文学な空間

2004年5月19日
「どんな理論の中心にも概念へと分解できない隠喩があるということ…」(N・Bolz)。おそらく文学の領域というのはそこなのだろう。いわば内にある知識の外部。そこは怖い領域でもある。想像力と創造力と修辞力を手にした者だけが、その歪んだ時空間を自在に駆け回ることができる。しかしそこで王国の門をくぐることができるわけでもなければ、王国を築き上げることができるわけでもない。ただただ、軌跡を砂上の足跡にとどめながら、風に身を委ね、頬に風を受け、疾走する。螺旋を描いて、中心へ、中心へ……、外へ、外へ……。
AAの使い回し、更新が楽だねっ v

★自己愛女王様★
「言うこと聞いたら聞いたで文句を言う女王様の巻」


○  < 膝まづいて足をお舐め
|        
  ̄|_  ○| ̄|_ < はい、かしこまりました、女王様。


○  < どうしてお前はそんなに卑屈なのだ!

| ̄\_
?  _○―¬__  < ひえ〜、どうかお赦しを〜!

 
えーと、AA使い回しはもうやめますので・・・(- -;)
どうかおゆるしを。

誰しも自己愛やプライドというものを持っているし、それが大事なことは確かなんだよなあ。

 コフートは人間の自己愛について、徹底して考えぬいた人でした。そもそも自己愛(ナルシシズム)とは、フロイト以来、一貫して精神分析の重要なテーマです。自己愛という言葉については、「ナルシスト」や「エゴイスト」などを連想して、あまり印象の良くないひともいるでしょう。しかし、精神分析によれば、あらゆる愛情の起源にあるのが「自己愛」ということになります。とりわけコフートは、人間の一生を自己愛が成熟してゆく過程としてとらえようとしました。(NHKひきこもり相談室 斎藤 環 後編『「出会い」の持つ力』より)
http://www.nhk.or.jp/hikikomori/2003/column/col2a.html

大渕憲一『満たされない自己愛』(ちくま新書)
http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk030518-1.html


でもこーゆーのはちょっと……の例
★自己愛女王様★

○  < 膝まづいて足をお舐め
|        
  ̄|_  ○| ̄|_ < はい、かしこまりました、女王様。
     おっ、足のサイズは23、パンツは柄モノですな。


○  < 余計なことをお言いでない!

| ̄\_
?  _○―¬__  < ひえ〜、どうかお赦しを〜!
 
 給与をもらう普通の仕事とボランティアの仕事との違いは、提供するサービスに対し、お金という対価を求めるか、それとも別なもので受け取るか、という違いしかないのではないだろうか。

 ニーズに応じたサービスの提供という意味では、どんな仕事でも同じということ。つまり、どちらもニーズが前提となるので、需要のないところでは仕事にもボランティアにもならない。つまり、ボランティアが何か特別なことであると考えることがおかしいのじゃないだろうか。
 だからボランティアに対して自己満足だとか偽善だとか言っても始まらないし、逆にボランティアをする側が自分たちが正しい特別なことをしていると思ったりするのも勘違いでしかないと思う。

 以前会社人間をやっていたとき、残業をしてもあえて残業代を請求しなかったことがあったけど(自分からやるサービス残業)、それは自己満足と言われたらそうだったかもしれない。でも自分の仕事の進みが遅かったからというときもあったし、仕事がおもしろくてつい会社に残っていたときもある。いずれにしても他人からどうこう言われることではない。

 かっての共同体社会では、上の者が下の者や弱い者の面倒を見るということがあったけれど、ボランティアという言葉で「面倒を見る」範囲が地縁を越えたということになるのだろう。

 普通の仕事でも、その人のサービス提供能力が発揮できる範囲なら、どこへ行くのもどんなことをやるのも自由だ。またそれは国内に留まらない。渡米して日本料理店の板前になることもできるし、東南アジアで商売や商品の買い付けをやるのも自由だ。ニーズがあるなら、仕事やビジネスだけでなく、ボランティアだって行きたいところに行けばいいのだ。

 ボランティアのサービスが向けられる先に他者がいないのは、はたしてボランティアといえるのだろうか。
 例えばある地方都市で高校生による駅前清掃奉仕というのがあったけど(*1)、清掃費が浮くJRを除いてべつに喜ぶ人間などいないと思う。また、主催者が営利でやってるイベントに学生がボランティアとして参加するというケースがある。(*2) そうしたものはボランティアといえるのかどうか疑問だ。
*1. 今もやっているかどうか不明。前もってテレビ局や新聞社に連絡して取材してもらう。要するに「美談」作り。
*2. 例えば「よさこいソーラン」とかいう、金と騒音にまみれた田舎臭い祭。踊りそのものは別にいいのだけど。

 つい最近オープンした、地図と鉱石をテーマとした博物館に行って来た。その建物は、バブルのころ派手なことをやっていてその後消滅した会社が所有していたもので、そういう意味でもちょっと話題性があったのかもしれない。入場料大人200円。でも入ってみたら、展示スペースは学校の教室よりも一回り狭いくらいのが一階と地階にあるだけで、さらに受付けや無駄なスペースもあって、かなり小規模なものだった。建物の一部を使っているだけで、博物館といえるほどの規模じゃない。展示内容は、各種の鉱石が陳列棚や一部テーブルに置いてあったり、地質図や古地図、それに測量関係や火山噴火の写真パネルが壁に掛かっていたりするという、なんていうか、いろんなものをただバラバラに飾っているというだけ。前もってどんな展示物があるのかは知っていたので、それらをどういうコンセプトで結びつけるのか、あるいは展示のこだわりや方法に大いに興味を持っていたのだけれど、けっきょく高校の文化祭などのほうがよっぽど見てもらうことに工夫してるって感じだ。照明もただ明るいだけだし。鉱物も古地図も好きだけど、強い思い入れがあるというほどのものではないので、ちょっと途方にくれる。そもそも何のためにこの博物館を作ったのかが分からなかった。
 一昨日に書いたギャラリーでのイコン展示のケースと似てるけど、イコンは聖書の物語世界を表現する力がある。でもそこの博物館では、鉱物や古地図が文脈からも物語からも途絶された単なるモノとして、それこそ「博物館はモノの墓場みたいなもの」といった感じで、生気を失って並べられている。鉱石や古地図がかわいそうな気がした。
 リピーターはほとんどいないんじゃないかと思えるので、建物は残っていても博物館は数年以内になくなってるような気がする。

 ただ、こう書いてきたけど、単に対象物に対する思い入れが足りないだけなのかもしれないとも思った。好きな絵画のある美術館で至福に浸っていられることもあるので、鉱石や古地図が大好きな人にとってはたまらない空間なのかもしれない。

       *

 一般には陳列だけの博物館というのは、もう今の時代にはそぐわないところがあって、知と体感が結びついたインタラクティブなおもしろさとか、アミューズメントを通して知を学ぶといったことが要求されてきているようです。
「博物館は科学を啓蒙する場所から新しい知的創造を行う場所へと変化していく必要がある。」(奥出直人)

今日のサイト

2004年4月30日
シュールでおもしろいです。(Flash)
http://www.chapo.net/

...
前回はホントに「かな漢字を憶えた三歳児」のような日記を書いてしまったので(汗)、今日は精神年令アップ目指します。

       *

 近所に小さいギャラリーがあって、現代アートを中心とした展示をやっているのだけど、今日通りかかってなにげに入ってみたら、イコン展をやっていた。白石孝子という日本のイコン画家が、アクリルを使ってロシアのイコンを模写したもので、キリスト教の東方正教で節目となる十二の聖書のテーマが描かれている。
 でも、なんていうか、やっぱり文脈から切り離されてギャラリーに美術品として並べられたイコンは、アウラみたいなものが感じられない。アドルノが美術館のことを芸術作品の墓所のようなものだと言ったのとも似て、対象とのたしかな距離関係がとれないのだ。そもそも信仰を持っているわけではないので聖書の物語にたいして外にいる感覚があるし、絵のほうも遠近法やグラディエーションなどないビザンチン様式の平板なものなので、作品に心情的な投影をして鑑賞するという態度もとれないということなのだ。
 イコンというのは、それじたいが崇拝や礼拝の対の対象になるものではなく、イコンを通して神や聖書の世界に触れる媒介の役割をするのだとされている。個人的にはキリスト教のなかでも東方正教はカソリックやプロテスタントよりも関心を持ってるので、イコンを鑑賞の対象としてではなく、正教会の聖堂という空間で向き合ってみたいと思っていたのだけど……。
 それでもアンドレイ・ルブリョーフの有名なイコン「三位一体」を模写したものがあったり、イエスの描かれている絵のなかに天から地に向かって三方向に▼の形をした聖霊が放射されているのがあったりして、天使の羽根も聖霊も灰黒色に描かれているのがちょっと意外な気がしたけれど、いろいろ参考になった。

三歳の日記

2004年4月28日
ネタがないので昔話します。
「三歳児の犯罪」
三歳くらいの頃、近所のガキん子たち三人と線路に石を置いて
遊んでました。
すると、見回りの国鉄(!)の保線職員が向こうから自転車で
やって来て、「コラァー!」と怒られました。
みんな一斉に逃げ出し、私も走って家まで逃げました。
でも一番年少なので足が遅かったらしく、国鉄職員は私を
追いかけて、家まで来てしまいました。
そして母が応対に出て、説教されていました。
そのときのことを憶えてます。怖かったです。
たぶんいちばん古い記憶のひとつです。

それから線路に石を置いたことは一度もありません。(あたり前か)

良い子は線路に置石しないようにしましょう。

寛容さ

2004年4月27日
「寛容さ」というのが大事だとつくづく思う今日このごろ。それに欠けるところがある人間の言うセリフじゃないけど。

「寛容」になるためには(それができたら苦労はないよというシロモノですが)、(1) 自分にとって都合の良し悪しに関係なく他人を「他者」として認知すること、(2) 現状の枠組み(敵対・妬み・利害対立などの関係)の外に出て、高い視点から相手に憐れみの情をかける、というのがあると思う。でもまあ、口で言うほど簡単なことではないことも確かだし、それより自分に出来ないことを書いてどうする、って感じですが。あと、人が死すべき存在だというのもあるけど、それは難易度高い。

 
ていうか、大荒れが一転凪になったのですか。w>CUCKOO ROBINさん

       *

[イラク人質問題に関する二人の精神分析医のコメント]

斎藤環
日本人は『判官びいき』という弱者に昧方する感性がある。しかし主張する弱者は嫌いだ。主張する強者よりも憎まれる。家族や本人を叩いても批判されないから、右にならえとなった、本当の意昧での自己責任が定着するにはあと百年はかかる。今言われている自己責任論の内実は非常に情緒的な『主張する弱者」叩きのメンタリティーだ。

斎藤学(東京新聞記事からの引用)
「自己責任論」に代表される本人や家族へのバッシングは「女子ども問題。子どものくせに、女のくせにという感情が根底にある」と分析する。さらに「政府を批判するなど、日本人に期待される家族像ではなかったということもある。日本人の感覚では、そこは謝罪すべきだというのがある。自分に理解できないものへの反発が一気に広がった。中年男に宿っている、そこはかとない嫌悪感が一気に噴き出した。」

(イラク問題、別の方でやると言ったけど、こっちでも思いっきし書きます。)

海外協力

 以前教育TVで神話学者ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』というインタビュー番組をシリーズでやっていて、彼が亡くなる数ヶ月前に録画された最終回でキャンベルは、「誰ひとりとして自分の意図したとおりの人生を送る人はいない」と言っていた。 それは、われわれの人生は他の人の人生とつながり合い影響を及ぼしているから、誰もひとりですべてを決定できるものではないということを意味している。そしてそれは古代インド思想で「宝石の網(Net of gem)」という、宝石は他の宝石の光を相互に反射し合って輝くという考え方に由来すると説明されていた。

 と、だいぶ前に書いたものをまた引っぱり出してきたのは、いろんなものがつながっているということを言いたかったからです。
 いま世界中の発展途上国に、日本人がNGOや青年海外協力隊や個人ボランティアなどで行ってます。もしかして彼らは、ショボいNGOだったり、ヒューマニズムに駆られただけの単純な若者だったり、第二の人生を人の役に立てたいという定年退職者だったり、ときには左翼的市民団体のメンバーだったりするかもしれない。でも、それぞれにどういう動機や思想的バックボーンがあるにしても、困窮してる国の人にとっては、外国人が来て援助してくれるというのはすごくありがたいことなのだ。日本人が来て助けてくれたことは、そこの土地でずっと語り継がれてゆくのです。
 そうして彼らが日本という国や日本人のイメージアップに貢献して、それがまた日本企業のビジネスを後押しすることにもつながってゆく。もちろんビジネスだけじゃなく、文化や人的な交流なども含め、お互いが豊かになってゆくことができるわけです。

 
 それはまた東浩紀氏が「波状言論::はてな出張所」のコメント欄で、
「NGOの方々が単身で乗り込んで、結果として日本のイメージを上昇させ、日経株価とか押し上げて国家に経済的利得を与えた場合、その分お金をくれるのでしょうか。そうでないのであれば、損害を与えたときだけ取り立てるのはフェアではありません。」
と書いていることにも関連します。

 
Letter from Yochomachi
Le Monde 翻訳「日本では人質は解放されるための費用を払わねばならない」
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C394170269/index.html

・・・タイトルの「人質が費用を払う」というのがどういう印象を与えるかというとオーウエルの『1984年』とか映画「未来世紀ブラジル」です。あそこでは公安警察が容疑者を逮捕するとその取り調べ(拷問)費用と処刑費用は容疑者家族が負担するという制度となってました。

 このルモンド記事を翻訳された余丁町散人さんは商社におられた方なので、日本イメージの重要さを分かってられて、それで欧州でのイメージ低下を懸念されているのだと思います。私も、この方のキャリアから比べたら全然たいしたことないけど、いちおう小さい商社にいたことがあるので、同じようなことを思ったりします。
 ちょっと表現が大袈裟かもしれないけど、仕事で外国に行くとみんな所属や主義主張を超えて「日本人」になるのです。普段は日の丸には好き嫌いも思い入れもないニュートラルな気持ちしか持っていないけど、外国の会社を訪問したとき建物の前のポールに歓迎の意味で日の丸が上がってるのを見たりしたら、なんとなく嬉しいものです。
 おそらく途上国の「こんなところに…」というような場所で日本人が働いてるのに遭遇したら、たぶん感慨が湧いてくると思います。どんな組織の所属かなんてあまり関係ない。商社マンや外務省職員にもいろんな人がいると思うけど、たぶんそういうのを大事に思ってる人も多いんじゃないかと思う。

 そうして途上国で働いてる人たちから比べたら、脳内だけで無責任だとか迷惑だとか喚いてる立派な人たちなんか、うるさいだけで何の役にも立ちやしない。少しは論理的思考でも展開してくれるならいいけど、無意識にある妄想やルサンチマンや自己愛的心情を体裁よく吐き出してるだけ。そうやってまるで小姑の集団みたいに「自己責任だ、費用請求だ」とか合唱して糾弾をやってる。
 そして人質の家族も、必死なのは分かるけど、支援団体の政治運動とも連動してヒステリックにやるものだから、けっきょく墓穴を掘ってしまってる。そして両者の合わせ技によって、三人はまるで悪いことしたみたいに日本に帰って来てる。それがどんなに異様なことか、パウエルやルモンドに教えてもらっても分からない人が多いらしい。それどころか、「自己責任だ」という主張の喧伝じたいが一種の情報操作であり、三人の仕事を貶めるために利用されているということにも気がつかない。実際、迷惑をかけた無責任な人たちということにされ、今のところその効果は表れているわけだけど。

 そうした自己責任−費用請求の根拠として例えば登山の遭難時のケースに喩える見解もあるけど、長期間滞在してその土地の人々のために働くNGOやボランティアと、自分が楽しむために行なう登山とを比較することなどできない。またその延長にある山の清掃ボランティア然りである。さらには、ジャーナリストにたいし誘拐されたから責任を負えというのも、相当に異様な話なのだ。

 
フランスって
またイラクには行きます−人質となっていたフランス人ジャーナリスト
http://france.blogtribe.org/

 18才の大学生は別として、大人の二人もほんらいはこうなるはずなのだ。

 
煽り社会
別の方のblogに。

 
『蛍』関連
19日の「蛍」を少し修正。

       *
 
 それにしてもどうしてみんな急に、校則を守ろうという生活指導教諭みたいなこと言い出したり、国家の財政支出に関心を持ち始めたり、人に迷惑をかけた子供を持った親の振りをしてみたり、テレビ映りを気にしながら迷惑顔や怒った顔をしてみせる政府首脳に感情移入したりするのでしょう。

(B面へ続く)

「蛍」

2004年4月19日
吉村昭 『蛍』(中公文庫)

 もし人生というものが偶然と必然を縦糸と横糸に紡がれるひとつの織物のようなものだとして、その糸が突然プッツリと切れてしまったとき、それはどちらの糸が切れたと特定することはできるのだろうか。
この短編集の表題にもなっている「蛍」は、幼い子供の不慮の死という不幸な出来事をめぐる、いいようもなく哀しい話だ。話は主人公が長兄の住む町に列車でやって来たところから始まる。甥っ子に当たる長兄の三才の息子が川で溺れ死に、その葬儀に出るためだ。
 ところで(前にも書いたけど)「悲劇」というのは、主人公が死んで物語が閉じられたところで、そうなることが宿命であったという思いが感慨とともに呼び起こされる。古典的な「悲劇」が人の心を打つのは、カタルシス効果だけにあるのではない。人間の想いや意志や希望といったものをはるかに超え、人間の及ばない運命や宿命といった不可思議で壮大な力の存在に触れたときの、人間が抱く身震いをするほどの畏怖にこそ悲劇の核心があるのだ。「悲劇」を通して人間は、自然や神の領域に触れることができるのだ。主人公は悲劇に身を投じるサクリファイスとして選ばれた者であり、演じられる劇場は供犠が実演される舞台となる。
 だが「蛍」では、悲劇が起きたあとに物語が始まる。運命に影響を与える超越的な存在とは縁の薄い現代の物語であり、死んだ子供も幼くて悲劇を担うべくもなく、またその死には運命というより人為的な側面が際立っているという、救いようのない悲劇である。あとに残された者たちは、閉じることのできない悲劇を前にして、苛立ちに声を上げ、あるいは戸惑いに沈黙する。

 事故の様子については、別の兄から明らかにされる。小学六年の長女と小三の卓也と五歳の弟の三人が、川に蛍を見に行ったのだ。長女が目を離していた隙に、兄の卓也が弟と川岸に泊められてあったボートに乗り、卓也がボートを揺すり遊んでいた。そのうち弟が怖くなって立ち上がり、そのはずみに川に落ちて溺れてしまったのだ。
 父親は長男の卓也のせいで末の息子が死んだのだとして、卓也にたいし憎しみの感情さえ抱いている。 一緒に蛍を見に行っていた長女も、自分が弟たちを見ていなかったせいで事故がおきてしまったのだと思い、ショックで寝込んでしまう。当事者の卓也は、自分が関わって起きた事故であるとの認識はあっても、心理的にそのことを回避しようとしているのか、父親の態度には戸惑いを感じている。
 ここでも単純化された因果関係の解釈によって、人が苦しんでいる。五歳の子が死んだ原因について、父親は長男のせいだとして怒っており、長女は自分のせいだと思い悩んでいるのだ。だがいちばん困難さを抱え込んでいるのは、それを否認しようとしている卓也かもしれない。いずれは事実に直面しなくてはならないからだ。
 通夜の夜、次兄から頼まれ卓也と同じ部屋で寝ることになった主人公は、眠りにつくベッドの中で卓也から当夜の蛍の話などを聞かされ、やりきれない思いを感じる。そうした悲劇に巻き込まれた各人のありようの描写が、出来事の外にいる主人公の語りで進められる。

 たぶん宗教というのは、人の死を含め、出来事の偶然とも必然とも言い切れない部分を神や仏といった超越的なものに預けてしまう役割も持っているのではないだろうか。近代というのは科学的な因果関係の把握と数量化によって発展してきたといえるが、人間をとりまく出来事については取り残されたままだ。それどころか、神の位置を科学と人間が占めるようになったら、担え切れないものが残ってしまう。科学では事象に関係する諸条件やファクター(縁)を拾い上げて説明をつけてはいても、人間の身の回りに起きる出来事については、いっそう単純な原因−結果関係に落とし込んで考えてしまうことになる。前にも書いた、<因>と幾つかの<縁>があって<果>がに結ばれるというのではなく、すぐに単一の原因に帰して「誰かれのせいだ」という話になってしまう。

 とくに家族や親しい者の死は、「何故・どうして?」というやりきれない疑問が宙吊りにされたまま残る。それに加えこの小説でも、「誰のせい」という単純な因果関係が軛(くびき)となって、残された者を拘束している。それを外すのは確かに難しいだろう。そうした枠の外にいる主人公も、言葉を飲み込み寡黙でいることが多い。事故の主要因は長男の卓也の悪戯にあり、いちおうは過失責任というものがあるとしても、ほんとうはそれ以外に関与したものはいろいろあるのだ。主人公は卓也の弟にたいする嫉妬心も読み取っているが、それは長兄が末の息子を甘やかしていたことに由来する。事故はいくつかのファクターの巡り合わせが悪くて起きた不運でもあるのだが、長兄は卓也を憎むあまり、葬式に出席させないとか家に置いておけないとまで言い出す。それにたいして主人公は戸惑いをおぼえ、長兄の望むとおりに卓也を自分の下宿に連れ帰ってもいいとまで考える。
 時間が悲痛を希釈してゆくまで「終わりなき悲劇を生きる」しかない人々への作者の眼差しと、透徹した心理描写に打たれた作品でした。

       *

[今日買った本]
ジャン=ミッシェル・アダン『物語論 ― プロップからエーコまで』文庫クセジュ
 本の帯に、「作家志望者にも役立つ、文芸評論のための基礎知識」とあったり。
 自己責任というのを、人質になった三人にすべての責任があるという言い回しで使われている向きもあけど、そりゃ言い過ぎでしょうね。
自己責任というのは、危険な場所に自らの意志で飛び込んで行くときに、降りかかった災難は自分で引き受けざるを得ないということだ。つまり自己の安全への配慮と判断に対する自分自身の責任ということであって、第三者が引き起こした行為の責任の多くはその行為者にある。
 つまり日本人三人が誘拐されて人質となった責任は、彼らにもいくらかはあると思うけど、責任の多くは誘拐グループにあり、その他に事件に影響を及ぼしている要因として、ファルージャでの戦闘、自衛隊の存在、そして米国のイラク戦略と戦争などもある。
 彼らにとっては思いもしなかった災難だし、政府が誘拐グループの理不尽な要求に応じられないと決定したことで、災難の度合いがいっそう増大してるわけだから、彼らに対しそれ以上のことを言えるものではないでしょう。

朝日新聞 (2004/4/14)
イラク人質事件の家族たちは14日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で、記者会見に臨んだ。家族たちは「世界に迷惑と心配をかけた」として謝罪するとともに、3人の救出のために世界のメディアに協力して欲しいと改めて訴えた。

 バッシングの合唱に負けたかな。
 ほんとうはこの特派員協会でやったようなスタンスを、いま外国人記者の前ではなく、最初から日本のメディアでやってたらよかったのだろう。
 でも「世界に迷惑と心配をかけた」というのは、外国人に通じるのかな。心配をかけたというのはそうだとしても、迷惑というのはほんとうはちょっと違う。

悪いニュースによってわれわれは、「他人の不幸」という資本を蓄積することができる。考えるのもつらいことだが、人は他人の不幸を楽しむものだ。カタストロフのニュースは情報を伝えるにすぎないのではなく、惨事は遠方で良かったという気持ちを起こさせるのだ。カタストロフの見物人は他人の苦しみを楽しむのではなく、自分とカタストロフの距離を楽しむ。(中略) まさに「向こうの方」での苦しみを被害なしに楽しめるということの埋め合わせとして、ショックを受けたという態度が必要になる。ショックだというのは、マスメディアの情念形式にほかならない。(『意味に餓える社会』N・ボルツ)


 「迷惑をかけてる」と迷惑顔をしてみせるのも、また「三人の命を救え」と叫んでみせるのも(デモの写真で、参加者の何人か笑ってした)、ショックだという態度表明のバリエーションなのだろう。それぞれは何のことはない、自己の政治的スタンスや単なる好き嫌いに由来するものであるが、それと同時にその態度は社会化されている。つまり「世間ではこうする」という具合に、人々はある状況ではそれに応じた態度を示すことが決められているが、それに従った振舞いを自ら行い、そして相手にも要求しているということ。日本でのそれは、例えば政治家や経営者が不祥事を起こしたときに言う、「ご迷惑をおかけしました」といったようなものが代表的だ。もうひとつは、社会的事件から臓器移植まで幅広く主張される「人の命を尊重せよ」というもの。そしてそれらはふつう、マスコミが社会的正義を僭称代弁して、非難をしたり詫びや釈明を要求したりするパターンとして提示される。
 つまり「迷惑をかけてる」というのは、誘拐された三人と家族を断罪せよということ意味し、それによって誘拐された三人が被害者であることを忘れ去り、それどころか迷惑をかけた加害者に置き換えられる効果がある。また(家族は除き)「三人の命を救え」というのは、人命軽視として政府を糾弾することによって、「自衛隊の撤退」が誘拐グループの要求であることを隠蔽し、自分たちの左翼市民団体的主張に添った結論に導こうとするものなのだ。
 ただ、政治的な意味合いなどなしに、単に可哀想だから命を救ってほしいという人には、誰も何も言う筋合いなどないし、何も考えてない人間だなどと言われる必要など全くないと思う。何も考えてないというのは、自らのルサンチマンやイデオロギーを社会化されたパターンに乗せて正論ぶって声高に叫んでいるだけの人間についてこそ、言えることなのだから。

 とは言え、人間はふつう社会化を免れない生き物でもあるし、誰でも多少の偏りは持っている。だが世の中には社会化をされていないで、ものの見方も偏ったどころか逆さまになっている大人もいる。それが「父の掟」(社会の掟)を排除・否認しているパラノイアや倒錯者などだ。彼らは不幸な出来事との距離ではなく、他人の不幸そのものを享楽する。そしてその享楽を持続させ、より能動的に楽しむために、いろいろなこと、例えば被害者の掲示板の荒らしや、家族への嫌がらせ電話などを行なう。

 
記者会見の記事の中にあった、
  郡山さんの母きみ子さんは、郡山さんが戦地の子供たちの笑顔を撮影
  していたことなどを紹介し、「うちの子は自己責任と言われたら
  その通りだが、命がある限り救って欲しい」と訴えた。

というのが、しんみりくる。

       *

自作自演説、マスメディアでも言い出すところが出てきてるみたいで、ほんとバカみたい。12日のタイトル「パラノイア化する社会」の後ろに"?"をつけてたけど、必要なさそうなのでもう取ってしまった。

1/3は自業自得 とか

2004年4月13日
(別のWeblogに移行)
(別のWeblogに移行)
 くそぅ、カラスにパンを取られたよ。スーパーで買い物した袋を自転車のハンドルにぶら下げておいて、コンビニで別の買い物をしてたら、その間に・・・。コンビニの外に出たら、スーパーの袋が落ちてて、カラスがパンをくわえてた。たぶんチャリのハンドルにとまって、嘴で袋を突っついて落とし、転げ落ちたパンの包装を破ったのだろう。 貧乏人から盗むなよ、もーっ!

       *

 日本人三人は解放されるらしいけど、いろんなところで大騒ぎしたのが効いたのだろう。直接の働きかけはイスラムの宗教指導者だろうけど、それもアルジャジーラの効果が大きかったのだろうし、あと元々のイラクの対日感情なんかも影響してたのかもしれない。

 ルワンダ内戦後にも日本のNGOが入って、難民キャンプなどで支援活動をしていた。当時まだ情勢が安定してなかったので、PKOで派遣された自衛隊の隊員がNGOスタッフの護衛に当たったりして感謝されていた。もしあのときにNGOのスタッフが誘拐されるようなことがあったら、やはり今回のようなリアクションが起きたのだろうか。

 内戦や戦争で被災し助けを必要とする人たちがいて、そういうところで援助をしようというNGOなら、ある程度危険な目にあうのは覚悟の上でしょう。今回だって殺されてもおかしくないわけだし。ほんらいなら誘拐の被害者なのに、なぜか迷惑あつかいされてる。どこに行こうといいじゃないの。

 今回の出来事で「迷惑をかけてる」というのを大上段に振りかざしてる人たちは、いったいどれだけ迷惑をこうむってるっていうのよ。
 ちなみに、私なんかは別に迷惑はかかってないけどね。パンを取ってったカラスの方が迷惑かも。迷惑をかけてると言う人が、もし日本国政府や日本国民を代表したつもりなのだとしたら、偉いんですね って感じ。政府は、邦人保護は「仕事の内」だから仕方ない。ていうか、その仕事を作ったのは誘拐グループなのだけど。
 確かにちょっと腹の立つイヤな気持ちだけど、その感情は主に誘拐グループに向けられてます。(その他に、イラクでドタバタ紛争を起こす原因となった米英の戦略とか、あと、辿ればサダム・フセインにもあるけど。)

 かなり誤解されるかもしれないけど、今回の事件は、当事者でないなら、誘拐グループの無理難題の枠組みに入らない方がいいんじゃないかと思う。こういう無茶な要求は、例えばコイン投げで「表が出たら僕の勝ち、裏が出たら君の負け」というのに似ていて(どっちにしろ負ける)、そのロジックの枠に入ってしまうと非常に精神的に悪く、答えを見つけられなくて苛立ったり、ヘンな答えを出してしまったりする。それで、枠の外にいて、答えは出さないのがよいです。でも、もしかして三人は殺害されるかもしれない。けれどそれは、気の毒でかわいそうだけど、どうしようもない。直接誘拐グループに影響力のあるところにメールでもできるならいいけど、それもできないし、アルジャジーラにはジャーナリストのグループや関係者がメールを送ったりビデオ出演してるし。ただじっと待ってるしかないと思います。

 あるメーリングリストで「こうすべきだ/そんなのダメだ/撤退すべきだ/危険な所に行くのが悪い etc.」と意見が衝突していて、無理難題を受け止めてしまった苛立ちみたいなものが込められていて、気分が悪かった。なかには「こうしていろいろ意見が出るのはいい」と言ってた人もいたけど、かえって意見が出ない方がいいと思った。(別に議論をするなって意味じゃなく、議論が対立するなかで自分の政治的スタンスを鬱屈とした心情に乗せて表明したいだけだから。それもクリシエばかり。)
 問題の枠の外にいて、無事解放されるのを期待して待つ。人の命がかかってるのに無責任だとか日和見だとか言われても、それしかないと思う。
 ただ、見ててそれはちょっと違うよというのがあったので、ここに感想を書いたりしてるわけだけど。
 以下、ちょっと疑問を感じたこと。

・批判したい対象から出発して、迷惑だと言ってる

 人への迷惑は、It happens to you. たとえイラクに行ってなくても。

 迷惑だと主張する人は、
  ・自衛隊が撤退することになるかもしれないと苛立ってる人
  ・内閣支持率の下落が心配な人
  ・ボランティアやNGO活動そのものが気に入らない人
  ・彼ら人質の左翼市民グループ的スタンスが気に入らない人
  ・人の迷惑行為さがしに熱心な人
ということなんでしょうね。批判したい対象が先にあって、そこからものを言うという逆さまなことやってる。そういうのはご都合主義だから、条件(捕まった人間の職業など)が変わったら別なことを言い出したり。

・誘拐グループの無理難題を利用しない

 誘拐グループの自衛隊撤退要求を「イラク派遣の自衛隊は撤退すべき」という主張や運動に結び付けるのは間違っていると思う。「それはそれ、これはこれ」の関係。

 だから今回の件で市民グループが運動として、救出のための自衛隊撤退の署名を集めたり、政府にFAXやメールを送ろうと呼びかけていたのは疑問に思う。いや、署名してる人たちに全然悪い印象は持ってないけど。
 個人的には、自衛隊が汚い戦争の下請け業者となって、今イラクにいるのはおかしいと思ってるけど、それと誘拐グループのトンデモな要求を飲む飲まないとは話が別ということです。

因と縁と果−MEMO(1)

2004年4月10日
・因果論

 何か物事が起きたとき、人は因果関係を単純にして理解しようとする傾向がある。原因一つで即結果が生じたり、あるいは介在する条件(縁)をひとつくらいにして、すぐ結果がもたらされたことにするのだ。ふつうはそれを逆に辿って、これこれの原因(〜のせい)でこういう結果が起きたのだ、という風に解釈されることになる。
 でも実際は、それでおよそ言い当てられることもあれば、そう単純な話では済まないことも多い。というのは、ある原因からある結果が生じるまでには、さまざまな要因(縁)が介在していることが多いからだ。
 それともうひとつ、原因−結果関係は必然を想定しているけど、必ず偶然の入り込む余地があるということ。偶然に起きたことは、しばしば合理的な説明を困難にするし、また事象の複雑性を増大させる。この複雑性を縮減する方策としても、誰それのせいでそうなったというように、原因を個人に帰することが行なわれたりするのだ。その方が話が分かりやすいし、あまり物事を考えずに済むからだ。
 マスコミというのが、複雑な情報を単純な因果関係に落として、伝わりやすくする機能を持っている。そのとき、明示的・暗黙的に示される「〜のせい」という原因を元に、ときには情に訴えて煽るという手段がとられる。感情的な昂ぶりも単純な因果関係と同様に、複雑性を消し去るのに有効に働く。新聞でいうと朝日から読売・産経にいたるまで、そしてテレビなども含めて、メディアはほとんどそうした部分を持っている。それは政治家の発言についてもそっくり当てはまる。マスメディアや政治家は「煽ってナンボ」でもあるのだ。煽りはしばしば自分たちの正義として語られる。(ということは、正義に反する者や勢力などの悪と対にされて語られor騙られる。) しかもそれは情を伴った一定のパターンに乗って、受け入れやすいかたちで送られてくるので、読者や視聴者や選挙民もそれに同乗して正義を主張することができるようになっている。

 情が悪いというのではない。思考に情はあって当然なのだが、それがコンプレックスなど何か鬱屈とした心情となって無意識に沈潜していて、絶えず放出の機会を窺っているというのが問題なのだ。

 縁という言葉は、「何かのご縁で」とか「縁としか言いようがない」などと言われたりすることがあるように、偶然に生じた関わりも含まれる。(ただし縁というのは、結果の良否に関わらない中立的な言葉である。)つまり物事の生起には、<因>があってそれにいくつかの<縁>が作用して、そして<果>に結ばれるのだが、多くの場合、文脈として<縁>を読む必要があるということです。

 以下、これらに関連したこと。

・回転ドア事故は母親に責任にがあるのか?

 六本木ヒルズの回転ドア事故について、母親に責任にがあるという話も出てるみたいで吃驚した。手をしっかり握って離れないようにしてなかったからだって。じゃあ、手錠でもかけて繋いでおけというのか。だいたい、街なかの商業施設やデパートを一人や友だちと歩いてる6、7才くらいの子供なんか、べつに珍しくもないっていうのに。それに六本木ヒルズって、親が絶対子供の手を放してはいけないくらい危ないところだったということなのか? たしかに危ない場所だったわけだけど、そんな認識を誰も持っていないからみんな行くわけだし。それにふつう6、7才くらいの子は、マザコンなら仕方ないけど、常時親と手なんかつないでられないだろう。親だって事情は同じだろう。べつに手をつないで川を渡るわけじゃないんだから。
 要するにつまり母親に責任があるというのは、全くピントを外してる、現実を無視した空論なのだ。それどころか、もし親の責任ということにして回転ドアをそのままにしておけば、必ずまた被害者が出るだろうから、何の問題解決にもならないのだ。

 親の監督責任を持ちだすのは、それによって技術と安全の問題やバリアフリー、そして回転ドアを設計に採用したことの可否といった問題を抜きに、話を単純なものにおとし込むことができるからなのだろう。
 でも実はそういう人たちは、常日ごろから何らかの思い込みやイデオロギーや心理的事情によって、親の責任を言い出せるような機会を待ちわびているのではないか。自分はそういうミスをしない立派な親である(あるいは親になる)ということを言いたいために。
 そして親にも責任があるという人たちの主張は、マスコミ批判とセットになっていたりする。いわく、マスコミはここぞとばかりにメーカーやビル側ばかり叩き過ぎる云々と。
 でも新聞記事を読んだ限りでは、不当な書き方はしてなかったと思うし、(前にも書いたとおり)どう考えてもメーカーやビル側のに非がある。
「もはや国民のスポーツと化したマスコミ批判」(N・ボルツ)という感じ。そうしてしたり顔でマスコミ批判をする人も、実は日ごろからそういうことを言いたくててウズウズしてるのだろう。
(下に続く)
1. 米国のディレンマ ― シーア派の主張も受け入れるかベトナム化か
2. 邦人誘拐と自衛隊
3. 戦争関連業務の民間委託と外国委託


1.米国のディレンマ ― シーア派の主張も受け入れるかベトナム化か

 イラク情勢が滅茶苦茶だ。もうベトナム戦争化の様相を見せ始めている。混乱が収まる方向に進む可能性もあるが、それは米国がシーア派に譲歩することでしか得られないだろう。今回の暴動は、新しい政府構想の過程で、統治者が国民の6割いるシーア派の力をできるだけ削ごうとしたためシーア派が反発して起きたものだ。だから、そこのところに戻らないと問題は解決しない。でもそれだと、米国は戦争を仕掛けて勝ったと思ったけれど、けっきょく負けに等しい結果になる。

 そうしないためには、反乱を徹底的に武力で弾圧するしかない。イスラエルがパレスチナでやってるやり方と同じ方式だ。実際既に米軍はイスラエルからいろいろ学習して、そのとおりのことをやっているようだけど、懲罰的に小規模では有効性があるかもしれないが、イラクのような大きい国の広い範囲でそれをやるわけには行かないだろう。それこそ、戦争の理由付け(屁理屈)として大量破壊兵器ネタが失効してしまったので、民主化ネタに切り替えて誤魔化しているのに、一般市民を巻き添えにして大規模に武力弾圧をやったら、何のために戦争をやって占領をしているのか、わけが分からなくなってしまう。今でも分かんないけど。
 それにシーア派は、今までは自分たちの意向が反映されると思っておとなしくしていたけど、そうでないなら立ち上がって戦うだろう。何より彼らは屈服しないだろうから、イラクは第二のベトナムになってしまう。ベトナムでのジャングルは、イラクでは都市になっていて、そこが反占領勢力の隠れられるようになってる。そしてモスクという神聖で犯しがたい治外法権のアジール(避難場所)だってある。それに一部でシーア派とスンニ派が協力して米軍と戦闘をしてるので、もし日中戦争の時の国共合作のように両派が全面的に手を結んで反乱を起こしたりすれば、ますます米英軍には勝ち目がない。もしそういう武装勢力を相手に戦うとしたら、立て篭もっていそうなところはモスクだろうが女性子供のいる家だろうが、ロケット弾を打ち込んで建物ごと吹き飛ばしてしまうしかない。急ごしらえとはいえ一応「西欧型民主主義!」の国を作るという錦の御旗に掲げてるのに、サダム・フセインのやったことに劣らないくらい残虐なことを本気でやるつもりなのかな。さらに内戦になったら世界中が混乱するし、米国もいろいろな意味でかなりダメージを受けることになる。

 つまりどっちに転んでも米国は勝てない。とりあえずは圧倒的な軍事力で制圧を試みるかもしれない。そして相手の力を探りながら様子を見て、もし勝てないと分かったら、多少はシーア派の要求を受け入れる用意があるとして交渉に入るのではないだろうか。
 米国の弱みは他にもある。巨大財政赤字、大統領選挙。諸外国もだんだん米国を相手にしなくなってきている。この戦争が汚い戦争だったというのが分かってきてるからだ。どう転んでもブッシュに勝ち目はほとんどない。大統領選挙はボロ負けになるのではないかな。

2.邦人誘拐と自衛隊

 そんな状況のところに日本の自衛隊がいるというのは、どうかしてる。それ以前に、そもそも「戦争ビジネス」のために起きた戦争と混乱のなかで、今あそこに自衛隊がいる必要などないのだ。軍事的占領という文脈から切り離された、純粋の「人道支援」なんてありえない。実際に米軍への輸送の請負もやってるわけだし。

 とは言っても、邦人を三人誘拐して、その生命と引換えに自衛隊の撤退を要求するというグループのやり口は悪辣だ。自分たちや家族が同じ目にあったらどうすんのよ。だいたい、別に敵対などしてもいない外国の民間人を誘拐したり殺害するなどということは、イスラム教の教義にも反するはずだ。
 それにしても、ほんらい邦人保護も任務となるべき自衛隊の海外での存在が、それぞれの滞在目的が違うとはいえ、逆に邦人三人の生命の取引材料にされるというのは、なんとも皮肉な話だ。
 ほんとうはイラクなど中東での日本のイメージは想像以上にいいので、日本人に対する攻撃というのは一般のイラク人の反感を買うリスクがある。サマワでのデモが中止された詳細な背景は分からないが、日本人−自衛隊相手にやりづらいという事情があったのではないかという気もする。でも部隊が移動中に石を投げられたりもしたようなので、米軍と同列の占領軍扱いもされているのだろう。戦争による占領といっても、国民国家同士の戦争で負けて正式に降伏文書に調印して占領というわけではなく、とくにシーア派にとってはサダムの軍隊と米英軍が戦ってサダムが負けたのであって、決して自分たちが負けたなどとは思ってないはずだ。サダムを追い出してくれたのはありがたいけど、そもそも何で米国人がこの国にいるのよ? って感じかな。要するに奇妙な占領なのだ。
 だから、もしイラクに行くなら、イラク国民からほんとうに歓迎されるような時期を選んでするべきなのだ。時と場所を間違えた今回の自衛隊派遣は、せっかく中東で良好な対日感情の貯金があったのを、食い潰すことになりそうなものだ。
 それ以前に、そもそもこの戦争と占領は、汚いビジネスによって起こされたもので、自衛隊員はその下請けをやらされているようなものなのだ。そこがおかしいところなのだ。

(下に続く)
(続き)

3.戦争関連業務の民間委託と外国委託

 ITビジネスとか介護ビジネスといった分野があるように、とくに米国と英国では戦争ビジネスというのが、相当な市場規模で想定されてる。要するに彼らは、その分野で巨大ビジネスが成り立つように戦争を画策し、実際にそれを起こしているということだ。そしてそれは、今まで「正規軍」によって行なわれてきた戦争関連の諸々の仕事の一部を、民間企業に発注(民営化)することによって成り立っている。
 有名なのが、チェイニー副大統領の関係してる「ハリバートン」という米石油関連会社とそのグループ企業で、イラク戦争と復興事業で既に1兆円を超える受注をしている。チェイニーはパパ・ブッシュ政権で国防長官をやっていたときにハリバートンに便宜を図り、それから同社に天下っている。そして辞めた今も、株や退職者報酬をもらっている。そんなモロエゴいことが許されるのが不思議だけど。
 そうしてみれば、ブッシュやネオコンの関心がアルカイーダやタリバンではなく、一貫してイラクにあったことも頷ける。国防長官のラムズフェルドが「アフガンよりイラクだ」と言ったというのも、石油の出ないアフガンではビジネスにならないからだ。
って、そんなことは誰でも分かってる話だろうけど。

 日本ではサラリーマンのことをビジネス戦士と言ったりするけど、米国の兵士たちこそ、その巨大な戦争市場の最前線で働くビジネス戦士なのだ。(もっとも、過去の戦争でも軍隊というのは、たいていそうした役割を担ってるけど。) そして200万円程度の年収と引換えに、命を張って「ハリバートン」などの軍事関連企業のために貢献するというわけだ。かわいそうに。でも地上部隊の兵士の多くは、黒人やヒスパニックその他社会の低層にいる人間なので、多少の犠牲が出たところで、政権中枢の連中にとってはべつにどうということはないのだろう。
 とは言え、あまり死傷者が多いと世論もうるさくなる。それで警護などの危険業務を傭兵に肩代わりさせることによって、公式の兵士損傷数を抑えるという方策が採られる。そうして「ブラックウォーター」のような特殊部隊上がりの傭兵斡旋会社にも、ビジネスチャンスが提供されるというわけだ。いまイラクには傭兵が約4000名いるとされていて、この前イラク中部のファルージャで殺された四人の民間人もその一員だ。
 それと民間委託とともに役割を期待されているのが、諸外国の軍隊なのだ。もし占領地の治安維持を下請けしてくれるなら、少しはおいしい目も見られるというわけだ。つまり日本の自衛隊も、下請け業者としてイラクに出張してるということになるのだ。戦争屋の下請けのために、日本の自衛隊員が命をかけたり犠牲になったりする必要は全くない。

 イラクに兵を送っている国はみな、そうした戦争ビジネスのおこぼれ頂戴組だ。でもほとんどは米国企業が独占気味で、英国もあまりおいしいところを貰えていないらしい。それで英首相のブレアはそのへんのことをブッシュに懇願するため、何度か足を運ばざるを得なくなっているということのようだ。ブッシュ政権は自分たちの利益確保が最優先だし、それにブッシュに政治資金を出さないようなところになんか、あまり金を落としてくれないのだ。

 けっきょくブッシュたちの動機が戦争ビジネスにあるので、儲かりそうなところ(イラクなど)で戦争を仕掛けられるなら、開戦の口実は何でも良かったのだ。実際大量破壊兵器がなさそうだということは分かっていても、チンピラがイチャモンつけるのと同じ。「ケンカを売る」と決めて因縁をつけてくるチンピラには、もういくら言い訳しても無駄なのだ。サダム・フセインもまったく自業自得だけど、眼つけられた相手も悪かった、といったところ。

 とはいえ、米国は戦費も経費も膨大になり、昨日のニュースに「新多国籍部隊参加を仏などに要請」とあったようにまた下請け業者を新しい名目で募集しようとしてるけど、そんな話に乗る国、出てくるかな。
 加えてシーア派の一部の反乱でますます手詰まりになりかけてきてるし、それにもし日中戦争の時の国共合作のように、シーア派とスンニ派が全面的に手を結んで反乱を起こしたりすれば、ベトナム戦争化してもう米英軍による占領も終わりだ。もしそうなって米英軍が出て行ったあとは、国連が積極的に乗り出す以外にないと思われる。そうでないとシーア・スンニ・クルドの間で収拾のつかない事態になるかもしれないから。もし自衛隊(もしくは国連平和維持部隊)に出番があるとしたら、そういうときこそなのだ。国内での宗教戦争戦や民族戦争は、反占領戦争などよりもっと一般市民には歓迎されない。降って湧いたような占領軍ではなく、内戦を防ぐ目的と復興支援とで自衛隊が行くなら、イラク国民に歓迎されるだろう。またそうした望まれる場面で登場して対日感情ももっと良くなれば、日本製品ももっと買ってくれる。それは戦争を仕掛けて物を分捕って仲間内で分け合う汚いビジネスなんかとは違う、古くからの正統なビジネスなのだ。
 早くイラクでのロクでない戦争屋ビジネスが破綻する日が来てほしい。

資料として、各社新聞記事、田中宇サイト等を参考にしています。
民営化で加速する戦争 イラク戦争1年(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040320/mng_____tokuho__000.shtml
民間軍事会社に秘密のベール…ファルージャ襲撃で注目(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20040404id25.htm
田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/e0406iraq.htm


<追加>
バスラのモスクでシーア派とスンニ派が合同で礼拝・集会をやったらしい。
もしかしてイラクでシーア派とスンニ派が手を結ぶ動きは、国内だけでなく、イラン(シーア派)やハマス(パレスチナ)やヒズボラ(レバノン)との連携も視野に入っているのかもしれない。そうなると中東全体の大きな動きになる。もうブッシュはどん詰まりだろうという認識かな。ブッシュが起死回生でドンパチ派手なバクチを打たなければいいけど。

<追加>
・邦人誘拐
犯行グループは、韓国人牧師たちは解放して、日本人だけ誘拐したということのようだ。もしアルカイダだとしたら、ちょっと嫌な感じだ。

日本はやっぱり米英と同列扱いされてきたのか。
デザイン・イラスト・写真系のサイトをいくつか。

OlgaLolo
http://www.olgalolo.com/
イラストが雰囲気あっていい。デザイナーというよりイラストレーター。ロシア・モスクワ。

Factory512
http://www.factory512.com/
ロシアのアーティスト・デザイナー。
いろんな意味で重い。良質のロシア的屈折。

weistudio
http://weistudio.com/
モノトーンなデザイン。米国か欧州のデザイナーかと思ったら、マレーシアらしいので吃驚。南国の人は原色系というのは、ステレオタイプなのかも。

APAK STUDIO
http://apakstudio.com/
どこの国なのか分からないけど、トップのシンプルなFlashからしておもしろい。イラストがたくさん。

OIKOS
http://www.oikosimagem.com.br/
ブラジルの Photograph Agency のサイト。
良質な写真を使ってシンプルに作ると、美しいサイトができるというサンプルのようなサイト。
 スペイン市民戦争が終わったころの、スペインのカスティーリヤ地方のある村が舞台です。緑も花の色彩もない荒涼とした大地と灰色の空の下で、ぜんたいに静かに進行するこの映画は、それに見合ったようにセリフもあまり多くありません。
でも口数の少ない大人たちとは違って、子供は元気です。 主人公のアナもショックで寝込むまでは元気でした。 精霊が住むと信じ通っていた廃屋のそばで、アナが風の鳴り聞こえてくる空に向かい、顔いっぱいに風を浴びてひとり遊んでいたシーンがとても印象に残ります。

 日記を始めるときにも書きましたが、"Spirit of the Beehive" という名前は、ヴィクトル・エリセ監督のスペイン映画『ミツバチのささやき』の英語タイトルに由来しています。
 この映画についてはだいぶ以前にも別なところで書いてるのですが、ちょっと違うところからあらためて短いのを少し。


 始まりは村にやって来た巡回映画の「フランケンシュタイン」から。そこに登場したモンスターと女の子が、実は精霊であるということ、そして村の近くに精霊が住んでいるという話を主人公のアナにしたのは、姉のイザベルだった。そうして映画の世界の登場人物が、空想の世界――アナにとってはリアリティをもった世界――へとスライドする。そのときイザベルは、精霊に会えるという呪文の言葉も教えている。ということは、もう精霊の存在など信じてはいないイザベルも、かってはその呪文の言葉を使って精霊を呼ぼうとしたことがあったのかもしれない。呪文の言葉が、秘儀として姉から妹に伝えられたということになる。
 言葉には力が秘められている。自然の威力や避けられない人の生死を前に、人間の無力さを感じていた古代の人々やアイヌ民族は、そう信じていた。その無力さへの絶望が精霊や神々を生みだしたのではないだろうか。そしてそれらへの呼びかけに、呪文や祝詞などが使われた。声を発する呼びかけによって、この世界に穴があけられ、声が精霊や神々へと届けられる。そして精霊や神々がそれに応答するという、交感の回路ができるのだ。仏教やキリスト教やイスラム教で念仏や神の名がとなえられるのも同様であり、また無力な子供が使う呪文や「魔法のことば」にも同じ意味が込められているのだろう。

 アナの母親テレサの心は、遠くに住む想いを寄せる男のところにあり、アナの住む家にはない。そしていつも手紙を書き続け、駅にでかけてはそれを託した列車を見送る。そのためアナにとって精霊は母の代理だったとも言え、そこでアナと精霊(母)との癒着への父親の介入を、エディプス期におけるそれとアナロジーでとらえるという考察もできる。(1)
 しかしアナは父フェルナンドの介入を拒絶し、失踪する。そして夜さまようなか、精霊と遭遇したところで倒れ、翌朝発見されて家で病床につくことになる。そのことを契機にテレサは遠くの男への想いを断ち切り、家での母と妻としての役割に戻ることになる。
 寝たきりになったアナも、夜中にはベッドから起きだして、窓のところで呪文をとなえて精霊を呼ぶ。そして精霊は汽車の汽笛とともにやってくる。
(1) そうしたエディプス的解説が既にどこかでなされていたかどうか、記憶が不明。
 倉林靖は『意味とイメージ』のなかで(ユング派の理論を援用して)、娘の「父」に向けられていた近親相姦的エロスを、「父」を拒絶することによって他の対象(ここでは精霊)へと向かったもの、つまり父権的存在の父親から遠ざかる娘アナというとらえかたをしている。
 また姉のイザベルを、精霊にたいする非対象的なエロスをすでに自己のうちに女性的なエロスとして内在化した者(通過儀礼を終えた少女)、アナを非対象的なエロスが自覚のないまま精霊に向かう者(通過儀礼の中途にある少女)、と説明している。

 子供は、かれらの書く詩なんか読んでも分かるけど、動いてるものや音を出すものを、まるで生き物のように見る傾向がある。アナが蒸気機関車に惹きつけられていたのは、そういうことかもしれない。対象への距離の近さや親密さを感じたり、またそこに「生きている」なにかを認めたら、ヒューヒューと風音を鳴らす空や、風に吹かれザワザワと揺れ動く樹木や、汽笛や轟音とともに走り抜ける蒸気機関車でさえ、精霊と思えてしまうなにか不思議なメタファーが働いている。そしておそらく古代人もまた、それに似た感覚を持っていたのではないだろうか。

 この映画は、今まで観た映画のなかでもいちばん印象が深いもののひとつです。

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