されていた答えは、港があって坂の多い町、ということです。それでも友だちには、「ほんとに子供が少ないんだから」と言い訳していた。
そうして子供の頃は、そんないい訳ばかりする悪い子でした。そして大人になっても、言い訳ばかりする悪い大人になりました。皆さんはそんな悪い人にならないようにしてくださいね。 え、そんなのはお前だけだ? ううっー、失礼しましたっ!
でも、不当なことには、言いたいことを主張した方がいいと思うけど。
* 向かいの大きな写真館に男の子がいて、外で遊んだ記憶は
ないけど、そこの家というより館の中に入ったことがある。
** いまにして思えば、小樽育ちの母の言ってた「町」というのは、
町名の意味なのだ。小樽は札幌や旭川みたいに街がグリッドに
なってないので、地域を町の名で言い表すから。
そんなわけで、小樽時代の話は、物語のプロローグにも少し反映されています。ちなみに、幼児虐待とかはありませんでしたけど。
*
ブックマーク、ありがとうございます。
物語世界の地下水脈
2004年1月7日・・・
プロローグのストーリーにはいくつかのテーマが込められていて、そのなかに二つの映画の要素も入っています。別のテーマがリーディング・イメージだったので、特にそれらの映画を意識したわけでもないのだけれど、いつのまにかストーリーの前景に浮き上がってきました。その映画とは、ひとつは『みつばちのささやき』で、主人公の少女アナと精霊(映画のモンスターと脱走兵)とのエロス的関係に父親が介入するというもの。そしてもうひとつは、ギリシャ人の映画監督テオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』(1988)で、12才の姉と5才の弟が父親を探しに、アテネから列車に乗ってドイツに行くというものです。
そうした卓越した映画と同質の要素が入っているから、いま書いてるストーリーがいいとかいう話ではないです。「物語の世界」には地下水脈みたいなものがあって、それぞれの固有の世界で水脈を掘り当て、そこから貴重な何かを汲み上げることが必要なのではないかということです。もっともこれは、物語の元型や神話・民話の基本パターンがいくつかに集約される、という話を言い替えているだけに過ぎないのだけれど。じっさい、父親・母親を探しに旅に出るという物語(あるいはロードムービー)は、かなり昔からあるようですし。
テオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』、お勧めです。
あ、受験生は、観るとしても試験が終わってからねっ。
(堅めの文章を書くときは、「です・ます」調の方がしっくり来るね)
Dear Bookmarked
相互ブックマークなしというのは、「ひみつ日記」を共有したりする年頃じゃないし、ひみつを覗いたりもしませんので・・・、という意味です。
プロローグのストーリーにはいくつかのテーマが込められていて、そのなかに二つの映画の要素も入っています。別のテーマがリーディング・イメージだったので、特にそれらの映画を意識したわけでもないのだけれど、いつのまにかストーリーの前景に浮き上がってきました。その映画とは、ひとつは『みつばちのささやき』で、主人公の少女アナと精霊(映画のモンスターと脱走兵)とのエロス的関係に父親が介入するというもの。そしてもうひとつは、ギリシャ人の映画監督テオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』(1988)で、12才の姉と5才の弟が父親を探しに、アテネから列車に乗ってドイツに行くというものです。
そうした卓越した映画と同質の要素が入っているから、いま書いてるストーリーがいいとかいう話ではないです。「物語の世界」には地下水脈みたいなものがあって、それぞれの固有の世界で水脈を掘り当て、そこから貴重な何かを汲み上げることが必要なのではないかということです。もっともこれは、物語の元型や神話・民話の基本パターンがいくつかに集約される、という話を言い替えているだけに過ぎないのだけれど。じっさい、父親・母親を探しに旅に出るという物語(あるいはロードムービー)は、かなり昔からあるようですし。
テオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』、お勧めです。
あ、受験生は、観るとしても試験が終わってからねっ。
(堅めの文章を書くときは、「です・ます」調の方がしっくり来るね)
Dear Bookmarked
相互ブックマークなしというのは、「ひみつ日記」を共有したりする年頃じゃないし、ひみつを覗いたりもしませんので・・・、という意味です。
Spirit
2004年1月6日・・・
さてさて、今日から物語制作日記を始めることにします。
物語はさしあたって脚本形式で、別サイトにアップしてあります。(家のマークor下のリンクからどうぞ。) まだ最初の部分だけですが、少しずつ完成させてゆく予定です。
またここでの名前の"Spirit of the Beehive"は、ヴィクトル・エリセのスペイン映画『みつばちのささやき』の英語版タイトルからとったものです。もちろん私は Spirit(精霊)ではないです。ちなみに、ペンネームは紗野ゆもん、ハンドルは"ゆもん"、リアルな名は"たなか"です。
「ストーン・サークル」
http://www.halsnet.com/~presen/scenario/index.html
Spirit はドイツ語では Geist(ガイスト)です。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』に登場する天使はガイストでもあり、映画の中で彼らは、大人の眼には見えないけれど、子供には見えるという存在になっていました。また宮崎駿の『もののけ姫』にも、森に住む大小いろいろなSpiritが登場して、自然と共に生きていた部族のアシタカには(観客にも)、それが見えていました。
たしかに大人にはSpiritが見えなくなっている。人はみな大人になるに従って、生きて行くうえで必要とされる世界や社会や人間に関する知識や技を獲得して行きます。それは、近代社会ではとくに、それまで見えていたものと引換えでなされます。そこでの見えてくるものと見えなくなってしまうものとの交換は、多少の長い期間に渡って静かに行われるため、自分の身長の伸びと同様に、その過程を目の当たりにすることはできません。
この物語は Spiritを巡る話もテーマの一つとなっています。登場する主人公たちは、プロローグを除くと、中学生三年生です。年令的には既に、かなり大人の領域に足を踏み入れています。でも平均的にはまだ少しはSpiritが見えているか、見えていた記憶の痕跡を残しているあたりにいると思います。
ところで、Spiritとは何でしょう?
物語には自然との親和性があった古代文化も登場してきます。でも別に自然vs文化という対立項を立て、自然派や縄文派としてSpiritを称揚しようというつもりはありません。またオカルトやムー系もありません。Spiritといえば、『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する日本の妖怪たちもそうです。でも、水木しげるは好きだけど、そういう目に見える妖怪たちも想定していません。(Spiritの可視化は全く否定しないどころか、おもしろいと思うけど、正教のイコンのように、そのビジュアルを通して向こうに何を見るか・感じるかが大事なのだという気がします。まあ正直、「ぬらりひょん」とかいったアヤシイ連中は、実際に近くでは見たくないですし。)
そうした、かってSpiritが持っていた価値ではなく、今の時代にそれが持つ意味を考えてみたいということなのです。
いずれにしてもSpiritは、言葉では表現しづらいものです。かといって、ビジュアルにも落としづらい。Spiritには精神や心という意味もあるけど、もしかしてそっちに近いかもしれません。そしてSpiritそのものというよりは、人の心にあるその痕跡を見つけられれば、という気がしています。もうSpiritが見えなくなってしまったような人間がその辺のところを書くというのも、もしかして限界があるかもしれないけれど・・・、どうなるやら。(まあそんな感じで、本人も書きながら少しづつ考えていこうと思ってたり。テキトー)
さて、物語の最初はプロローグです。メインの主人公の、子供時代のエピソードです。べつに子供を登場させて「つかみ」を取ろうという意図ではなく、主人公の背景(who she is / where she comes from)を説明し、その後のストーリーでのいくつかの伏線を置くためのものです。それと、当初は主人公が中3で転校するところから始まる予定だったけれど、それではちょっとありきたりかなということもあって、あらたに挿入されたものです。また話のテーマには、ちょっとした個人的なこだわりもあります。
この部分は単体でもショート・ストーリーになりそうなもので、こんなのを最初に置いたら、物語全体がかなり長くなりそうな感じもするのだけど・・・。
なお、掲示板もありますので、もし「ここはおかしい」とか「こういう風にした方がいい」といったアドバイスがありましたら、どうぞ遠慮なく書き込んでください。
それでは、幕開きです。
さてさて、今日から物語制作日記を始めることにします。
物語はさしあたって脚本形式で、別サイトにアップしてあります。(家のマークor下のリンクからどうぞ。) まだ最初の部分だけですが、少しずつ完成させてゆく予定です。
またここでの名前の"Spirit of the Beehive"は、ヴィクトル・エリセのスペイン映画『みつばちのささやき』の英語版タイトルからとったものです。もちろん私は Spirit(精霊)ではないです。ちなみに、ペンネームは紗野ゆもん、ハンドルは"ゆもん"、リアルな名は"たなか"です。
「ストーン・サークル」
http://www.halsnet.com/~presen/scenario/index.html
Spirit はドイツ語では Geist(ガイスト)です。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』に登場する天使はガイストでもあり、映画の中で彼らは、大人の眼には見えないけれど、子供には見えるという存在になっていました。また宮崎駿の『もののけ姫』にも、森に住む大小いろいろなSpiritが登場して、自然と共に生きていた部族のアシタカには(観客にも)、それが見えていました。
たしかに大人にはSpiritが見えなくなっている。人はみな大人になるに従って、生きて行くうえで必要とされる世界や社会や人間に関する知識や技を獲得して行きます。それは、近代社会ではとくに、それまで見えていたものと引換えでなされます。そこでの見えてくるものと見えなくなってしまうものとの交換は、多少の長い期間に渡って静かに行われるため、自分の身長の伸びと同様に、その過程を目の当たりにすることはできません。
この物語は Spiritを巡る話もテーマの一つとなっています。登場する主人公たちは、プロローグを除くと、中学生三年生です。年令的には既に、かなり大人の領域に足を踏み入れています。でも平均的にはまだ少しはSpiritが見えているか、見えていた記憶の痕跡を残しているあたりにいると思います。
ところで、Spiritとは何でしょう?
物語には自然との親和性があった古代文化も登場してきます。でも別に自然vs文化という対立項を立て、自然派や縄文派としてSpiritを称揚しようというつもりはありません。またオカルトやムー系もありません。Spiritといえば、『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する日本の妖怪たちもそうです。でも、水木しげるは好きだけど、そういう目に見える妖怪たちも想定していません。(Spiritの可視化は全く否定しないどころか、おもしろいと思うけど、正教のイコンのように、そのビジュアルを通して向こうに何を見るか・感じるかが大事なのだという気がします。まあ正直、「ぬらりひょん」とかいったアヤシイ連中は、実際に近くでは見たくないですし。)
そうした、かってSpiritが持っていた価値ではなく、今の時代にそれが持つ意味を考えてみたいということなのです。
いずれにしてもSpiritは、言葉では表現しづらいものです。かといって、ビジュアルにも落としづらい。Spiritには精神や心という意味もあるけど、もしかしてそっちに近いかもしれません。そしてSpiritそのものというよりは、人の心にあるその痕跡を見つけられれば、という気がしています。もうSpiritが見えなくなってしまったような人間がその辺のところを書くというのも、もしかして限界があるかもしれないけれど・・・、どうなるやら。(まあそんな感じで、本人も書きながら少しづつ考えていこうと思ってたり。テキトー)
さて、物語の最初はプロローグです。メインの主人公の、子供時代のエピソードです。べつに子供を登場させて「つかみ」を取ろうという意図ではなく、主人公の背景(who she is / where she comes from)を説明し、その後のストーリーでのいくつかの伏線を置くためのものです。それと、当初は主人公が中3で転校するところから始まる予定だったけれど、それではちょっとありきたりかなということもあって、あらたに挿入されたものです。また話のテーマには、ちょっとした個人的なこだわりもあります。
この部分は単体でもショート・ストーリーになりそうなもので、こんなのを最初に置いたら、物語全体がかなり長くなりそうな感じもするのだけど・・・。
なお、掲示板もありますので、もし「ここはおかしい」とか「こういう風にした方がいい」といったアドバイスがありましたら、どうぞ遠慮なく書き込んでください。
それでは、幕開きです。